きみはそこにいた(2)
無人の公園のベンチに寝かされて、星を見上げた。空を彩る小さな輝きが好きだった。こちらでは観測することの適わないぼうえんきょう座や、じょうぎ座に興味をひかれた。りゅうこつ座のカノープスは、発見できれば寿命が延びるらしい。南半球にまで行ってしまっては、反則になるだろうか。
くだらない。
目を閉じて、暗黒に身を任せた。そうなればいいな、とこれまでに何度も願ってきた。その度に、現実が目の前に立ち塞がった。何をどう足掻こうが、不可能は不可能だ。それは今隣に座っている、魔法使いの女にも宣言されたところだった。
「魔法というのは、世界の在り方を自分の都合の良い認識に差し替える行為だ。世界とそれを観測している人々に暗示をかける一連の手続きを、魔術と呼ぶ。世界の規範には簡単に脇道を作れてしまえるような脆弱なものもあれば、強固で揺るぎない理とまで称されるものもある」
ちょっとばかり宙に浮いたり、施錠されたドアの鍵を開けてしまったり。人の視野の死角を辿って、周囲から見えないように振舞うことは簡単だ。そうすることで、世界全体はそう簡単に引っ繰り返ったりはしない。その程度の不協和なら、「そういうこともあったかもね」ぐらいの感覚で整合性を取ることが可能となる。
「君の病気は、およそ自然治癒するような単純なものではない。それが起きれば奇跡、というレベルだ。魔術で世界をだまくらかそうとするのには、少々荷が重い。期待させてしまったのなら申し訳なかった」
魔法使いは、すまなそうに頭を下げて謝罪した。別に、絶望するのには慣れている。今更その回数が一つ増えたところで、どうということはなかった。
いや、むしろ清々とした。治らない。助からない。医学の最先端の技術であっても、魔法の力を用いてもだ。あまりにも明確で、揺らぐことのない未来。物心ついた時から、受け入れてきた運命だった。
「それなら、死なせてほしかったかな」
痛いばかりの治療も、苦くてまずい薬ももう沢山だった。完治はしない。ただ一分一秒、長く生きながらえるためだけの行為だ。その時間に、どんな意味があるのだろう。ベッドの上に横になって、天井を見上げて。後はひたすらに、生かされ続けている。
そこに、うなるほどのお金がかかっていることは認識していた。いうほど裕福な家庭ということもない。だったら尚更、こんな命にそんなコストをかけるべきではないとも思ってしまう。
自分は、家族のお荷物だ。
幸せな団欒も、家族の語らいもない。旅行にも行けないし、ちょっとした贅沢な外食にだって足を運べない。日がな一日寝っ転がって、じっと死を待つだけの娘の世話を強いられて。じりじりと貯蓄が削り取られていく。
父も母も、そんなことよりも、もっと建設的な方向の物事を考えるべきだった。
そう、こんな邪魔な娘なんか――死んでしまった後の話を。
「私の母も病気で死んだんだ。ベッドの上に縛り付けられて、大量のチューブに囲まれてね。母は死ぬまでに、びっくりするくらいに痩せてしまっていた」
魔法使いの言葉に、骨と皮だけの自分の掌をじっと見つめた。病状が進行したのは、ここ一年のことだ。余命が宣告されると、思い出したかのように身体から肉が削げ落ちていった。言われなければ、何事もなく生きていけたのではないか。そう錯覚してしまうほどに、体調は悪化の一途を辿った。
そしていよいよその時が近付いて、病院からは退院できた。終末期の在宅療養。つまりは、もう助からないから家族で温かく看取ってくださいと。要はそういうことだ。
高額な治療費がかからないなら、その方が家族の負担は少ないだろう。でもそれなら、安楽死も選択肢に入れておいてほしかった。苦しみがなくなるわけじゃない。副作用を考慮しない強い薬で、死の直前まで感覚を鈍化させているだけだ。家族の視線が、全身に突き刺さってくる。それが息苦しくて、溺れて窒息してしまいそうだった。
「そんな母の姿と君を重ねてしまってね。死んでほしくないと、咄嗟に手を出してしまった。すまなかったね」
魔法使いはその言葉で弾みをつけて、ベンチから腰を持ち上げた。夜の中にあって、闇よりも暗い。そこに浮かび上がる白い横顔は、夜空に光るどんな星よりも眩しかった。
「――待って」
その時どうして引き留めてしまったのか。自分の中でも、明確な答えがある訳ではなかった。
ただ、魔法使いに訊いてみたかった。その母親のことを。魔法使い自身が、どうやってその死を受け入れたのかを。自分がいなくなった後の世界のこと。
それを初めて、知ってみたいと感じた。
「貴女は私に、生きてほしいの?」
その質問は、今まで誰一人に対しても投げかけたことのないものだった。未来は決まりきっていたからだ。朝になれば陽が昇るのと同じに。時が来れば、自然とそうなるようにできている。命の灯は、消える。死は圧倒的な早さで、ほんのすぐそこ、戸口の前にまで迫っている。逃れられるはずなどない。
「当然だ。生きていてほしいと願う気持ちに、理由などない」
家族の笑顔が、脳裏をよぎった。差し伸べられた手と、温かい感触。いつだってそこにいてくれる。きっとこの命が尽きる、最後のその瞬間まで。
いつだったか、「死んでしまいたい」と呟いたら本気で叱られた。家族だから当たり前。血が繋がっているから当たり前。そんな理屈なんて、関係なかった。
ただここにいるだけで、負担にしかならない自分。死んで消えていくだけの自分。
それでも――愛してくれる。いてほしいと、想ってくれる。
涙が溢れて、頬を熱く濡らした。誰でもいい。生きていてほしいと、はっきりと口にしてもらえる。それがこんなに嬉しいことなのだと、今初めて判った。
声をあげて泣いたのは、本当に久しぶりのことだった。
蛍光灯が不安定に明滅した。たまに通電させてみたら、これだ。客が来た時くらいまともに機能してくれればいいのに。お茶かコーヒー、と思って流し台の前に立ったらすぐに不可能であると知れた。ええい畜生。行き場のない手で、レイジはとりあえず自分の髪の毛をぐしゃぐしゃに引っ掻き回しておいた。
高間木イクミと名乗った女子高校生は、居心地悪そうにソファに座っていた。きょろきょろと、不安気に室内を見回している。廃屋とゴミ屋敷のハイブリッドだ。そこにくたびれた無精ヒゲの若い男が一人となれば、警戒しない方がどうかしている。よくもまあ、こんな中にまで足を踏み入れてきたもんだ。肝が据わっているのか、馬鹿なのか。
それとも、余程思い詰めているのか。
「すまねぇが、お茶の類は出せそうにない」
「いえ、おかまいなく」
むしろ出てきた方がおっかないか。何を飲まされるのか、知れたものではない。染みが浮き出た鏡の前で、レイジはシャツの胸元だけはしっかりと見直しておいた。よれよれだが、一張羅だ。これで服装まで乱れていたら、宮屋敷に職務怠慢の烙印を押されてしまう。一応、やることだけはちゃんとやっているというポーズを見せておかなければ。
どかどかと大股に歩くと、レイジはイクミの向かいに腰掛けようとした。するとそこに陣取っているクロマルと、ばっちりと目が合った。野郎、どういうつもりだ。むぎぃ、と歯を剥き出しにしそうになって、考えを改めた。
見るからに育ちの良さそうな女子高校生と、テーブルを挟んで距離約一メートルで膝を突き合わせるのはあまりよろしくない。どんなに強い意志に突き動かされているにしても、この強面が相手では必要以上に委縮させてしまうだろう。相談内容如何によっては追い返すことになるが、今のところはまだお客様予備軍だ。ふん、と大きく鼻を鳴らしてレイジは少し離れたところにあるデスクの方に足を向けた。
「それで、どの程度のことまではご存じなのかな?」
勝ち誇ったようにクロマルが一声上げるのを尻目に、キャスター付きのボロ事務椅子を引き寄せて体重を預ける。ぐきゃ、とかいう実に不安要素に満ち満ちた音を立ててくれるのが、この椅子の特徴だ。尤も、イクミの表情が冴えないのはそれだけが原因ではないだろうが。
クロマルがまるで、この場にいる唯一のイクミの味方である、みたいなドヤ顔をしている。レイジにはそれが、どうにも気に食わなかった。
「魔法使いに助けられた人が、どうしても伝えたいことがある時に依頼するのが『仲介士』・・・だと伺いました」
大正解だ。一体どこのクソ魔法使いがその情報を流したのか。それもこんな、いかにも一般人代表ですみたいな女の子に。そいつのことは後で調べて締め上げておくとして。
「じゃあお嬢さんは、魔法使いに何か助けられたことがあるのかい?」
まずはそこを明確にしておく必要があった。イクミは曖昧に頷いた。なるほど、そこは微妙なところなのか。とはいえ、興味本位にしては態度が浮ついていない。それなら次の段階に進まなければならないか。レイジは足を組んでふんぞり返った。椅子の耐久力が、やや心配だ。
「魔法使いなんて与太話を信じてここまでくるなんてのは、余程の大馬鹿者か。そうでなければ、真面目にその存在を信じているかのどちらかだ」
前者なら適当にあしらって追い返せば良い。厄介なのは後者だ。そして残念ながらこのお嬢様は後者であるらしい。イクミのレイジを見る目は、真剣そのものだった。椅子の背凭れの付け根が、ぐげぎぎ、とジャングルに棲む鳥みたいな悲鳴を上げた。この辺りが限界か。
「魔法使いってのはこの社会の中に、それなりの数が溶け込んで生きている。みんなその特別な力を隠して、ひっそりとだ。それが何でか、判るか?」
少し考える仕草をしてから、イクミは首を横に振ってみせた。嘘だな。ある程度の答えは出しているが、正解はこちらに任せようという算段だ。そういうしたたかさは、嫌いじゃない。レイジはイクミに、僅かながら興味を持った。
「一言で言ってしまえば、面倒だから、だ」
常識で片付けられない能力を持っている。それが周囲に知られれば、どういうことになるか。意味もなく恐れる者もいれば、上手いこと利用しようと企む者もいる。そうなればおよそまともな人間関係など、望むべくもないだろう。小さないざこざ程度ならともかく、暴力沙汰や政争関係にまで発展すれば目も当てられない。
魔法使いと言っても、所詮は一人の人間に過ぎなかった。振り回されて貧乏くじを引かされるのでは割に合わない。それに、自らが異能であるということは魔法使い自身が良く心得ている。人間の社会は、まっとうな人間によって正しく運営され、評価されるようになっているべきだ。そこに魔術なんてズルを使う連中は、日陰の道を歩いて暮らしていく方が理に適っている。
少なくともこの国の魔法使いたちは、そんな意志の下で日々を送っていた。何も親玉の宮屋敷に、そうせよと押し付けられているからではない。これは魔法使いたちが長きに渡って培ってきた、生活の知恵という奴だった。
「魔法使いは面倒を嫌うんでね、正体を知られることを忌避する傾向にある」
それでも普通の人間の側から、魔法使いの方に接触を試みたい、という声はあった。何らかの事情によって魔法使いと関係を持った人間の中には、どうしても伝えたい言葉を持っている者たちがいる。内容はお礼であったり、苦情であったり。一緒にビジネスを始めたいという不届きなものまで、千差万別、色々だった。
「そこで、仲介士の出番となる。俺らはお嬢さんみたいのから魔法使いに対する用件を聞いて、その対処を検討する。丁重にお引き取り願ったり、伝言を渡したり。あるいは直接会って、話をしてもらったりだ。ただし――」
レイジは言葉を切ると、前屈みになって両掌を組んだ。クロマルが、ぴくんと耳を立てる。ここまで説明したところで、可哀想だが退路は断たせてもらう。
部屋の中には魔術的な仕込みが施してあった。訓練を受けた魔法使いなら、自分の精神に暗号化をかけるのは常識だ。それをしていない一般人の心など、レイジにとっては鍵のかかっていないガラス扉の食器棚みたいなものだった。
「ここに関する一切の記憶と、対象の魔法使いの情報は全て忘れてもらう。依頼の結果だけは残しておくから、そこは安心してくれたまえ」
イクミの意識体を、レイジはしっかりと補足した。伝説の魔術具『銀の鍵』みたいな、完全な精神操作が要求されるわけではない。記憶領域の一時的な封印、せいぜい催眠術に毛が生えた程度のものだ。レイジが設定した特定のトリガーで発動して、関連する情報をノイズでグシャグシャにして判別困難にする。仲介士の仕事をこなす上では、このくらいの軽い魔法で十分だった。
「構いません。ちゃんとお礼が本人にまで伝わるのであれば、それで」
ほう、とレイジはイクミを見つめ直した。クロマルも驚いて首を回す。イクミはレイジの話を、微動だにせず聞き続けていた。
力強い鳶色の瞳は、一瞬たりともレイジから離れなかった。毅然として、いっそ気持ち良さすら感じるくらいの覚悟だ。レイジは知らないうちに、頬がほころんでいた。なんだ、少しばかりは楽しめそうじゃないか。
「ではまず、事情を聞かせてくれるかな?」
クロマルが、イクミの足元でごろりと横になった。即座に追い出すような輩ではないと知ったので、長期戦の構えだ。イクミの口から語られる魔法使いの物語に、レイジは黙って耳を傾けた。