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魔女先輩を仲介します  作者: NES
Encore きみはそこにいた
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きみはそこにいた(1)

挿絵(By みてみん)

 耳元を、風が掠めていった。間違いなく、飛び降りたはずだった。身長よりも高い金網をよじ登って、走ってくる電車の先頭車両を目がけて。

 ドンピシャである必要はなかった。頭から落ちれば、それだけで十分に致命傷になると思っていた。


 ががん、ががん、と地面が乱暴に揺れている。満月が見えた。暗い空の中に、光の穴が開いている。そこまでの距離は、確か大体三百八十キロメートル。新幹線に乗って、二ヶ月以上もかかる。あんなに小さいのに。思わず笑ってしまいそうだった。


「大丈夫かい?」


 電車が行き過ぎた後の静寂を、女性の声があっさりと打ち破った。視線を、ゆっくりとそちらに向ける。すぐ隣に、黒いビロードのような生地が見えた。少ない電灯の光を反射して、きらきらと輝いている。早朝のゴミ捨て場でよく見かける。カラスの羽の色を連想させた。


「どうして?」


 どのような手段を用いたのかは判らない。しかし、この状況からすれば何が起きたのかは明白だった。今度は徐々に上の方に眼を動かしていく。顔の辺りの位置で、きらり、と眼鏡がきらめいた。

 縁無し(リムレス)のレンズの向こうからは、挑戦的な双眸そうぼうが見つめてきていた。面倒なお節介だ。息を吸って、吐く。胸が上下するのが判る。痩せてガリガリで、あばら骨の浮き出た不気味な体を想像して、気分が悪くなってきた。


 あのフェンスを乗り越えるのに使った体力は、生半可なものではなかった。人のいない時間帯、誰にも止められることなくそれを成し遂げる必要があったのだ。そこに要求されていた綿密な計画は、文字通り人生をかけた命懸けのものだった。


 この女は判っているのだろうか。ついさっきまで、果たしてどれだけの覚悟がその行動を支えていたのかを。夜の街に飛び出した時から、心は一つに決まっていた。明日の朝日を浴びることはない。もう誰の顔も見たくはなかったし、誰の言葉にも耳を貸したくはなかった。


 それなのに――


 これで、ゲームオーバーだった。通報されて、迎えが来て。沢山怒られて、ベッドの上に縛り付けられる。またもや、望まない毎日の続きが押し寄せてくる。充分だ。これ以上、何をどうすればここから逃がしてくれるのか。


「ご家族には、連絡しない方が良いのかな。見つからないように、そっと戻してあげることも出来るんだけど?」


 突然の申し出に、ぎょっと目を見開いた。ゆらり、と黒い長衣が揺れる。女性が立ち上がった。あかりに照らされて、その顔があらわになる。思っていたよりもずっと若かった。高校生くらいだろうか。艶々(つやつや)としたロングヘアが、まるで独立した生き物みたいにさらさらと波模様を形作る。りんとしたその横顔に、思わず我を失いそうになった。


「立てるかい?」


 手を繋いで、引き起こされた。骨ばった指が恥ずかしかった。他人と触れ合うのなんて、何年振りだろう。医者にも家族にも、身体を見られるのは大嫌いだった。何故なら、みにくいと判り切っているから。目の前にいる女性は美しすぎて、並んでいるだけで委縮してしまう。

 振り払うようにてのひらを離すと、女性は困ったみたいな表情を浮かべた。


「君の意に反する行動だったことは認めるよ。だから、君の望むように事態を収拾させてほしい。私にできる範囲のことで、ね」


 女が両手を広げると、まるで大きな闇の塊そのものだった。まばゆい光線が、二人のシルエットをその場に焼き付ける。反対方面から来た電車が、轟音と共に足元をすり抜けていった。


 これでしばらく、静かになる。この時間帯、後は車庫へと送られる回送電車が残されているだけだ。もう一度だけ、試してみるか。いや、手も足も痛くて限界だ。それに何より――


「それはやめておこう。多分私は、君が自殺することを見過ごせない」


 だろうね、と口の中でつぶやいた。同時に、ぐらりと視界が崩れた。ほら見たことか。今日この時を逃せば、もうチャンスはなかったんだ。

 膝をじっとさせておくことができない。力が抜けて、感覚もおぼつかなくなる。倒れ込もうとした身体が、突然ふわり、と宙に浮いた。


 気が付くと、女性の顔がすぐ近くにあった。距離感がおかしい。走ったって、受け止めるのには間に合わなかったはずだ。それがどうして、こんなにしっかりと抱き上げられているのか。

 意識が朦朧もうろうとしてきた。無理をしたから、熱が上がっているのだろう。こんな不愉快な状態からはサヨナラできると思ったのに。どうしてこんな、余計なことを。


貴女あなたは――誰?」


 月が見える。光の穴から舞い降りた黒ずくめの女は、くつくつと笑いながらこう告げた。



「私は、魔法使いだ」




 鉄道の駅を降りると、幾つものデパートのビルが立ち並んでいる。これはここ最近の、駅前開発競争の成果だった。世の中は景気がどうのこうのと騒いでいるが、あるところにはある。不公平に感じることがあったとしても、ただそれだけのことだった。

 大通りから外れた小さな路地は、この土地の少しばかり昔の景観を残していた。日当たりの悪い狭い道を挟んで、何が入っているのかイマイチよく判らない五階建ての雑居ビルが並んでいる。人通りもまばらで、自動販売機ですら設置されていない。こちらは持たざる者の領域、ということなのだろう。世間には春が訪れているというのに、その一帯には身震いするような寒さが感じられた。


 その奥まった一角に、これまた更に小さな脇道が存在していた。ぼんやりと歩いていては見逃してしまいそうな、建物と建物の隙間すきま道だった。ここを人が通れるなどとは、その場で指摘されたのでなければ到底判らない。何しろ薄暗くて、足の下にあるのが土なのかコンクリートなのかすら判然としなかった。


 普通の人間ならばおよそ立ち入ろうとすら思わないその先に、『ナキリ探偵事務所』は存在していた。


 雑居ビルの後ろに隠された雑居ビルという、都市における僻地へきちと言える場所だった。このビルに入っているオフィスは、『ナキリ探偵事務所』ただ一つだ。一階のテナントはシャッターが下ろされていて、中からほこり臭い匂いを漂わせている。人一人がようやく通れる幅のコンクリートの無骨な階段が、遥か上方の暗闇に向かって吸い込まれていた。

 靴音がやけに響くその階段を昇ったところにあるステンレスのドアは、すりガラスに大きなヒビが入っている。一見するとここも空き室の仲間に思われがちだが、これはこの事務所の主の管理が杜撰ずさんなだけだった。後は部屋のあかりさえ点けないことがあるというのは、最早やる気のあるなし以前の問題であると言える。


 その不健康と不衛生の集大成的な事務所のど真ん中、バネがおかしくなってデコボコになったソファの上で、百鬼なきりレイジはあくびと共に伸びをした。


「あー、ヒマだ」


 体勢を変えて、ごろりと横になる。ちっとも心地好くない。昼寝しようにもソファの方で拒絶してくるのだから仕方がない。レイジは不機嫌そうに上体を起こすと、乱雑に散らかったガラステーブルの上から煙草を拾い上げようとした。


「おい、煙草は控えろよ」


 無遠慮な言い草に、カチンときた。電気代の節約のために、テレビも置けない状態なのだ。煙草程度の嗜好品が許されなくてどうしろというのか。とはいえ、この事務所の稼ぎ頭に逆らうこともできない。レイジは恨めしそうに足元にいるクロマルを睨みつけた。


「一本くらい良いだろうが」

「ダメだ。煙草の煙は共有意識との接続の妨げになる。死活問題だろうが」


 のそり、とクロマルが身体を起こした。メインクーンの血が入った雑種だ。図体もでかいし、毛も長い。全体的に黒くて、顔のところだけわずかに白い。ガラステーブルの上に乗れるスペースを探してみたが、どうにも物であふれかえっている。大部分はゴミだし、どうでもいいだろう。ひらり、というよりは、どすん、とクロマルはテーブルの上に飛び乗った。


「うわああ、何しやがる」


 雑誌やら新聞やら広告やらが、雪崩なだれとなって床の上にぶちまけられた。コンビニ弁当の入れ物や、底の方に数センチだけ中身が残ったペットボトルも含まれている。灰皿代わりに煙草の吸殻を大量に突っ込んだ空き缶が転げて、灰の山がレイジの靴の上に飛び散った。

 使い魔のくせに、この猫はとんでもない傍若無人さだ。しれっとして顔を洗っているクロマルを、レイジは二、三発ひっぱたいてやりたかった。


 それができるなら苦労はしない。現在のところこの『ナキリ探偵事務所』の表向きの業務は、ほとんどがこのクロマルに頼りきっていた。


 探偵なんてカッコいい看板を掲げてはいても、実際にはそれっぽい仕事なんて何一つとして舞い込んでは来ない。レイジの知名度なんてたかが知れているし、広告も何も出していないのだからそれは至極当然のことだった。

 やってくるのは、インターネット経由で飛び込んでくる犬や猫の捜索依頼くらいだ。そしてそれはレイジが汗をかいて一日中走り回るよりも、この場でクロマルに訊いた方が圧倒的に早く解決できる。

 猫というのは共通した精神世界のネットワークを介して、遠隔地にいる仲間との情報のやり取りができる。探す相手が人間でないのなら尚のこと、尋ね猫に関しては的中率百パーセントで発見することが可能だった。


 後は猫相手に愚痴を聞いて、家に帰ってもらうための交渉作業になる。ここからようやくレイジの出番だ。最近はペットというより、すっかり家族の一員として扱われる動物が増えてきた。それを快く思わない奴もいれば、毎日可愛がってくれた人間の家庭に子供ができてしまっただとか、事情は様々、人生も猫生も色々だった。


「俺ぁドリトル先生になった気分だよ」


 レイジはこれでも、れっきとした魔法使いだった。ここで探偵事務所を開業しているのも、魔法使いとして意味のあることだ。しかし、そちらの方の仕事はここのところとんとご無沙汰の状態となっていた。いよいよ魔法使いというのも、やりにくい世の中になってきたということか。必要以上に目立たないように、人払いまでしてこの場所に居座ってみたが。


 そろそろ、潮時なのかもしれなかった。


 仕事柄、コネやらツテやらは腐るほどあった。このまま普通に探偵業を始めてみるというのも、悪くはない考えだった。最近の宮屋敷みややしきは話がしやすくなってきている。本業がこんな体たらくなのだから、副業の割合を増やしたところで文句を言われる筋合いはないだろう。

 広告は金がかかる。ネットの方でどうにか範囲を広げられないだろうか。レイジがスマートフォンを取り出して画面をのぞき込もうとしたところで。


「レイジ、客だ」

「客ぅぁ?」


 クロマルがテーブルから降りて、窓の方に近付いた。せいぜい二十センチの距離に隣のビルの壁があるので、ほとんど窓の意味を成してはいなかった。それでも、少しはアンテナの感度が違うとのことだった。

 どっこい、と掛け声が聞こえてきそうな勢いでクロマルは窓枠の上に乗っかった。そのままはみ出して、落っこちてしまいそうだった。クロマルの図体だと、間にハマって抜けなくなるかもしれない。なるべくなら、そんな情けない救助活動の構図の中には組み込まないでほしいものだ。


「間違いない。真っすぐここに向かってくる」


 それは困った。レイジは事務所の中をぐるりと見渡した。床の存在は何とか認められるが、大小のゴミがそこかしこに転がっている。これを片付けている余裕など全くない。せめてソファの周りだけでもと思っても、ついさっきクロマルがやらかしてくれたばかりだった。その張本人は、素知らぬ顔をしている。これで怒られるのは全部レイジなのだから、割に合わない。

 開き直ると、レイジはソファの上にどすんと座りなおした。知ったことか。ここに来るような人間は、どうせまともではない。軽い気持ちで訪れた者を追い返すのもまた、レイジの仕事のうちだ。安い覚悟で首を突っ込まれても、後々本人が後悔することになる。


 何しろ――魔法使いの世界だ。


 階段を昇る足音が軽い。体格は小柄な・・・女性だ。入り口で一度ためらったところから、慎重な性格をしている。そのくせ歩みには迷いがない。ここが何なのか、確信を持っているのか。


 或いはその心に、強い願いをいだいているのか。


 コンコン。


 ドアの前で数秒逡巡した気配がしてから、おずおずとしたノックの音がした。レイジはクロマルに目配せした。仕事だとすれば、どれだけぶりだろうか。レイジはソファの背もたれにぐったりと体重を預けた。


「どうぞ」


 ぎきぃ、と不快な音を立ててドアが開いた。一回つっかかって、それからするりと動く。そろそろ観念して蝶番ちょうつがいのサビを取った方がいいかも知れないな。そんなことを考えていたレイジは――


「あの、こちらは『ナキリ探偵事務所』でしょうか?」


 ずるり、とソファから滑り落ちそうになった。これは一体全体、どういうことなのか。何かの間違い、にしては色々と不自然だ。罠、と言われた方がまだしっくりとくる。目をぱちくりとさせて硬直したレイジに向かって、クロマルが「なぁーご」と低い声でひと鳴きした。


「ええっと、高間木たかまぎイクミと申します。ここは、『仲介士』の相談所、ですよね?」


 明るい茶色の髪が揺れる。おそらくこのビルが建てられてから、初めて迎え入れたタイプの人間だった。紺のチェックのスカートに、ブレザー、赤いネクタイ。生活時間帯の関係から、ここ数年では直接見かける機会が減っていたし、言葉を交わすことなど隕石に直撃する以上にありえなかった。


 そこにいたのはレイジとはまるで違う世界の住人――女子高校生だった。


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