円佳の嘘
「お姉ちゃんには、未練があるから」
美門はごく当たり前のことを言った。
不慮の事故で若くしてこの世を去った人に、未練のひとつやふたつ、ないわけがない。
引っかかったのは美門の口ぶりだ。
出どころのわからない妙な自信が感じられて、それが僕を不安にさせる。
「あの日のことは覚えてるでしょ」
「もちろん」
円佳さんが現れた日を言っているのだろう。
「じゃあ、あのときのお姉ちゃんの顔は?」
「……笑ってたね」
こちらに戻ってきた円佳さんが最初に目にしたのは、恋人と自分の妹がキスをしているところだった。それを笑顔で認めていたのだ。自分のことは気にせずに続けて、とまで言っていた。未練とはかけ離れた態度だと思う。
「あなたはお姉ちゃんを裏表のない人だと思ってるでしょ。考えていることがすぐに顔に出るし、嘘なんてつけない、正直な人だって」
思っているから不安になるのだ。
美門の言い方は明らかに否定することを前提にしている。
(やめて、ミカちゃん)
押し黙っていた円佳さんが口を開いた。
静かで重くて、懇願するような響き。
しかし美門は止まらない。
言葉だけではなく、動作も。
ベッドから下りて僕の前に立つと、さらに一歩踏み込んできた。鼻先が触れるほどの近さは、あの法要の日を思い出させる。
違っているのは、僕の視界に円佳さんが入っていることだ。
吐息を感じるほどの距離で美門と向き合いながら、横目で恋人を見ている。
円佳さんは、笑ってはいなかった。
くしゃりと顔をゆがめて、だけど僕が見ている手前どうにか笑顔を取り繕おうとしたのだろう。どっちつかずの泣き笑いの、いびつな表情になっていた。
「わかったでしょ」
美門は後ろへ下がりながら、どこか得意げに言った。
「あの日のお姉ちゃんもこんな顔をしていたのよ。あたしにキスをされるあなたの後ろで」
(違うよ、これは……、違うから)
円佳さんは半身になって顔を背ける。僕と目を合わせたくないのだろうか。だけど、その瞳が揺れて、目尻から涙がこぼれるのを確かに見てしまった。
「あのときはあなたが振り返る前に、上手に切り替えることができてたけど。――でも、バレちゃったね、お姉ちゃん」
残念でした、と舌を出しそうな悪魔めいた口元。
おだやかな口調の中に、言いようのない嘲弄の響きが含まれていた。
「――だったら、あの言葉は」
わたしを気にせずにどうぞ続けて、と笑顔で語ったあの言葉は。
「ただの強がりよ。決まってるじゃない」
美門はそう言うが、僕にはあのとき、円佳さんの言葉をただの強がりと断定できなかった。そう言い切れるだけの材料がなかったからだ。……材料がない? 恋人というのは無条件で信じられる相手のことじゃないのか。
「あなたとお姉ちゃんは、もうキスくらいしてるでしょ」
こちらの動揺を無視して、むしろ後押しするように美門は続ける。
「じゃあ、その先はどう? わたしとそれをすれば、何か変わるの?」
(――ダメ)
円佳さんは僕たちの間に割って入り、美門を押し返そうとした。
それは初めての行動だった。今まで僕と美門を近づけようとしていた円佳さんが、初めて、逆に邪魔しようとしたのだ。
だけど、その手はなんの妨げにもならなかった。
美門をすり抜けて、つんのめってしまう。
「円佳さん」
僕の呼びかけに応じることなく、円佳さんは扉ではなく壁を抜けて部屋を出ていった。
痛いほどの沈黙のなかで、僕はまたしても自分の鈍さを思い知る。
移動範囲が限られている円佳さんは、そう遠くまでは行けない。探せばすぐに見つかるだろうが、追いかけることはできなかった。円佳さんの嘘に気づけなかったやつが、今さらどんな言葉をかけてやれるというのか。
振り返ると、美門はベッドに仰向けになっていた。だらしなく腕を投げ出し、眉間にしわを寄せている。
挑発するように見据えてくる黒い瞳をよけて視線を下げると、寝乱れたパジャマや、胸元の肌の白さや、鎖骨のくぼみや、肌の上を這い回るネックレスのチェーンが目に入ってくる。こんなときだというのに、それらの女性的なサインにひどく動揺してしまう。
目を逸らして声をかけようとしたが、かぶせてくるように美門が口を開く。
「――今日は来てくれてありがとう、うれしかった」
抑揚のない感謝の言葉は、もう帰って、にしか聞こえなかった。
翌日も美門は学校を休んだ。体調が戻っていないのだろうか。
僕のお見舞いは彼女の具合を悪くさせただけだ。
その結果にうんざりしながら過ごす一日だった。
円佳さんはこのまま消えてしまいはしないだろうかと不安を抱えたままの一日だった。
美門のためにはその方がいいのだろうかと考えて自己嫌悪に沈む一日だった。
それでは駄目だという結論に至るころには放課後になっていた。
このまま、何も言えずに終わってしまうのは絶対に駄目だ。
昨日の出来事が、古井河先生の言うところの〝時間では癒せない傷〟になってしまう。
全ての問題は、やはり未練なのだろう。
僕の、もっと一緒に過ごしたかったという悔恨は消えない。
美門にだって、伝えられなかった言葉があるのだろう。
円佳さんも、昨日の態度を見るかぎり明らかだ。
3人の未練が重なり合って、円佳さんをこの世に留めている。
確証はないが、確信していた。
放課後、職員室に顔を出した。
美門が休んでいる時点で結果などわかり切っているだろうが、自分の言葉で説明をするのがせめてもの義理だ。
古井河先生のデスクに近づくと、向こうもこちらに気づいて声をかけてくる。
「どうだった?」
「体調はまだ戻ってません」
「そうじゃないわ。心の方よ」
「すいません。余計にかき乱しただけでした」
「何かしたの?」
「何もできませんでした」
「なるほどねえ」
僕の言葉をどう解釈したのか、古井河先生はうなずいて足を組み直す。
「なるほどって」
「一緒にいると、お姉さんを思い出してしまう――」
心を覗かれたような気分だった。
まじまじと古井河先生を見つめてしまう。
「――そんなことを言われたのね?」
「……なんで、わかるんですか」
「わかるも何も、当たり前のことよ。彼氏と妹が顔を合わせたら、亡くなったお姉さんのことを思い出さないわけがないでしょう。気に病むことじゃないわ」
当たり前のこと。その言葉で思い知る。
なまじ幽霊というインパクトの強いものが見えたせいで、僕たちは思い出すことを特別視しすぎていたのかもしれない。
「だけど、あいつは……」
「君のことが好きみたいだから気まずい?」
僕はまた言葉に詰まる。
「どうしてわかるんですか」
「わかりやすいからよ。気づいてなかったの?」
「最近まで」
「あら。……まあ、だからこそあの子も自然体でいられたのかもね」
古井河先生は優しげにつぶやき、一転、鋭い視線で見上げてくる。
「それで、君はいつまで、亡くなった恋人のことを引きずるつもりなの?」
「いつまで、って言われても……」
「あの子をそもそも異性として見られないというのなら、これ以上何も言うつもりはないけど。そうじゃないのなら、お姉さんを理由にして、美門さんを遠ざけるのはやめてあげて」
「でも、一緒にいると思い出してしまうし、あいつもキツそうなんです。それに、円佳さんへの気持ちを抱えたまま、美門のそばにいるのは、不義理な気がして」
僕はつい本気の弱音をこぼしていた。
なんでもお見通しという風な先生の雰囲気に乗せられたのだろう。
「忘れるどころか薄れることさえ、悪いと思っているのね。面倒くさい子ね君は」
「すいません」
「じゃあなおさら美門さんよ。あの子と一緒なら、忘れることはないでしょう?」
逆説的な提案は、なぜか僕の心にしっくりと来た。パズルのピースがピタリとはまったような、その手があったかと膝を打つような、雲間から光が差したような、そんな感覚だった。
しかし、あくまでそれは自分にとってのものだ。
相手がどう思うかはまた別の問題である。
「……それはそれで、なんかあいつを利用しているみたいじゃないですか?」
「そこは要相談よ。話もしないうちから諦めないの」
古井河先生は顎に手をやり、少し考えるような間を取る。
「だけど……、今はまだつらいというなら、少し、距離を取ってみるのもいいかもしれないわね。ああ、言っておくけど、距離を取るのと、つながりを断つのは、まったく違うことよ。電話でもアプリでもいいから、連絡は取り合わないと」
「そうですか」
「男はマメな方がモテるって言うでしょ。あれ、どうしてかわかる?」
急におかしな話になった。
「さあ……」
「常に相手との距離を測って軌道修正しているからよ」
「無人探査船みたいですね」
「そのとおり。宇宙も恋愛も広大無辺なのよ。手探りで進むのはお勧めしないわ」
恋愛、という言葉を否定しようか少し迷う。
「先生はどうして美門にそこまでしてくれるんですか」
教え子に対する教師の態度にしては、少し踏み込み過ぎている気がする。美門のつらい境遇を差し引いても。
僕の疑問に先生は顔をかたむけ、
「……強いて言うなら、趣味、かしら。東雲さんみたいにツンケンしている子って、つい世話を焼きたくなるのよね」
よくわからない感性だったので、曖昧にうなずくしかない。
ただ、その奇特な趣味には感謝するべきなのだろう。
おかげで、僕たちが前へ進むための、その手段をとる決心がついた。




