きみはそこにいた(6)
イクミの姉のサナミは、生まれた時からあちこちの内臓に異常が見られた。長くは生きられませんよ。医者からは、常に覚悟を持ってほしいと言われていた。それでも両親は、サナミのためにあれこれと手を尽くした。
サナミの一日は、ベッドの上で始まり、そのままベッドの上で終わった。場所は自宅と病院が半分ぐらいずつ。食べられるものは限られている。学校になんかまともに通えない。ちょっと元気になったと思ったら、すぐに体調を崩して手術を受ける。点滴の跡と手術の傷で、サナミの身体はいつもボロボロだった。
イクミが物心ついた時から、家族はサナミに合わせて生活していた。寝ている以外には家の中を亡霊のように彷徨うことしかできない姉のことが、イクミは嫌いだった。お出かけも、外食も。旅行も、友達を呼んで遊ぶことすらもイクミには許されなかった。全部、サナミがいるせいだ。授業参観だって、運動会だって。イクミはサナミがいるばかりに、いつも独りぼっちだった。
サナミはその責任を感じて、イクミの顔を見るたびに謝ってきた。ごめんね、イクミ。お姉ちゃん、いなくなった方が良いよね。
その通りだった。サナミがいるから、イクミは毎日が面白くない。サナミがいなければ、お父さんもお母さんもイクミだけを見てくれる。イクミは本気でサナミの存在を疎ましいと思っていた時期もあった。
「そんな時です。姉が、夜中に家を抜け出したことがありました」
余命半年。病院でそう告げられて、サナミは自宅に戻されていた。もう助かることはない。今まで生きてきて、どんな良いことがあったのか。サナミの中で、何かが吹っ切れてしまったのかもしれない。
嫌な予感がした。姉の不在に気が付いて、イクミと両親が慌てて外に探しに出ようとしたところで――
ふらり、とサナミは帰ってきた。
鉄板の上で、出汁で溶いた小麦粉が香ばしく焼きあがる。海鮮ミックス玉にソースとマヨネーズ、青のりを振りかけて丁寧に仕上げると、コトハはそれをヘラを使って器用に取り分けた。
ここは『ちあき』という名前の、魔法研究会行きつけのお好み焼き屋だった。部室では落ち着いて話ができないということで、コトハの提案でこの店に移ってきた。イクミの両親は共働きなので、今日も帰りが遅くなる。それなら好都合と、コトハが自慢の腕を振るってくれる流れとなった。
コトハが来てからは、レイジは口数が少なくなった。立場的には上司と部下、という形になるのだそうだ。車で移動する際イクミと二人になった時、「俺は宮屋敷の人間は苦手なんだ。あんまり気にするな」とだけ口にしたのが印象的だった。今も大人しくお好み焼きを箸で突いている。隣のテーブルでは、シュウジとカナエが今にもヘラで殴り合いそうな勢いで鉄板に向かっていた。たまにユイの怒声が飛んで、それでも収まらないのだから根は深そうだった。
「あの晩、私は君のお姉さんと会ったんだ。飛び込み自殺をしようとしているところを止めた。でも、それが正しいことだったのかどうかは――正直今でも判らなくてね」
魔法でも治すことのできない病魔。コトハはお好み焼きの上で踊る、削り節の群れに目を落とした。あそこでサナミの命を助けて、それで何を成せたのだろうか。何を残せたのだろうか。コトハには魔法使いとして、まだ他にもできることはあったのではないか。コトハはずっと、それを気にかけていた。
「だから、高間木さんが会いに来てくれたことはとても嬉しかった。自分のしたことが、果たして何をもたらしたのか。私はその結果と、きちんと向かい合っておきたい」
生きていれば、良いこともある。本当にそうだろうか。サナミの残された人生に、どんな幸福があるというのか。コトハがしたことは、中途半端な救済でしかなかった。そんな行為は、ただの自己満足――コトハの独りよがりな偽善でしかないのではないか。
サナミの妹であるイクミにも、とばっちりがあったのなら多大なる迷惑をかけたことになる。苦情があるというのなら、甘んじて受け入れる覚悟だ。そのくらいのつもりで、コトハは今回のレイジからの仲介を受諾していた。
「コトハさん、姉は去年の冬に亡くなりました」
寒い日の朝、窓の外では雪が降っていた。この辺りでは珍しい、積もるほどの大雪だった。カーテンの向こう、暗い空から舞い落ちる白い欠片を見上げて。
サナミは、寂しそうに笑っていた。
「余命半年と言われていたのが、三年も生きたのです。それは精神の力だろうと、お医者様もそうおっしゃっておられました」
――生きていたい。
あの夜、帰ってくるなりサナミはそう訴えて号泣した。生きたい。死にたくない。そう叫んで、両親にしがみついた。初めて見る姉の生へに執着に、イクミは驚愕した。
生気のない、骨と皮だけのサナミの掌を握った。すると、サナミは力強く握り返してきた。生きている。今ここで、サナミは生きている。それを感じて、イクミは胸の奥から様々なものが込み上げてきた。
そうだ。
イクミも両親も、サナミのために沢山のものを犠牲にしてきた。それは全て、サナミに生きていてほしいからだった。
遠くに旅行に行くこともできない。友達を呼んで遊ぶこともできない。両親に無邪気に甘えることもできない。治療費がかさんで、寄付に頼っても生活は苦しい。贅沢なんて何一つ考えられない。
それでも――サナミには生きていてほしいんだ。
「お姉ちゃん・・・いない方が良いなんて、絶対に言っちゃダメなんだからね」
だから、簡単に諦めたりなんかしてもらいたくなかった。イクミがどれだけ毎日我慢してきたと思っているのか。悪いと感じているのなら、生きてほしかった。生きてそこにいることが、唯一の罪滅ぼしだ。イクミだってもう二度と、サナミにいなくなってほしいなんて願わない。
「雪を見上げて、お姉ちゃんはこう言いました。『ああ、もっと生きていたいなぁ』って」
三年という月日を、サナミは精一杯に生きた。少なくとも、イクミの目にはそう映った。本も読んだ。テレビやビデオも観た。イクミや両親、同級生たちとも言葉を交わした。外の空気を吸い、初めて訪れる場所にも足を延ばした。
いつ終わってもおかしくない命だった。明日には目が覚めないかもしれない。だがサナミはその最後の時まで、自らの死に抗ってみせた。
薬を飲み、激痛を伴う治療を受け、意地でもこの世界にとどまろうとした。魔法でも起こせない奇跡を、現実にする。ひょっとしたら。もしかしたら。周囲がそんな期待をかけ始めた時――
サナミの容態は、急激に悪化した。
「その時になって、話してくれたんです。あの日の夜、お姉ちゃんは魔法使いに会ったんだって」
眼鏡をかけた、真っ黒い長衣をまとった女の魔法使い。ホウキにまたがって空でも飛びそうな、西洋の昔語りでよく耳にするような魔女そのもの。
魔法使いはサナミに、「生きてほしいと願う心に、理由などない」と告げた。その言葉はサナミの胸に突き刺さった。それまでサナミを支えてくれた両親や、貧乏くじばかり引かせてしまったイクミのことを思い起こさせた。
――生きよう。歯を食いしばってでも。
――そして伝えよう。いつの日か、感謝の気持ちを言葉にして。
「お姉ちゃんは元気になったら、雪だるまを作りたいって言ってました。玄関の前にあったら面白いだろうなって。本当に最後の最後まで、明日が来ることを信じていたんです」
イクミはポケットから、綺麗に折りたたまれた小さな手紙を取り出した。震える手でコトハに差し出す。コトハは無言でそれを受け取ると、開いてその中身を確認した。
「お姉ちゃんの遺言と、私からの気持ちを伝えます。魔法使いさん、本当に――」
そこに書かれていたのは、たった一言。
「ありがとうございました」
これで仕事は終わりだ。レイジは煙草を咥えた。火を点けるつもりはない。ただこうしていないと、うつむいてすすり泣くイクミの隣にいることがいたたまれず、手持無沙汰だった。
死んだ姉が世話になった魔法使いに会わせてほしい・・・何とも変わった依頼だった。
魔法使いの存在は、世間一般には秘匿されている。そんな者たちがいるだなんて、広く世の中には知らせるべきではない。宮屋敷から出されているガイドラインにはそう謳われていた。仲介士が存在しているのも、魔法使いの世界との接点を限りなく狭めておくという目的があるからだ。
故に、魔法使いと直接関係していないイクミをコトハに引き合わせるのは、異例中の異例だった。
ほとんどの場合では、魔法使いに関わった本人がレイジのところにやってくる。仲介士は慎重に依頼人を見定め、どういった対応を取るのかを検討する。その判断に於いては、魔法使いとの接触は可能な限り避けておくのが定石だった。
伝えたい意志とやらはせいぜい、ちょっとしたお礼か文句かだ。お互いの都合が折り合わなければ、伝言程度で済ませてしまうことも多々あった。イクミについても、レイジは話を聞いた当初は相手の魔法使いに一報を入れるくらいの案件のつもりでいた。
それがよりによって、宮屋敷コトハだ。イクミの探し人は宮屋敷本家のご令嬢、レイジの上司にあたる人物だった。
レイジが宮屋敷家の担当窓口にイクミの件で連絡を入れて、その日のうちに折り返しでコトハ本人から電話がかかってきた。コトハは最近になってレイジの面倒を見るようになったばかりの、ほとんど面識のない偉い大魔法使いだ。レイジは度肝を抜かれて、すわ何かミスでも仕出かしたのかと肝を冷やした。
コトハは、イクミに対する徹底的な調査を命じてきた。現在の家族構成や家庭環境、魔法使いに会ったという姉のこと、そして仲介士の存在をどこで知ったのか。コトハはレイジに自身が高間木サナミと関わった魔法使いであると明かし、背後関係に問題がなければすぐにでも会って話をするとまで言ってきた。
――まあ、結果としては良かったか。
新しい上司は、どうやら仕事熱心な人物らしかった。同時に人情家で、心優しくもある。アマネのようにビジネスライクな方が、仕事をこなしていく上では楽なことは多い。感情は判断を鈍らせる。ただ、それもやり方次第だ。
レイジは目の前でくるくるとヘラを弄んでいるコトハを、じっと見やった。宮屋敷はこれから、少しずつ変わっていくことになるのか。あまりにも忙しくなりすぎるのは御免こうむりたいところだが。
面白くなってくるというのなら、それはそれで大歓迎だった。
「あの、百鬼さん。この後のことなんですけど」
真っ赤に泣き腫らした眼をしたイクミが、レイジの袖をつまんで引っ張った。依頼人は無事に魔法使いに会うことができた。そうなれば、今日起きたことも含めて、魔法使いに関する記憶には全て不鮮明となるように暗号化が施される。それが、仲介士が普通の人間を魔法使いに引き合わせる際の条件だった。
「ああ、記憶処置か。その件に関してなんだが、一つ確認事項がある」
レイジは煙草を口から離すと、灰皿の中に捨てた。勿体ない気もするが、今日のこれで宮屋敷家からはまとまった報酬が得られる見込みだった。お好み焼きも悪くないが、久しぶりに高い酒で一杯やりたい。そのためにも、仕事の詰めはしっかりとこなしておかなければならなかった。
「そこの、コトハさんの隣の席に誰がいるのか判るかね?」
コトハの横には、さっきから女の子の魂がちょこんと腰かけていた。コトハの未来の娘だ。新年会ではシキと呼んでいたのが、最近になってモモカに変わった。ペットじゃあるまいし、一度つけた名前をコロコロといじるものじゃない。宮屋敷のやることは、レイジにはどうにもよく理解できなかった。
「はい、女の子ですよね? 確か、魔法研究会の部室にもいたような」
「なるほど。そうなると、もう一つ別なオプションが提供可能になる」
そこまで話すと、コトハの携帯が呼び出し音を奏で始めた。このメロディーは、パフザマジックドラゴンだ。コトハは「失礼」と一言断ってから着信を受けた。ふっと目尻が下がる。どうやら電話の相手は、噂の婚約者殿のようだった。
「やあやあ榊田君、今日はそっちを任せてしまって悪かったね。いつもの『ちあき』にいるから、マヤと一緒に君もきたまえ。JKがいるぞ、リアルJKだ」
くつくつと意地が悪そうに笑う。それを耳ざとく聞きつけて、シュウジとカナエが隣のテーブルから身を乗り出してきた。
「榊田先輩、いらっしゃるんですか! やった、私、エビ豚ダブル追加します!」
「馬鹿者! コトハ様がいらっしゃるのだから遠慮せんか! こっちのテーブルはこっちのテーブルだ!」
「何よ、自分でやったら生焼けか黒コゲのくせに! あんたなんか青のりと削り節だけ齧ってればいいのよ!」
「な! 何だとう!」
「二人ともいい加減にしなさいっ! お店に迷惑でしょう!」
俄かに騒々しくなった魔法研究会の面々に囲まれながら――
イクミはレイジから追加の条件を提示されて、それを飲むことを決心した。