隣の正体
休み時間もとうに終わり、午後の授業になった。午後の授業というのは睡魔との戦いだ。この睡魔に勝てるかどうかで後の成績に響いてくる…事もある。
「…であるからして…xとyはこのように…」
午後の数学というのはどうしてこう特に眠気が増すのだ。いやどの教科でもそうか。
ふと、隣が気になって見てみると、柏崎さんが教科書を広げず、ひたすら板書をノートに書き写している。
…ノートだけしか机にないというのは明らかにおかしい。
「…柏崎さん、もしかして…教科書忘れた?」
「……」
囁き声で聞いてみたが、変わらず板書を書き写しているだけだ。
「…もし忘れたんなら貸そうか?ないよりある方がマシだと思うよ」
教科書などあってもなくても大して変わりはない。それが数学だと思っていた。
すると、彼女の手が止まった。
「……いい、の?」
「ま、まあな」
「……ありが、とう…」
初めてまともな会話をした気がする。今までまともに話をした事がなかったせいか、たじろいでしまった。
「じゃあこの問題を…武嶋!」
「ぅえ!?」
「ぅえ!じゃない。3問目の1番を答えて。」
「あー、えっと…。」
まさかこのタイミングで当てられるとは思ってなかった。タイミング良すぎだろ。狙った…のか?
柏崎さんに教科書を貸しているなんて口が裂けても言えない。かと言って自分で貸しといて返せだなんてもっと言えない。
「どうした?わからないのか?」
「あ、えーっと…。す、すみません、教科書持ってくるの忘れました…」
「はあ…。何やってるんだ全く。じゃあもういい。この問題わかるやついるか?」
咄嗟に出た言葉だった。いきなり当てられて焦ったせいもある。
…授業が終わったら返してもらおう。
「まさか、お前が教科書忘れるなんてな」
「う、うるせえ…」
黒部が茶々を入れてくる。こういう時は偉そうに話すんだから。
「授業終わっても見せてやんねーよ。ふっふっふ」
「なっ、黒部てめえ…。い、いいよーっだ。家で復習するし」
「うわ、お前が復習とか、こりゃ明日は雪でも降るか?」
「あのなあ…」
「そこ!静かにしろ!」
数学の先生に怒鳴られてしまった。いくら黒部でも、まさか柏崎さんに数学の教科書を貸しているなんて言えない。俺は忘れてなどいない。貸しているだけだ。
授業終了のチャイムが鳴る。この数学の授業が終われば後は各々部活動やらサークルやらがある。
「よし、今日はここまで。お前らちゃんと家で復習してくるように。」
「やっと終わったあ…。死ぬかと思った…」
「んな大袈裟な。数学ぐらいで死んだりしねえよ」
「光牙、お前は分かっちゃいない。数学ってのは精神使うんだ。刻一刻と精神が削られていく…。それだけでもう死にそうだ…」
「大袈裟だって。てか、部活行かなくて大丈夫なのか?今日確かお前準備係で、早めに行かないとダメなんだろ?」
「やべ、そうだった!忘れてた!…んじゃまたな光牙!」
「おう…」
最近はやけに教室が静かになるのが早い。午後の授業が終わるとまるで誰もいなかったかのごとく静まり返る。
おかげで今この空間には俺と柏崎さんしか———
「あの…」
「ん?」
「教科書…ありがとう。」
「え?ああ、おう。」
「それと…」
「ん?」
「私を庇ってくれて…」
「庇った?いや、俺は何もしてないけど…」
「……。とにかく、ありがとう…」
「お、おう…」
柏崎さんとまともな会話が出来た。しかも最初よりもかなり自然に。結構日が経つけど、まだ馴染めてないのかな…?
「じゃあ、私、帰るね…。ありがと。またね…」
「おう…じゃあな…」
単に口数が少ないだけなのか、照れ屋なのか。そこはまだわからないが、俺は柏崎さんと自然に会話ができたことに不思議と喜びを感じていた。
俺はこの後何もなかったので、その喜びを感じたまま帰ろうと思ったのだが
「はあっ、はあっ!よかった、間に合った…」
大宮先輩がかなり息を切らしてやってきた。黒部を探しに来たのだろうか
「先輩、少し遅かったですよ。黒部ならもう————」
「スーちゃんじゃない!武嶋くんに用があって急いで来たの!」
「え?俺…」
「そう…武嶋くん…あのね…」
「先輩、少し落ち着いてください。呼吸整えてから話してください…」
「すー、はー…。…ふう」
「…落ち着きました?」
「まあね。」
「よかった。…それで、俺に用って?」
「そうだ、あのね、柏崎さん。柏崎杏花さん。私ね、何処かでその名前聞いたことあると思うって、昼休みに言ったじゃん?」
「あー、そういえば言ってましたねそんなこと。」
「…。武嶋くん。単刀直入に聞くよ。柏崎杏花って名前を聞いて、何も思い浮かばない?」
「全く。」
「本当に?」
「本当ですよ…!ど、どうしたんですかさっきから。そんなに切羽詰まって…」
「じゃあこっちも単刀直入に言うね。実は、柏崎さんって…。この学校にも莫大な投資をしてる、あの柏崎財閥のお嬢様なのよ。」
「へ?」
「…やっぱり。その顔は知らなかったみたいね。ここのクラスが柏崎さんを避けてたのもそれが原因はそれなの。…下手に話しかけたりすると、後から大変だから…。…聞いた事はあるよね?柏崎財閥」
「ええまあ。名前くらいは。」
「武嶋くんのクラスが柏崎さんを避けてた理由はそれなの。…柏崎さんがお嬢様だから。」
「…?どういう事です?」
「…柏崎財閥って、かなり大きい財閥でね、お金で人を動かせる力があるの。だから安易に話しかけたりすると、下手すると退学させられるかもしれないってこと。」
「へえ、凄いんですね、柏崎財閥って」
「まあ財閥会のトップ3に入るぐらいだしね…」
「…そうなんですね。」
「…あまり興味なさそうじゃん?もしかして難しかった?」
「あぁ、その、なんていうか…正直驚いてるんです。」
「え?」
「柏崎さんがそんな凄い人だなんて知らなかったので。驚いてます。」
「あれ、私はてっきりスーちゃんから少しは聞いてるのかとばかり…」
「全く聞いてませんよ。今初めて知りましたから。」
「そうなんだ…。」
「でも柏崎さんって照れ屋なんですかね?何だかそんな感じしました。」
「まるで話して来たかのような事いうね。…武嶋くん、もしかして柏崎さんと話したの?」
「はい。少しだけですけど。…というか授業中に教科書貸したんで、それを返してもらっただけなんですけどね。」
「そうなんだ…。…それだけ?」
「はい。それだけですよ?あとは特に何も。」
「そう…。あ!じゃあ私行くね。部活もうすぐ始まっちゃうし」
「あ、はい。」
「一応言っとくけど、気をつけてね武嶋くん。」
「ん?」
「じゃ、行ってくる!」
どういう事だろうか。最後に「気をつけてね」とだけ言い残していった…。
…俺は別に柏崎さんがお嬢様だからとか、そんなのは気にしないけどなあ…
俺はそんな事を思いながら帰り支度をし、学校を出て帰路に着いた。
第5章 END