きみはそこにいた(4)
数日も経たずに、魔法使い側から「会っても良い」との申し入れがあった。予想していた通り色々と立て込んでいるため、平日の午後に向こうのいる場所まで出向いていくことになった。イクミにそれを伝えると、その日は学校が終わり次第すぐに合流して待ち合わせ場所に向かう手筈となった。
駅前のパーキングに車を停めると、レイジは改めて車内に余計なものが転がっていないか確認した。くんくんと臭いを嗅いで、念のためもう一度消臭剤をシュッと噴いておく。出がけにクロマルが、「年頃の女子を乗せられる状態になってんのかね」と余計な一言を投げかけて来たせいだ。
ちなみにそのクロマル自身は、レイジの車には絶対に乗ろうとはしなかった。自慢の毛に煙草臭がこびりつくのが我慢ならないそうだ。レイジは車の手入れに関しては、そこまで大雑把にしているつもりはないのだが。猫は人間よりも知覚が敏感なのだろう。そう自分に言い聞かせているところで、こんこん、と窓が軽くノックされた。
「お待たせしました」
いつも通り、制服姿のイクミだった。助手席に滑り込んでシートベルトを締めるイクミの姿を、レイジはぼんやりと眺めた。
この車で今まで何人もの依頼人を運んできたが、制服姿の女の子というは初めてだ。レイジは意味もなく緊張して、ハンドルを強く握り締めた。
女子高生とか変な意識を持つから、おかしな気分になってしまうのだ。かといって、レイジの中ではイクミが他の服装をしているところが想像できなかった。仮にイクミが私服の状態であったのなら、目の前で話しかけられても気が付かない自信がある。この年頃の女性とは接点が少ないし、どうにも扱いが判らなくて苦手だった。
・・・何を考えているのやら。くだらない邪念を振り払うように、レイジは軽く自分の頭を叩いた。仕事だ。仕事に集中しろ。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、煙草臭くないか?」
「はい、大丈夫です」
ほらみろ、取り越し苦労じゃないか。ほっと胸を撫で下ろして、レイジはキーを捻った。それでも女子高生様が座るには、あまり清潔とは言えないオンボロだ。今度からは助手席にはカバーなりクッションなりを準備しておこう。そんなことを考えながら、レイジは車を発進させた。
「どこまで行くんですか?」
「そういえば話してなかったか。尖央大学だよ。尖央大学の人文学部キャンパス」
ここからなら電車でも近いが、丁度大学の講義が一段落して混雑してくる時間帯だ。駐車場のあてもあるし、この際満タンまで経費でガソリン代を請求してしまえば良い。後は車を運転するのは、レイジの趣味みたいなものだった。
「尖央大学には魔法研究会っていうサークルがあってな。表向きは児童館とか公民館でマジックショーをやったりするボランティアサークルなんだが――そこの部員は全員魔法使いなんだ」
イクミが驚いて目を丸くした。この話を聞いた時の反応というのは、大方みんな同じだった。魔法使いなんて特殊な存在が、ごく身近に、何食わぬ顔をして集団で生活している。それも、子供相手に手品なんてやってみせているというのだ。荒唐無稽も甚だしいと思うだろう。
「魔法使いって、そんなに大勢いるんですか?」
「いると言えばいるし、いないと言えばいない。魔法使いの才能っていうのは、千人に一人の割合なんだそうだ。大き目の学校なら、学年に一人はいなくても、全校生徒の中に一人はいるって感じか」
後は血族だった。魔法使いの才能は、高い確率で親から子に遺伝する。両親共に魔法使いなら、ほぼ確実だ。そうやって脈々とその血筋を受けついできた一族というのが、この国にも幾つかある。名家と呼ばれるものの中で最大の派閥が、レイジの仕事に報酬を出している宮屋敷家だった。
魔法使いというのは、何も普段から怪しげな格好をして練り歩いているわけではない。ホウキで空は飛ばないし、イモリやクモを混ぜ合わせて毒薬を生成したりもしない。人間の社会の中で他の人間と足並みを揃えて、規範に従ってきちんとした生活を送っている。宮屋敷家に至っては、結構な資産家として世間一般でも相当に名が通っていた。
「宮屋敷って、聞いたことがあります」
「デカいからな。俺もそこに雇われているようなもんだ。魔法使いとか関係なしに、縁を作っておくと後々便利かもしれん」
レイジは苦笑いを浮かべた。どうせ今から、嫌でも関わることになる。きょとんとした表情のイクミを一瞥すると、レイジはアクセルを踏み込んだ。
尖央大学の大学図書館は、学生以外の利用者に対しても一部の収蔵物を公開していた。国文学科が研究対象にしているのは主に現代児童文学と、平安文学だ。その内、平安文学の貴重な研究資料である古い源氏物語の写本が、図書館の常設展示物の目玉となっていた。
レイジは大学の裏手に回ると、図書館の駐車場で車を降りた。ここは大学に用事がある際に、無料で利用が可能となっている穴場だった。来客者専用で学生が使うことは禁止されている、というのが尚のこと便利だ。お陰様で、レイジのような部外者が飛び込みで駐車しても文句一つ言われなかった。
「おや、仲介士じゃないか。随分とご無沙汰だったねぇ」
その代わり、ここには相応の面倒というものも存在していた。
「ああ、フミさん。今日は正しくその仲介士の仕事だ。お邪魔させてもらうよ」
駐車場の出口で、グレーのスーツに身を包んだ長身の女性が待ち構えていた。総じて地味目な色合いのコーディネートなのに、全身から湧き出てくる存在感が半端ではない。白粉でも塗ったみたいな色白の肌に、ぎらりと鋭い眼光を放つ漆黒の双眸。イクミは直感的に、「お姫様」という言葉を連想した。
「そちらのお嬢さんがお客様かしら?」
「は、初めまして。高間木イクミと申します」
仲介士という言葉を知っている辺り、このフミという女性も魔法使いなのか。レイジの様子を窺うと、苦虫を噛み潰したような顔のまま畏まっていた。どうにも関係性がよく理解できない。イクミのそんな戸惑いを察して、フミは妖しげな笑みを形作った。
「初めましてイクミさん。天津風フミと申します。こちらは図書館利用者のための駐車場ですので、形だけでも図書館を覗かれいってくださいな。それほど手間は取らせません。仲介士殿も、それでよろしいか?」
そう言われてしまっては、よろしいも何もない。異論を差し挟む余地はどこにもなかった。優雅な物腰で先に立つフミに、レイジとイクミは大人しくついていった。
「仕事中なんだがな」
「あら、尖央大学の敷地に立ち入る以上、妾の言うことには従っていただかなくては。心配せずとも、無事に返す所存でありますことよ」
ころころ、とフミは上品に哂った。一行はフミに案内されて図書館の入り口をくぐり、展示スペースまでやってきた。誰もいない広い空間はしんと静まり返っていて、ホコリの匂いが充満している。足元だけを照らす薄暗い照明の向こうに、ぽっかりと明るくスポットされた一角があった。古い書物が、ガラスケースの中で広げられている。フミはその傍らに立つと、イクミに対して深々と一礼した。
「改めまして、ようこそ、高間木イクミ様。この尖央大学を預かるフミと申すものにございます。本日は魔法使いとの対話をご所望とのこと。もし何か問題が生じた際には、いつでもこちらまでお越しくださいませ」
瞬きをした合間に、イクミの目の前にある色彩ががらりと変化した。つい先ほどまで灰色の目立たないスーツ姿だったフミは、きらびやかな晴れ着姿になっていた。金糸がきらきらと光を放って、澄んだ鈴の音色が聞こえてきそうだ。
「わぁ」
これも、魔法なのか。確認するようにレイジに顔を向けると、レイジは小さく肩をすくめただけだった。この大学を預かるということは、どういう立場にあるのだろうか。強い力を持った魔法使いなのか。一歩前に踏み出して。
イクミは、すぐに何かを感じ取った。
「・・・勘のよろしい子です。それは長生きをするのに必要な能力。大事になさい」
具体的に何がどう、とは説明がしづらかった。直感というか――本能に近い。ただイクミにはフミのことが、何かこの上なく恐ろしいものに思えて仕方がなかった。
ナツネやレイジも魔法使いだ。常識では考えられない力を持っている。しかしそれでもその二人に関しては、イクミと同じ血の通った人間であるのだと、無意識的に認識していた。魔法使いは人間。レイジの言った通りだ。イクミはそこに安心して、二人に対する信頼を構築することができていた。
一方フミには――それがなかった。正体が判らない。今もそこに立っているはずなのに、その実感が限りなく希薄だった。じぃっと見つめ返してくる視線が、無性にイクミの心をかき乱してきた。
瞳孔が開いて、胸の奥がきゅうっと締め付けられる。なんだろう、これは。カエルがヘビに睨まれれば、こうなるのか。イクミはじんわりと、額が脂汗で湿ってくるのを感じた。一直線に結ばれた薄い唇が開いて、その中から真っ赤に濡れた口内が――
「その辺にしてくれ。ご覧の通り、ごく普通の人間だ」
レイジがそう声を発すると、不意に周囲の空気が軽くなった。はっと我に返ったところで、イクミはフミの服装が元のスーツに戻っていることに気が付いた。一体全体、ここで何が起きたというのか。含みのある微笑をたたえたフミが、優しく語り出した。
「失礼いたしました。仲介士の方のお墨付きでありますものね。結構です。ではイクミさん、お探しの魔法使いに会えることを祈っておりますわ」
ぽん、とレイジがイクミの背中を叩いた。長居は無用。そういうことか。イクミは慌ててレイジに続いて踵を返した。張り付いたお面のような表情のフミの背後に、何者かの影が浮かび上がっている。根拠はなかったが、イクミにはそれが大太刀を構えた鎧武者であると感じられて、ぞっと身震いした。
「怖い思いをさせちまったな」
図書館の外に出ると、レイジはほうっと息を吐いた。イクミもどっと疲れが噴き出してきた。とりあえず、レイジには説明を求めたいところだった。イクミの強い抗議の意を含んだ視線に、レイジは渋々といった様子で口を開いた。
「さっきのはこの尖央大学の主でな、学内の秩序を守るためにああやって部外者に対する値踏みをしているんだ。ここのところは宮屋敷の界隈でゴタゴタがあったから、ちょっと警戒過剰気味ではある」
「魔法使い、なんですよね?」
これで普通の人間、と言われた方がびっくりする。どうしたものかと数秒程逡巡してから、レイジはイクミに真実を伝えた。
「いや――あいつは妖怪だ」
「妖怪?」
比喩とかそういったものの類ではない。それは正真正銘、人ならざる怪異、妖怪変化のことだった。
「フミさんは、文車妖妃という古書に憑く妖怪だ。かなりの時を経て、人の社会に自然に溶け込めるほどの力を持っている。悪さを働くわけではないので、この尖央大学で魔法使いと共に静かに暮らしていく契約を結んでいる」
あれが、人間ではなかったというのか。先ほどの体験がなければ、魔法使いという話ともどもレイジの精神状態を疑うような発言だった。ではその背後にいた、鎧武者の方もそうなのか。イクミがあの場で感じた気配のことを話すと、レイジはふむ、と腕を組んだ。
「去年の秋だったか、カゲミツとかいう古い刀の霊が尖央大学に持ちこまれたなんて噂があったな。それが本当のことなら、主であるフミさんが配下にして使役している、というのは充分にあり得る」
なるほど。つまりあの場でフミがイクミのことを良くないものと判断したならば、イクミはそちらともご対面する事態に発展していたわけだ。フミだけでもあれ程に恐ろしかったのに、刀剣の霊なんて血生臭くてそれどころではない。一歩間違えれば、とんでもない結果が待っていたのではあるまいか。
「心配はいらん。ここの客人に下手に手を出すほど、あいつらも馬鹿じゃない。脅しをかけるのは、妖怪としての性質みたいなもんだ。ま、怖がってやればあいつら的にはそれで満足なのさ」
人に目撃され、恐怖されることが妖怪の存在意義となる。由来とその姿を認識されて、妖怪はこの世界に『居る』ことが補強される。そうやって長い時を生きてきたのだ。そう言われれてしまえば、イクミはフミのためになることをした、とも思えないこともない。
しかし、今一つ腑に落ちないのも確かだった。
「そういうのって、事前に説明しておいてはもらえないんですか?」
「説明したら怖がってくれないだろう。悪いとは思うが、これがフミさんへの手土産、駐車場の使用料みたいなものなんだ」
イクミは呆れ返って舌を巻いた。この仲介士は人が良い振りをしておいて、妖怪たちとグルだったのだ。観光地で土産屋とつるんで、売り上げからマージンを受け取る悪徳ガイドと同類だ。むむっ、と不審の眼を向けて一歩下がったイクミを見て、レイジはやれやれと肩を落とした。
「すまなかった。こっちにも色々と事情はあってだな。その、配慮が足りなかったことは認める。相手の魔法使いには必ず引き合わせるから、勘弁してくれ」
そんなのは、当然のことだ。魔法使いといい尖央大学といい、実に油断がならない。他の大学も、ひょっとしたら同じように主がいたりするのだろうか。無言で歩き出したイクミを、数歩分離れてレイジが追いかけた。
風に乗ってどこかから、微かに女の笑い声が聞こえてきた。




