愛する坊ちゃまのためならば、メイドはなんだってできちゃいます♡
リーデルシュタイン家の使用人、エリゼはまさに完璧なメイドであった。
後ろで緩く纏められた鳶色の髪は綿菓子の様にふわふわとしており、声はミルクチョコレートのように甘く、その眠そうな目で見つめられれば、誰もがだらしなく表情を崩してしまう程に美しい。
だが完璧なのはもちろん見た目だけではない。
彼女はこの広い屋敷の掃除、炊事、洗濯、その他諸々の雑用のほとんどすべてを一人でやってのけているのだ。
ゆっくりとした所作でありながら膨大な仕事を難なくこなすエリゼを、「錬金術に傾倒していた先代当主による人工生命体に違いない」などと冗談半分に噂する者もいるくらいである。
しかしそんな完璧なエリゼにも大きな弱点があった。
「ああ坊ちゃま、今日も今日とて大変麗しゅうございます」
普段にも増してとろけるように甘い猫なで声を上げながら、エリゼは少年を抱き、黒いメイド服を翻してくるくると舞う。
彼女の大きな胸のなかで埋もれるようにしている少年こそ、現当主にしてエリゼの主人、ディートリヒ・リーデルシュタイン。
彼の前でだけ、エリゼはそのビスクドールのように整った顔をドロドロに蕩けさせるのだ。
「や、やめ……窒息する!」
エリゼの胸の中で溺れかけたディートリヒが悲鳴にも似た声を上げてようやく、彼女はわざとらしく驚いた振りをしながら彼を絨毯の上にそっと降ろす。
「わたくしとしたことが、坊ちゃまを死なせてしまうところでしたわ。でもご安心くださいね、坊ちゃまが天に召されてしまった時は私もご一緒いたしますから」
「ほ、本当に後を追ってきそうで怖いなぁ。少なくとも今みたいな無理心中紛いのことはやめてよね」
ボサボサに跳ねた柔らかい金髪を撫で付けながら、ディートリヒは毎度の事ながら激しい朝の挨拶に苦笑をする。
その透き通るような碧い目を見ているうちに我慢ができなくなったのだろう。エリゼは溢れ出そうな感情に口元を震わせながら、再び自らの主人をその腕で抱きしめる。
「もっ……もがが」
ディートリヒは再び抗議の声を上げるも、その口はエリゼの柔らかな胸で塞がれて上手く言葉にならない。
それをいいことに、エリゼはディートリヒの柔らかな髪に頬ずりをする。
「実は今朝メイド服を新調したせいでどうにも落ち着かなくて……お願いします坊ちゃま、あなたのエリゼにマーキングしてください」
「なにやってるんだエリゼ!」
その声に、エリゼはハッとした表情をしてビクリと体を震わせる。
エリゼを咎めたのは、ディートリヒの右腕、執事のエドワードだ。彼もまた、ディートリヒとは別のベクトルでエリゼの弱点である。
「いい加減にしないか。メイド服がディートリヒ様を捕食しているのかと思ったぞ」
「ああっ、わたくしとした事が……ええと、おはようございます、バトラー」
「まったく、お前はあくまで使用人なのだ。あまり主人に対し失礼な態度を取らぬよう、再三言っているだろう」
エドワードの叱責に、エリゼは手を前で組みしょんぼりとうなだれる。
しかしエドワードがさらに口を開くより早く、ディートリヒが彼の燕尾服の裾を掴んで首を振った。
「あんまりエリゼをイジメるなよ」
「まぁ、エリゼを庇ってくださるのですか! 坊ちゃまは本当にお優しい方であらせられますわ」
「し、しかしディートリヒ様。私の目には、エリゼは最近ますます調子に乗っているように」
「それより、今日は視察の日だ。昼頃屋敷を発つから、準備を頼むよ」
ディートリヒの言葉に、エリゼはエドワードに叱られた時の数倍悲しげな表情を浮かべる。
「坊ちゃま、どこへ行かれるのですか? お菓子もお茶も、屋敷の厨房にたくさん貯蔵してありますのよ。クッキーだってトルテだって、食べきれないほど用意できますのに」
「お菓子を買いに行くんじゃないよ! 西の山に魔物が住み着いて領民が襲われてる。原因を調査して退治しないと」
「それなのですが……」
困ったように言いながら、エドワードはディートリヒに何枚かの紙を束ねた資料を手渡す。
それに目を通し、ディートリヒは怪訝な表情を浮かべた。
「ま、魔物が全滅? 一体どうして、いくら何でも急すぎる」
「イビルハウンドは邪悪な魔物ですから、共食いをしたか……あるいは冒険者が退治してくれたのかもしれません。ヤツらの肝は魔術師に高く売れるそうです」
「そう……か。まぁ、なんであれ大きな被害が及ぶ前に解決できて良かった」
「うふふ、じゃあ今日もエリゼは坊ちゃまと一緒に過ごせますのね」
エリゼはそう言って嬉しそうに笑う。
しかしディートリヒの仕事はなにも魔物退治だけではない。
エドワードはエリゼを急かすようにして言う。
「なに言ってるんだエリゼ。もうすぐお客様が来る。早く準備をしないか」
「まぁ! 誰ですか、その無粋なお客様というのは」
「例の強敵だよ……イビルハウンドよりずっと冷酷で邪悪な」
*******
「いやぁ、さすがは領主様のお屋敷。ご立派ですな。メイドさんもとんでもなく美人だ」
微笑を浮かべたエリゼを舐めるように見る太った男。
脇には屈強な男を二人従え、着ている衣は一目見てわかるほど上等な品だ。しかし香水では隠せない下品な匂いが、その男の周囲には漂っていた。
男は視線を下げ、目の前の金髪の少年を見下ろす。
「それに、こんな可愛いお迎えまで。坊ちゃん、領主様のところへ案内してもらえるか?」
「……私が領主のディートリヒ・リーデルシュタインです。無事に来られたようで良かった。あんまり遅いから迎えを出そうかと考えていたところです」
「へ? ……お若い方だとは聞いていましたが、まさかここまでとは。これは失敬」
苦笑を浮かべる男を、ディートリヒ自ら客室へと案内する。
上等な調度品の並ぶ客室に全くそぐわない下品で胡散臭いやつを好んで屋敷に呼びたいと思う者などいなかったが、ディートリヒは領主として彼に聞かねばならないことがあったのだ。
挨拶もそこそこに、ディートリヒはその男――「研究所所長」にこう切り出した。
「研究所近くで領民の行方不明が相次いでいるのはご存知ですか」
「ええ、悲しいことです。私共も夜間は兵を立て、不審者や魔物に用心はしていたのですが」
「異変は無かったと?」
ディートリヒの言葉に、所長は重々しく頷く。
「おかしいですね。村の周りで不審な男たちが彷徨いているのを見たという者が多くいるのですが」
「それは近くの村の者の証言でしょうか?」
「だとしたらなにか問題が?」
「いやぁ、ね。領主様はご存知ないでしょうが、下々の者の暮らしというのはそれはもう大変に辛く苦しいものなんですよ。かく言う私も生まれは貧しい田舎町でして、雨が降らず麦が取れないと、やれ食うものがないだの、やれ着るものがないだの、挙げ句どこそこの娘が売られていっただの、毎日そんな話ばかりで。それではあまりにも外聞が悪いので、表面上は行方不明ということにしていたようですが」
「……あなたは我が民が、自らの食い扶持を確保するために娘や妹や姉や妻を人買いに売り飛ばしたと、そう言いたいのですか」
「いやぁ、めっそうもない。あくまで私の昔話ですよ。ほらほら、そんな恐い顔をしないで」
所長は人の神経を逆撫でするようにヘラヘラと笑う。
そしておもむろにズボンのポケットに手を突っ込み、中から懐中時計を取り出した。
「さて、もう良いでしょうか。私どもも仕事が立て込んでいまして。貧乏暇なしってやつですよ」
「待ってください。本題がまだです」
「本題?」
「ええ。ぜひ一度、研究施設の視察をさせていただきたい」
「職場見学ですか、勉強熱心で素晴らしい。協力したいのは山々ですが、いかんせん我が研究所には機密情報と危険がぎっちり詰まっています。領主様を研究所にお招きするのは簡単ですが、五体満足でこのお屋敷にお返しすることができるかどうか」
「ならばなおさら視察が必要だ。そんな危険な施設が民家の近くにあるのを領主として見過ごすわけにはいかない」
「申し訳ありませんが、これ以上は『上』を通していただけますか」
所長は露骨に苛立ちを見せながら、うんざりしたように言い放つ。
領主に対する態度としては、あまりにも尊大である。もちろん、それには理由があった。
彼はディートリヒよりも強力な後ろ盾を持っていたのである。
「……薔薇十字団、ですか」
それは上級貴族が多数在籍しているという秘密結社の名前であった。活動内容や構成メンバーの詳細は謎に包まれているが、政界や財界、様々な場所で絶大な影響力を持っているとまことしやかに囁かれ、その権力は計り知れない。
研究所が立つ際、リーデルシュタイン家にかけられた圧力も、薔薇十字団によるものと仮定したならば納得がいく。
所長はディートリヒの言葉に返事はせず、下卑た笑みでそれを肯定した。
「それでは、失礼いたします。ああ、見送りは結構ですよ」
そう言い残し、所長は従者を連れて客室を後にした。
閉まった扉の向こうから、吐き捨てるようなドラ声が響く。
「ガキが。相手見てから喧嘩売れってんだ」
******
「坊ちゃま、トルテが焼きあがりましたわ」
「……」
「坊ちゃまの好きなサクランボを、いっっっぱい使いましたのよ」
「……」
「坊ちゃま、エリゼの焼いたトルテはお嫌いですか?」
「……好き」
「うふふ、ならお食べになりますね」
エリゼはにこやかに言いながら、サクランボがたっぷりと練りこまれたケーキを手際よく切り分け、ディートリヒに差し出す。
甘い匂いがディートリヒの鼻をくすぐり、ふわふわした焼きたてのトルテの熱は小皿を伝ってディートリヒの小さな手をじわりと温める。
「心配していましたのよ。お夕食もお召し上がりにならなかったし」
「……行方不明の領民が飢えているかもしれないって思うと、なんだか食事をする気になれなくて」
「坊ちゃまは本当にお優しい方です。でも坊ちゃまが食事を取らずお体を壊されたら、領民が悲しみます。もちろん、わたくしたち使用人も」
「そうだね、ごめん……父様が死んだときも、大変だったもんね」
ディートリヒは小さなフォークでトルテを口に運びながら、うつむく。
「父様が生きていれば、あんな奴らに負けなかったかもしれないのに。領民たちを、守れたかもしれないのに……」
トルテを頬張るディートリヒの頬を大粒の涙が転がった。
「坊ちゃま……」
「違うよ、これはエリゼのケーキがあんまり美味しかったから」
「うふふ、そうですわね。坊ちゃまが元気になるようにエリゼがケーキにおまじないをかけておきましたから、きっとそのせいですわ」
言いながら、エリゼはディートリヒをそっと抱きしめる。
彼女の腕の中で震えているときだけ、ディートリヒは領主ではなく普通の10歳の少年に戻れるのだった。
そしてエリゼの胸の中はディートリヒへの愛と、どうにかして彼の笑顔を取り戻したいという気持ちで満ちていた。
ディートリヒのためならばなんだってできる。
エリゼは本気でそう考えていたし、そうするだけの行動力も持っていた。
******
「……それで、こんな夜に来られたんですか? こんな森の中をたった一人で?」
「ええ。お願いいたします、どうか領民をお返しください」
「妄想もここまで来ると恐怖を感じますよ」
日が落ち、東の空に月が昇るころ、エリゼは屋敷から遠く離れた森の中に位置する研究所の玄関の前にいた。
対応した研究所所長も、突然のエリゼの訪問にさすがに困惑の表情を浮かべている。
「……しかしこの時間に女性を追い返すわけにも行きませんね。とりあえず中へお入りください」
所長に促されて、エリゼは研究所の扉をくぐる。
その建物の中は、エリゼが想像していた「研究所」とは全く違っていた。長い廊下には上質なカーペットがひいてあって、壁には燭台や絵画までもが飾ってある。研究所というにはあまりに豪華で、この廊下の先には舞踏会の会場があると言われた方がしっくりくるようにエリゼは思った。
「しかし領主様も可愛い顔をして酷い方だ。こんなか弱い女性をたった一人で寄越すだなんて」
「いえ、ここに来たのはわたくしの判断です」
「それは……使用人としては規則違反なのでは?」
「ええ。でも領民を取り戻せられれば、ディートリヒ様はきっとお喜びになるはずですから」
エリゼが笑顔でそう言うのを、所長は困ったように眺めながら顎を撫でる。
エリゼ達はどんどんと廊下を進んでいくが、よほど大きな建物なのだろうか。歩いても歩いてもなかなか目的の部屋にはつかない。
途中で一際小さな扉をくぐると、そこには薄暗く飾り気のない道が続いていた。従業員用通路といったところか。しかしいくら進んでも、研究に使用するような道具も設備も出てはこなかった。
「しかしどうしてそこまで私たちを疑うのですか? そんなに怪しい顔をしているかなぁ」
所長の問いかけに、エリゼは困ったような笑みを浮かべて言う。
「なんて言ったら良いのかしら……匂いが」
「に、匂い? おかしいな、シャワーは浴びてたんですけど」
「うーんと。そういうことじゃ、ないんですの」
「よく分かりませんが……まぁ、良いです」
長く殺風景な廊下の先、頑丈な鉄の扉の前で所長はふと足を止めた。
所長は全身の体重をかけ、耳を塞ぎたくなるような音を響かせながら扉を開ける。しかし扉の先に広がっていたのはどこまでも続くような果てしない暗闇であった。
「ここは?」
「せっかくここまで来ていただいたんです、私どもの研究を是非見て行っていただこうと思いまして。さぁ入って入って」
促され、エリゼは暗闇に足を踏み入れていく。そして暗闇の中で、エリゼは驚いたような声を上げた。
「まぁ、こんなところに豚を飼っていますの?」
所長は目を丸くする。
エリゼをここまで案内した彼はもちろんその部屋に何があるのかを知っていたが、自分の足元すら見えないような暗闇だ。所長にはその部屋の全貌はもちろん、ほんの数歩先にいるであろうエリゼの姿すら視認することができなかったのである。
所長は壁に付いた装置を操作し、部屋に明かりをつける。
闘技場のような、丸い大きな空間。その壁には鉄格子が並んでおり、涎を垂らしたオークたちがエリゼの匂いを嗅ごうと鼻息を荒くしていた
明るくなってエリゼの姿が目に入るや、オークたちはますます興奮したように鳴き喚きながらエリゼの体を掴もうと、檻の隙間から手を伸ばす。
しかしエリゼは特に怯える様子もなく、養豚場の豚でも眺めるようにしてオークを見ている。
「ふん、度胸があるんだか無知なんだか……これ以上うちの周りをウロウロされると困るんでね。ちょっと痛い目見てもらいますよ」
「へ? どういうことですの?」
「こういうことですよ」
下卑た笑みを浮かべて、男は部屋の外の装置を素早く操作する。地響きのような音を立てながら、オークを閉じ込めている檻が上がっていった。
「えっと、大丈夫ですの? 豚が逃げてしまいますわよ」
「逃げるのはオークではなくあなたです」
戸惑うエリゼをニヤニヤと見つめながら、所長は部屋を区切る頑丈な鉄扉を閉める。
しかしここからでは鉄扉の向こうのエリゼの姿はもちろん、彼女の悲鳴すら確認することができない。
そんなもったいない事をしてはなるものかと、所長はその短い足を素早く動かして部下たちの待つ映像室へ向かった。
「おい、映像の用意しとけ。あのガキに送り付けりゃ多少は静かになんだろ。それでも駄目なら今度はあのガキにも豚の小便飲ましてやる。弱小とはいえ、貴族のガキとくりゃ変態共も喜ぶ」
映像室へ入るなり、所長は大声で部下に指示を出しながら一際大きなソファにどっかり座り込む。
もちろん事前に部下たちには連絡が入っており、準備はしっかりと整っている。
「しかし良いタイミングでした。オークたちの盛りが付きすぎて、檻を壊してしまいそうだったんです。お偉いさん方への初披露の予行練習にもなりますし」
「でもあんなの相手にしたら、あの女死ぬかもな」
部下たちは次々と下品な言葉を口にしながら下品な笑い声を上げる。
「それならそれで好都合だ。豚の餌代が浮く。さぁ早く映像出せ。鑑賞会と行くぞ。それから、なんか飲みもんくれ」
所長の合図で明かりが消され、大きな液晶に電源が入れられる。
しかし肝心の上映はなかなか始まらなかった。映像が映ることは映るのだが、酷く乱れていて何も見えないのだ。
「なにやってる、早く映せ」
「それが……カメラの調子が悪いのか映らないんです」
「馬鹿! 本番までもう一週間もないんだぞ」
「お、おかしいな。さっきまではちゃんと」
「チッ、グズが。おい飲みもんまだか!」
所長は悪態をつきながら、差し出されたカップを口に運ぶ。
しかしカップの中の液体を口に入れた瞬間、所長は盛大にそれを吐き出した。どこかで嗅いだことのあるその匂い、何とも言えない生臭さ。所長は床に唾を吐き、何度もえずきながら悲鳴にも似た声を上げる。
「なっ、なんだこれ!」
「豚の小便ですわ」
「は?」
気が付くと部屋は静まり返り、辺りにはただならぬ空気が満ちている。鼻に残る「謎の飲み物」の匂いとは別の、生臭い匂いが鼻を突くのを所長は感じ取っていた。
とにかく、視界を確保しなければどうすることもできない。
所長は明かりをつけるべくソファから飛び上がる。机に脛をぶつけるが、そんな事にかまっている余裕などない。
がむしゃらになって床を蹴る。ぐにゃりとした感触。何か踏んだようだ。また、ぐにゃりとした感触。また、また、また、また。
明かりを消す前、床に障害物があった記憶など所長にはなかった。
そしてようやくたどり着いた壁際。所長は手探りでスイッチを探し出し、それを押す。
ようやく手に入れた光が照らしだしたのは、部屋を埋め尽くす死体の山であった。
「あ……えっ……ひえっ」
突然のことに、所長は顔を白くして恐怖におののく。
しかし部屋の中には所長のほかにもう一人、まだ生きている者がいた。
エリゼである。死体に囲まれるようにして、エリゼがそこに立っていた。
鳶色の髪を、陶器のような白い肌を、黒いメイド服を赤く染めて。
「お、お前ッ……、いつの間に」
普段と変わらぬ柔らかな微笑を浮かべて、エリゼは所長に近付いていく。
しかしその両手には血の滴るナイフが握られている。
所長は上着の内ポケットから銃を取り出し、エリゼに素早く打ち込んだ。
「へへ……ざまぁみろ!」
装弾された六発の弾は、全弾エリゼの腹部に命中した。
しかしエリゼは倒れなかった。それどころか、血すらも流れてはいない。
「こ、このバケモノがッ!」
「いいえ、人間ですわ。あなたと同じ、悪党の匂いを発する、汚らしい人間」
平常と変わらぬ甘い声。
しかしその普段と変わらぬ様子こそが、所長に大きな恐怖を与えていた。
エリゼは所長の胸ぐらをつかみ、肉のたっぷりついた彼の体を易々と持ち上げる。
「攫った村人はどこか、お教え願えますか?」
「わ、分かった。この街から手を引く! 女も返す! だから――なんてなぁ!」
所長はエリゼの脇腹を蹴り飛ばし、彼女を床に転がす。
そしてそのままエリゼの上に乗り、どこからか取り出したナイフを振り上げた。
「この詫びはお前の主人に取らせる! 変態たちの前でひん剥いて、汚らしい豚の群れにぶち込んでやるからな!」
だが、エリゼは所長の振り下ろしたナイフを二本の指で止めて見せた。
「なっ……!?」
エリゼはそのまま所長のナイフをへし折り、ついでに彼の手首を掴んであらぬ方向に曲げた。
枯れ木を踏んだような音を立て、所長のまるまるした手がぶらりと垂れ下がる。
「あっ……あがぁっ……」
「もう少し痛い目を見ないと分からないみたいですね」
困ったように眉を下げ、エリゼは悶え苦しむ所長を担いで歩き出した。
彼女が向かったのはエリゼを最初に閉じ込めた、あの闘技場の二階観覧席。
「ひいいぃぃッ、嫌だ、助けてくれ。悪かった。女なら地下牢だ。まだ何にもしちゃいねぇ、無事だ。だから――」
「そうですか」
エリゼは何のためらいもなく、二階から所長を放り投げた。
肉の塊が地面に落下する重量感ある音と、ベキッという太い枝を折った時のような軽やかな音が聞こえてくる。
何本か骨が折れたのだろう。だが死んではいない。
しかし彼にとっての本当の地獄はここからだ。
音に反応して、オークが所長の方へと集まってきたのである。
「ああっ、嫌だ! 助けて、助けてくれ!」
所長は必死になって身をよじるが、骨が折れたせいでうまく動くことができないようだ。そうじゃなくとも、元よりこの部屋に逃げ場所などはない。彼がそのように作ったのだから。
惨めに助けを求める声は悲鳴へ変わり、しばらくするとそれすらも聞こえなくなった。
エリゼは階下を見下ろし、呟く。
「豚と豚がまぐわっている……あら、わたくしとしたことが、ものすごく普通のことを言ってしまいましたわ」
エリゼはメイド服の裾を翻しながらくるりと踵を返した。
彼女にはまだ仕事が残っている。一番重要な仕事――主人のため、主人が愛する民たちを解放しなければ。
地下へ向かう階段を降りながら、エリゼは嘆息した。
「ああ、また血の匂いがついてしまいました……メイド服を新調しなくては」
******
「ぼっちゃま、わたくしめにマーキングしてください!」
いつもの朝、いつも通りの激しい挨拶。
新品のメイド服を纏ったエリゼがディートリヒに抱きついている。
しかしディートリヒはいつになく真面目な顔だ。
「やめてくれエリゼ。今日はそんな事をしている暇ないんだ。支度してくれ、あの研究所に乗り込む!」
「あの、それがですね……どういうわけか失踪した村人が帰ってきたようで」
「止めようったって無駄だぞエド。もう決めた事……って、えっ!? 帰ってきた!?」
エドワードも困惑したような表情を浮かべている。その手には、先ほど速達で届いたばかりの手紙が握られていた。
「ええ、昨夜未明です。それほど詳しい情報が入ってきているわけではありませんが、全員無事で大きな怪我もないとのことです」
「そ、それは……何より喜ばしい事だが……」
突然の知らせに整理がつかないのだろう。
ディートリヒは大きく息を吐き、放心したように虚空を見つめている。
「うふふ、これで坊ちゃまは今日もエリゼと一緒に過ごせますわね」
「い……いや! 領主として、領民に直接今回の事件の事を聞きたい。事の次第によっては、研究所にも乗り込むぞ」
「ええっ! やめたほうがいいですよ、豚肉食べられなくなっちゃいますよ」
「豚肉……? とにかく、もうこんな事のないよう対策を考えるのが僕の仕事だ」
ディートリヒの固い決心に、エドワードは思わずといったようにハンカチで目頭を押さえる。
「さすがはディートリヒ様……! きっと御父上を超える名君になられます」
「ちぇー、今日も坊ちゃまとトルテを食べようと思ったのに」
エドワードとは対照的に、エリゼは不機嫌そうに呟きながらディートリヒの外出に口を尖らせるのだった。
領主は10歳の少年であるにもかかわらず、リーデルシュタイン家の収める領土はまさに平和そのものであった。
それはもちろん、領主のたゆまぬ努力と勉強の成果である。
しかし裏で領主をサポートする一人のメイドの活躍を知る物は少ない。
そして今日もエリゼは、愛する主人のためにその手を血に染めるのであった。