百日目の再会
色とりどりの花で満たされた棺の中に、円佳さんが横たわっている。
東雲円佳は二十歳という若さでその人生を終えた。
葬儀には大勢の人が訪れていたが、特に彼女と同世代の、若い人の姿が目立つ。僕もその中の一人として、斎場の片隅にたたずんでいた。
バイト先の同僚という、微妙な身分での出席だ。円佳さんのご両親とは面識がなく、あちらも娘の交際相手など知らなかっただろう。こちらから恋人ですと名乗り出るのも場違いな気がした。
それに、親族の近くに席を用意されたとしても、〝遺された恋人〟らしい振る舞いはできそうになかった。悲痛な表情を浮かべることも、涙を流すことも、彼女の名前を呼びながら棺にすがりつくことも。そういう行動がこの場にふさわしいんだろうなと、頭で考えている時点でそれはただの芝居だ。
喪服の黒、式場の白、すすり泣く声、家族の言葉、友人の言葉、僧侶の読経――粛々と進められるセレモニーを、僕は他人事のようにぼんやりと眺めていた。
みんなすごいな、ちゃんと受け入れているのか、と率直に感心する。
そうではない人だって、少なくとも認めてはいるのだ。東雲円佳の死を。あと少しで彼女の身体が灰になることを。もう二度と会えないことを。
出棺のとき、円佳さんの妹の美門と目が合った。
――来ないの?
視線での問いかけに首を振って、斎場を後にした。
円佳さんの煙が昇るところを見てしまうのは、何かが決定的に終わってしまう気がして嫌だった。残された者にはそういうものが――決定的な終わりが必要なのかもしれない。大切な人の死を受け入れて、先へ進むための区切りとして。
よく聞く話だし、理解もできる。
それでも僕は見たくなかった。
円佳さんのいなくなったその先へ、進みたくなどなかったのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
だからといって積極的な行動を取ることもなく、気づけば数か月が過ぎていた。
久しぶりに時間の経過を意識した、そのきっかけは美門からの誘いだ。
「百箇日の法要?」
「そう。その名のとおり、亡くなって百日目の供養をするのよ」
「僕が行ってもいいのかな」
葬儀のときは、式場の片隅で遺族席をぼんやりと眺めているだけだった自分が、身内だけの特別な催しに招かれてもいいのだろうか。
「お姉ちゃんはよろこぶと思う」
ためらう僕に、美門の後押しはとても効果的だった。
そう言われると、行かないわけにはいかない。
仏壇に置かれた遺影は、葬儀で使われていたのと同じ写真だった。写真の中の円佳さんは変わらないが、ご両親の方は式場で目にしたときよりも小さく見えた。
僕と円佳さんの関係を語る気にはなれなくて、ただ「バイト先の同僚です」とだけ自己紹介をした。ご両親の表情がわずかにゆるむ。それは例えるならば、お父さんと結婚すると言い張る幼い愛娘に向けるような、やさしさの裏に気遣いを隠したほほ笑みだった。きっと僕のことを、年上の女性に憧れていた若者とでも思われたのだろう。
「――お姉ちゃんの部屋、上がっていきなさいよ」
ご両親に頭を下げて帰ろうとしたら、玄関口で美門に呼び止められた。
怒っているようにも聞こえる平坦な声。笑顔ばかりを思い出す姉の円佳さんとは対照的に、妹の美門は表情の変化に乏しい。だが、決して姉妹仲は悪くなかった。円佳さんは妹をかわいがっていたし、美門も姉の話をするときは口調がやわらかかった。
『ミカちゃんに手を出しちゃダメだからね。でも、学校で何か困っていそうだったら、あたしの代わりにキミが助けてあげて。あの子、いつもひとりで抱え込んじゃうから』
姉はそんな風に妹を心配していた。
『お姉ちゃんを悲しませたら許さないから。……まあ、ありえないか。あなたにとっては宝くじの一等賞みたいなものだし。運良く手に入った、本来なら釣り合わない相手って意味よ』
妹はそんな風に姉を持ち上げていた。あるいは僕を貶めていた。
そんな思い出はともかく、円佳さんの部屋である。
部屋の主と二人きりで過ごすことは永遠に叶わないのだとしても、もちろん興味はあった。美門の後について二階へ上がる。
「今まで入ったことなかったでしょ」
二階には、廊下の手前と奥、二つの部屋があった。それぞれドアには木製のプレートが吊り下がり、部屋の主の名前が彫られている。美門は手前の『まどか』と名前の入ったドアを開けた。
その室内の印象は、円佳さん本人のイメージとは大きく違っていた。
物が少ないシックな内装で、配色は白と黒のモノトーン。円佳さんの好きな色は淡いピンクで、身に着ける小物などもかわいらしい系統のものが多かったので、ぬいぐるみひとつない部屋の簡素さは意外だった。
そういったイメージのズレは別として、故人の部屋がきちんと整頓されていることに、居たたまれなさを感じてしまう。きっとタンスの中身もきれいに畳まれているのだろう。もう着られることのない衣服たち。それだって不滅ではない。見えないところで虫に食われたりして、少しずつ朽ちていくのだ。
ぼんやりと、特に何を見るでもなく部屋の中を眺めていると、いつの間にか真正面に美門が立って、こちらをじっと見据えていた。にらまれているのかもしれないが、彼女は基本的にいつも不機嫌そうな目つきをしているので判断に困る。
「……あ、ごめん」
僕は反射的に謝っていた。女性の部屋をじろじろ見まわすのは褒められたことではない。それをとがめられたのだろうと思った。
「別にかまわないけど」
今度はそっぽを向いて、肩にかかった黒髪を右手で払う。
そこで僕は、美門との距離がやけに近いことに気づいた。腕を伸ばさなくても触れられるほどの至近距離。あまり広い部屋ではないが、それにしたって近すぎだ。
美門は黙り込んでしまって、その場から動こうとしない。
「ミカ?」
と僕は呼びかける。馴れ馴れしいあだ名だと未だに思うが、そう呼べと強要されているのだから仕方がない。
美門はびくりと肩を震わせ、胸元に手をやった。制服のリボンを握りしめている。白い生地が波打ってできたしわが、ひび割れのように見えた。
顔を上げた美門と目が合う。
いつもは色白の頬が上気していた。黒々とした瞳は黒曜石のように艶めき、揺れている。
「ごめんなさい」
「……何が」
「あなたに言ったんじゃないから」
「じゃあ、誰に――」
――向けた言葉なのかと尋ねるより早く、美門が一歩ふみこんでくる。両手が伸びて僕のワイシャツをつかんだ。彼女の顔がぐんと近づいてきたのはつま先立ちをしたから。
唇が重なって、離れていくまでの一部始終を、僕は目を開けてずっと見ていた。
まぶたを開けた美門と視線が重なる。
「今のは……」
「あいさつでこんなこと、しないわ」
美門は拗ねたように顔をそむける。
この行為の意味などひとつしかない。
美門の想いを意識すると同時に、焼けるような罪悪感が広がっていく。円佳さんへの気まずさは確かにあるが、それ以上に美門への申し訳なさが強かった。
いつから好意を持たれていたのだろう。
円佳さんが亡くなったあと?
あるいはもっと昔……、円佳さんと知り合うよりも前からだとしたら。
僕と円佳さんの付き合いを、美門はどういう気持ちで見ていたのだろうか。
かける言葉に迷って立ち尽くしていると、美門は意を決したように顔を上げた。
「お姉ちゃんは、もういないけど、わたしは――」
不意に言葉が途切れて、美門は今までに見たことのない表情をした。
僕を見据えていたはずの目は、虚空に向けて見開かれ、
決意を告げていたはずの唇は、言葉を失って震えている。
美門の視線を追って、僕はゆっくりと振り返った。
そこには、あの日と同じ姿の彼女がいた。
肩口で切りそろえられた栗色の髪に、珊瑚色のルージュの唇。大きな瞳は隠しきれない好奇心とイタズラ心で輝いている。桜色のダッフルコートの中に、女性的な身体にフィットする黒いワンピースを着こんだ姿は、ファッション雑誌のワンカットのように決まっている。ただし、季節さえ間違っていなければの話だ。
今はもう七月で、制服だってとっくに夏服に切り替わっているのに、彼女のよそおいは完全に真冬のものだった。永遠に別れたあの日のままだった。
暦の上では春だけれど、冷え込みはまだまだ厳しく、コートなしではとても外を歩けなかったあの日。
百日前に亡くなったはずの東雲円佳が、あの日と変わらぬ姿で立っていた。
彼女は生前と同じく、穏やかで余裕のある、年上ぶった笑顔で言う。
(あたしは気にしないから、どうぞ続けて?)