美門の嘘
(……あれ? なんでミカちゃんの部屋にいるの?)
円佳さんが現れた第一声がそれだった。
今までとは違う――そしてある意味では原点ともいえる場所に戸惑っていたようだが、ベッドで眠っている美門に気がつくと、顔を近づけて、そういうことね、とうなずいた。
(お見舞いに来てくれたんだ)
「はい」
(一瞬、寝込みを襲ってるのかと思っちゃった)
「またそういうことを言って」
僕は美門を見ないように顔を背ける。薄手のパジャマと、その上からタオルケットを一枚かけただけの無防備な寝姿は、どうにもこうにも。
(いいのよ、まじまじと見ちゃっても)
「またそういうことを言って」
(ミカちゃんの具合はどうなの?)
「寝不足で体調を崩したみたいだって、おばさんは言ってました」
(それってあたしと関係あるのかな)
「勉強のしすぎでしょう。テスト期間だし」
(大丈夫かな……)
「苦しそうには見えませんけど。起きてるときと違って穏やかな顔つきですよ」
(だよねぇ、ミカちゃん素材は抜群なんだから、表情を意識するだけでぜんぜん違うのに)
「そのアドバイス、突っぱねられたでしょ」
(そうなの。男子がウザいだけよ、だって)
「ああ……、すごく言いそうですね」
小声とはいえベッドサイドでしゃべっていたせいか、やがて美門は小さくうなって身をよじった。こちら側を向いた顔の、まぶたがうっすらと開く。
「ん……、あ、……はぁ?」
目が見開かれると、そこからの動きは素早かった。上半身を起こしつつタオルケットを引き寄せて身体を隠し、背中が壁に当たるまで後ずさる。
「なん、で」
「見舞いに来たんだ」
(おはよ、ミカちゃん)
美門は口を半開きにして僕たちを見上げていたが、やがて、深々とため息をついて膝を抱え、丸まるように顔をうつむかせた。
「……なんで、勝手に上がってるのよ。誤魔化せないじゃない」
「部屋のこと?」
僕は短く聞いた。
気づかないふりをしてもよかったが、美門の方から白状してしまった以上、それは望まれていないらしい。
美門の部屋はシンプルな内装だった。配色は白と黒のモノトーンで、調度品も必要最低限のものしか置かれていない。そんな、あるじの性質がよく現れているこの部屋は。
法要の日に円佳さんの部屋と称して案内された場所だった。
美門の誘いは嘘だった。
姉の部屋だと偽って、自分の部屋へ僕を招き入れたのだ。
もっとも、その企みは、全く予想しない形で覆されてしまったわけだが。
「気持ち悪いって、思ってるでしょ。姉の法要のあとで、その彼氏を騙して、自分の部屋へ連れ込むとか」
「ミカ」
「アダルトビデオかって話よね、そりゃお姉ちゃんも化けて出てくる――」
「美門!」
大声でさえぎる。
自分を貶める美門の言葉を、これ以上聞きたくなかった。
美門はびくりと肩を震わせ、怯えたような顔でうつむいてしまう。いつもと違って弱々しい彼女に、僕は静かに声をかける。
「具合が悪かったら気分も落ち込んで、ネガティブなことばかり考えてしまうものだよ」
感情が沈んでいるのは体調のせいだと思い込んでほしかった。
「あとこれ、学校のプリント、机の上に置いてるから」
「……古井河先生?」
「そうだよ。心配してた」
「成績が落ちてるって?」
「そんなことは――」
ない、あの先生は本当に美門のことを心配しているのだ、と伝えるより先に、円佳さんが虚ろな声を出した。
(そう、なの?)
その声があまりにもがらんどうだったから、円佳さんが発したものだと信じられなかった。
(でも、この前は大学だってA判定だったって言ってたのに……)
その瞳は美門の方を向いているが、どこにも焦点が合っていない。
(……あ、そっか。成績が落ちたのは、あたしが見えるようになってから、なんだよね)
しまった、という表情をすぐに苦笑で塗りつぶして、美門は首を振った。
「確かに今は少し調子が悪いけど、お姉ちゃんのせいじゃ――」
(寝不足で体調を崩すなんてこと、今までなかったよね。ミカちゃん、あたしと違って早寝早起きだったから……。そういうリズムが崩れたのも、あたしが負担だったからじゃないの?)
否定の言葉は出なかった。
円佳さんが亡くなってから、少なくとも表面上は、美門の生活態度は変わらなかった。帰りが遅くなることもなく、成績が悪化することもない。
本当は、変化がないことこそが異常なのだが、僕も含めて周囲の人間は自分の動揺を抑えるのに必死で、美門の変わらなさを気にかけることができなかった。
むしろ美門は、そういう風に振る舞うことで、自分は大丈夫だからと、周囲に心配をかけないようにしていたのだろう。
そのバランスは皮肉にも、円佳さんの出現によって崩れてしまった。
もっと早くに気づくべきだったのに、僕は奇跡のように現れた恋人に目を奪われて、美門の変調が見えなくなっていた。
美門よりも円佳さんを優先していたのだ。
生きている人間よりも、触れられもしない幽霊の方を。
立ち尽くしたまま、言葉が出ない。
何かしゃべらないといけないのに、そのために来たはずなのに。
どうしてこんな――、片方を認めたら、もう片方を否定してしまうような、二者択一めいた状況になっているのか。
今の僕は、どちらか一方に転がらないようバランスを取るふりをして、決定的な言葉を避けている、責任逃れの玉乗りのピエロだった。
(ごめんね)
とうとう円佳さんに、その言葉を口にさせてしまう。
(幽霊になって戻ってくるなんて、こんなこと、いつまでも続かないだろうと思ってた。だからあまり気にしてなかったんだけど……、ミカちゃんを苦しめるくらいなら、すぐにでも消えたいよ)
「嘘」
美門は短く鋭く、円佳さんの謝罪を否定した。
「消えたいなんて嘘」
(嘘じゃない)
円佳さんはかすれるような声で首を振る。
妹を苦しめていることを責められることはあっても、消えたいという言葉を否定されるとは思っていなかったのだろう。
「それじゃあ言い換えてあげる。消えたい気持ちより消えたくない気持ちの方が強いのよ」
僕の知らない何かを知っているような断言だった。
「お姉ちゃんには、未練があるから」
重荷を下ろしたような晴れやかさを、その表情に確かに見た。




