きみはそこにいた(7)
昨夜は気分良く飲みすぎた。ずきずきと痛む頭を押さえながら、レイジは重い足を引きずってナキリ探偵事務所のあるボロビルまで歩いてきた。
偶々店に居合わせた尖央大学魔法研究会の一人、富岡ヒロエにまんまと乗せられた結果だった。確かあの店の酒は、富岡酒店から卸していたはずだ。商売上手の酒豪相手ではどうしようもない。向こうも正体をなくすほどにぐでんぐでんになって、相方の丸川アユムが車で迎えにやってきた。
ついでに乗せてもらった車内で、アユムはおよそ考え付く限りのありとあらゆる罵詈雑言をヒロエに浴びせかけた。当のヒロエはそれを全く意に介さず、豪快に笑いながら更に缶ビールの栓を開けていた。後はもう、滅茶苦茶だった。
朝目が覚めたら、レイジまで一緒になってヒロエの家の離れで雑魚寝をしていた。どういうことかと悩んでいるうちに、アユムが台所に立って無言で朝食を提供してくれた。「どうする、今夜も飲みに行く?」「アホか! お前今日部活だろうが!」ヒロエとアユムの漫才のような会話をBGMに、熱いシジミの味噌汁がレイジの五臓六腑に染み渡った。
尖央大学魔法研究会の連中とは、レイジはそこまで縁が深い訳ではなかった。ヒロエとは個人的に、飲み仲間であり喫煙仲間である。宮屋敷の信奉者でないところも好印象だ。しかしヒロエとアユムの関係性に関しては、たかだか数年来の付き合いであるレイジにはさっぱり理解の範疇外だった。
事務所の扉の前に立つと、レイジはげっぷを噛み殺した。どうにも体調がよろしくない。今日は基本的に、ソファの上で寝っ転がっていよう。仲介士の仕事を果たしたお陰で、宮屋敷家からはかなり色の付いた報酬が払い込まれてきていた。新しい上司は実に気前が良い。当分は煙草の心配もしないで済みそうだ。
レイジの一日を怠惰に過ごすという緩い決意は、残念ながら一秒たりとも実現することは叶わなかった。
「おはようございます、百鬼さん」
元気な第一声に、レイジはぽかん、とだらしなく口を開けて立ち尽くした。ガラステーブルの上で、クロマルが首だけをレイジの方に向けて「にゃおう」と鳴く。なんだこれは。蛍光灯の光が眩しい。あれはいつ替えたんだったっけか。いや、それより部屋の中だ。そこにはレイジが見慣れたはずの、いつものナキリ探偵事務所は存在していなかった。
まず、床が見える。あまさず、全てだ。あんなところに染みがあったのか。なんで気が付かなかったのかといえば、そこにはゴミの袋がひしめき合っていたからだ。それからちゃんと明かりが灯っていて、テーブルもソファも単品で全体が確認可能な状態で置かれている。そこを覆い隠すようにして山積みにされていたあれやこれやは、一体どこに行ってしまったのか。
そして極めつけは――事務所の真ん中でにこにこと微笑んでいる、高校の制服姿の女の子だった。
「高間木さん・・・おはよう」
「お掃除、大変だったんですよ。普段からもう少し整理整頓をする癖をつけていただかないと」
イクミは厳しい口調でそう言うと、流し台の方に歩いていった。水道も給湯器も、久しぶりに全体像を顕わにしていた。そうか、コーヒーを淹れられるのか。この事務所にそのような機能が備えられていたことを、レイジ自身すっかり失念していた。
「レイジ、お前イクミが今日来るって忘れてたんじゃないだろうな?」
クロマルに指摘されて、レイジはようやく今日が日曜日であることを思い出した。学校がある日はそちらに。休日なら、ここに来ても構わない。許可を出したのはレイジ本人だった。毎日ヒマばかりをしていると、真剣に曜日の感覚が失われてくる。カレンダーですらかけられていないのは、大いに問題があるといえた。
レイジがソファの上に腰を落とすと、ぎしぃ、とスプリングが悲鳴を上げた。流石にこのポンコツぶりが突然直ってしまう、というほどの奇跡までは起きようがなかったか。尻の辺りのごろごろとした異物感に、レイジは妙にほっとした。
大丈夫。ここはナキリ探偵事務所。レイジの城だ。
「あと、百鬼さん。差し出がましいようですが、プライベートな雑誌類は事務所には置かずにご自宅に持ち帰っていただきたいのですが」
レイジは真っ蒼になって飛び起きた。クロマルが意地悪く目を細めて、入り口のドアの脇をちらりと一瞥した。ビニールの紐でくくられた肌色成分の多い表紙の雑誌が一束、傘立てと並んで鎮座していた。
この事務所には普段から客なんて滅多に来ないし、レイジにとっては第二の自宅扱いだった。今後はそれはまかり通らない、ということなのか。力なく崩れ落ちたレイジの前に、温かいコーヒーが運ばれてきた。
可愛い助手とコーヒーか。
或いは写真の向こうで微笑むエッチなお姉さんか。
レイジにとっての幸福は、奈辺にあるのというか。
・・・考えるのがバカバカしくなってきた。どうせ人生は、なるようにしかならない。レイジが「ありがとう」と小さな声で礼を述べると、イクミはぺこりと頭を下げた。
普通の人間が仲介士を通して魔法使いに出会ったのなら、その記憶は原型を留めぬように処置される必要がある。
ただし、それはあくまでも『普通の人間』に対応する場合のガイドラインだった。
レイジはイクミが初めて事務所にやって来た時点から、注意深く観察を続けていた。魔術的な人払いを施しているはずのナキリ探偵事務所を訪れたというだけで、その兆候はあった。何でもない個人が、魔法使いとの縁を感じ取れるはずはない。ナツネの露店してもそうだった。全ては人と人との繋がりという形を持った――魔術なのだ。
大学図書館でフミと出会った時にも、イクミはその背後に潜んでいるカゲミツの気配を察していた。同じ場所にいたレイジにだって感じ取れなかった程の、微細なものなのにだ。更にはその後、魔法研究会の部室の近くで未来からきた魂、モモカの姿を目撃した。モモカは自分が認めた相手には積極的に姿を晒す傾向があるが、それにしたって誰にだって視えるものではない。
『ちあき』の場所を移してからも、モモカはイクミの傍から離れなかった。このことについては、コトハも並々ならぬ興味を示していた。高間木イクミという人間は、何か特別な因果律を保持しているのか。いずれにしても、確かなことは一つだった。
イクミには、魔法使いの素質がある。
だとすれば、今回の件でイクミはもう一つの選択肢を手に入れることができた。単純なことだ。イクミ自身が魔法使いになり、宮屋敷の提示した規範に従うことで――記憶をそのままにしておく。イクミは悩むことなくその提案を受け入れた。
「簡単に決めちまって良かったのか?」
「簡単じゃないですよ。これでもちゃんと考えたんです」
短い期間に、イクミは何人もの魔法使いに出会った。彼らは魔法を使うという以外は、なんてことはない普通の人間たちだった。特に姉に生きる意志を与えてくれた宮屋敷コトハの存在は、イクミの心に大きな影響を与えた。
たった一度会って話をして、それで忘れてしまうなんてあまりにも勿体ない。
イクミはもっと、魔法使いたちのことを知りたかった。その世界の深淵を覗き込んでみたかった。
それで自身が深淵の一部と化すのなら、望むところだった。どうせ一度は、足を踏み入れるという覚悟を決めたのだ。それならせめて、行けるところまで行ってみよう。イクミは魔法使いの通過儀礼を受けて、晴れてその才能を開花させた。
「俺としてはまぁ、儲かる話だからそれは構わないんだが」
仲介士の果たすべき使命は、一般人を魔法使いに引き合わせるというだけではない。まだ知られていない魔法使いの才能の持ち主を探し出して、魔法使いの世界に誘うこと。それもまた、仲介士に与えられた大切な仕事だった。
千人に一人の才能というのは、なかなかどうして安易に見つかるものではない。仲介士の紹介で宮屋敷の配下に新たな魔法使いを迎え入れることができた場合、担当した仲介士には特別ボーナスが支給される。仲介士のやっていることは、例えるならマグロの一本釣りみたいなものだ。レイジはしばらくぶりに、でっかい山を引き当てたことになった。
「レイジは金の話ばかりだな。ああ、嫌だ嫌だ」
「おいこら、お前の食べてる高級猫缶だって、俺の収入から出てるんだからな」
「いちいち恩着せがましい奴だな。イクミもこんな守銭奴に師事したところで、ロクな魔法使いにならんぞ」
「残念だったな。俺はこいつの師匠じゃあない」
イクミの通過儀礼を担当し、師匠となった魔法使いはレイジではなかった。レイジはあくまで、この場所を提供しているだけだ。イクミの選んだ魔法使いの師匠は、丁度その時ナキリ探偵事務所のドアを破壊寸前の勢いで激しく開けて飛び込んできた。
「遅刻遅刻ぅ! イクミちゃん、待ったぁ?」
奇抜な模様のショールに、ピンク色の派手な髪が嫌でも目立つ。石の魔法使い、麻柄ナツネだ。イクミは何人かの候補の中から、ナツネを師匠とした。顔見知りであることや同性であることの他にも、イクミがパワーストーンに興味を持っていることも理由に挙げられた。
「お前は俺の事務所をぶっ壊すつもりか?」
「えー、そしたらあれだよ、もっと綺麗な事務所を借りればいいんじゃね? 今時トイレが和式ってありえないんだけど」
「あ、それは私もそう思います。寒いし暗いし、良いところないですよね」
女性陣は発言に遠慮がなかった。とはいえ、忘れられてしまっては困る。この場所をイクミの教育用に提供しているのは、そもそもレイジの好意によるものだった。
ナツネは主に露天商をやって糊口をしのいでいる。全国の縁日やイベントを巡って一ヶ所には留まらないし、宝石の買い付けのために海外にまでふらっと出かけてしまうこともあった。それではまだ高校生のイクミが弟子として大変だろうと、レイジは仮の拠点としてナキリ探偵事務所を使用するのを承諾したのだ。
それがなんで、ここまで引っ掻き回される羽目に陥るのか。もう一回くらい特別手当でも出してもらえないと、割に合わない。
・・・いや、金額がどうとかが問題ではなかった。とにかくレイジは、静かな毎日に戻ってきてほしい。ここはレイジの居場所であって、後はみんな余所者だ。一番偉いのは、レイジのはずだった。
「じゃーこっちはこっちで始めるから、レイジくんは気にせず猫でも探してて」
「おいおい、それはこちらの仕事だ。レイジはなるべく部屋の隅っこの方に寄って、煙草でもふかしていればいい」
「おっと、今日はお香も焚くから煙草はNGだ。吸うなら外でね。よろしくぅ」
何という四面楚歌。踏んだり蹴ったりだ。レイジはこの上ない不快感を示した表情でぐるりと一同を見回してから、コーヒーを一息に飲み干し、無言で事務所の外に出ていった。とりあえず、煙草を切らしている。それを買ったら、どこか喫煙席のある喫茶店にでもしけこもう。今日はどうせ、丸一日だらけまくって過ごすつもりだったのだ。
さらば、愛しの我が城よ。レイジはちっと舌打ちすると、近くにあるコンビニに向かって大股で歩き始めた。
「・・・でさあ、一応訊いても良いのかな?」
レイジがいなくなった後で、ナツネはイクミに顔を近付けてきた。部屋の中には、たっぷりと甘だるい香の匂いが立ち込めている。クロマルもこれはたまらぬと早々に退散してしまった。ここにいるのは、ナツネとイクミの二人だけだ。もうこうなってしまえば、ぶっちゃけた女子トークも全開で可能というものだった。
「あれのどこが良いの?」
「どこって・・・」
ナツネが投げて寄越したのは、直球も直球、豪速球だった。加減というものを知らない。あわあわと目を泳がせるイクミに、ナツネは興味なさげに手を振ってみせた。
「ちなみにあたしは、レイジくんはないから」
レイジとナツネは付き合いも長いし、周りからそう思われることもあったが、お互いにそういった感情を持ったことは一度たりともなかった。レイジに言わせればナツネは派手すぎてついていけないし、ナツネに言わせればレイジは地味でダサすぎだ。そういうのは一切抜きにして、二人は魔法使いの友人として相談に乗ることがある、という程度の関係だった。
「ええっと、笑われてしまうかもなんですけど」
魔法使いの師弟となった以上、隠し事の類はほとんど無意味だった。ナツネ相手には、何もかもが筒抜け同然になってしまう。もじもじと言いにくそうにしてから、イクミはようやく重い口を開いた。
「煙草・・・の匂いです」
姉が幼少の頃から病弱だったイクミの過程では、酒も煙草も疎遠なものだった。人が多いところに出かけることも少ないし、行ってもせいぜい病院の中だ。そこでスパスパと煙草を吸っている不届き者はまずいない。イクミがこのナキリ探偵事務所を訪れて最初に気になったのが、部屋に染みついている煙草の匂いだった。
「なんていうか、男の人なんだなぁ、って」
レイジの車に乗った時も、同じ匂いがした。レイジは気にしていたみたいだったが、イクミにはむしろそれが心地好かった。ほろ苦くて、頭の後ろの方がぼんやりとしてくる。それはどことなく、イクミに大人というイメージを想起させた。
イクミの言葉を聞いて、ナツネは「ふむ」と腕を組んだ。
「笑いはしないな。臭いっていうのは重要なファクターだ。人間だって動物だからね。たとえそれが悪臭に分類されるものであったとしても、本能的にそれを香しいとまでに感じることは往々にしてある」
目を閉じて、くんくんと周囲の匂いに感覚を研ぎ澄ます。香の陰に隠れて、この部屋本来の臭気が漂っていた。酒と煙草と、汗。レイジと、ナキリ探偵事務所の持っている独特のものだ。この世界に、同じ匂いの持ち主は二つとない。そこに魅かれたのだとしたら、ナツネには充分に納得できる理由だった。
「まあ、頑張ってみな。通過儀礼の時に視えたビジョンからすると、そっちの未来はそれほど悪くないよ」
魔法使いの力が目覚めた時、噴き出した魔力がアカシックレコードの上を流れて未来の可能性が浮かび上がってくる。それは新たに魔法使いになった者と、通過儀礼を執りおこなった魔法使いの二人だけに視ることができるものだ。ナツネとイクミはその儀式の際中に、ナキリ探偵事務所の光景を目にしていた。
レイジがデスクに向かって書き物をしていて。
クロマルがガラステーブルの上で欠伸をして。
イクミとナツネが、ソファに並んで座って談笑していた。
そんな穏やかな未来を手に入れられるのなら――
「はい。判りました」
この場所が、イクミが今日と明日と、その先の日々を過ごすたった一つの古巣となる。魔法使いたちの紡ぎだす、数多の人々の繋がりの中。サナミには届かなかった高みに向かって、一際明るい輝きを放ちながら、手を伸ばす。
私はここで――生きている。
そうだ、君は確かにそこに居た。
胸を張って歩いて、世界にその存在を刻み付けていこう。イクミをここに導いてくれた、サナミの想いに報いるためにも。
主不在のナキリ探偵事務所で、まだ幼い魔法使いはその誓いを新たにした。春が終りを告げて、少しずつ夏の気配が感じられる季節の出来事だった。