絶望
ここはオーバーゲイトと呼ばれる世界。そのオーバーゲイトの北部に位置するノーゼル大陸の中の更に最北、森と山々に囲まれた小さな国、それがディフォレスト国である。
北にありながら暖流の影響で意外に寒くない。山と森に囲まれているだけあり他国との交流はあまりなく、また建国以来攻め込まれたこともなかった。そのため文化も独自のものが多いが貿易の目玉となるような工芸品や特産品はない。
首都アーケイシティは150年前にできた歴史の浅い都市である。といってもディフォレスト国では最も古い都市だ。要するに国自体が新しいのだ。
その大通りをゼムギルガンは歩いていた。先月敷設されたばかりの真新しい石畳にかつかつと足音が響く。うなだれて歩く彼女と相まって寂しさをかもし出していた。空は突き抜けるように青いのに、彼女の周りだけ空気がよどんでいるかのようだ。
「……やっと、名前が変えられると思ったのに……」
改名は彼女の悲願だった。それだけに、ショックも大きかった。
ゼムギルガン――伝説の英雄の名だ。いまから150年前、戦火を逃れた人々をまとめこの地に導いたディフォレストの祖にして建国の王。
屈強な男として知られており、熊を素手で仕留めたなどその武勇伝は数知れない。というより歴史も浅く、戦争もないため彼くらいしか英雄がいないとも言えるのだが。
ともかく女性に付ける名前ではない。また恐れ多いとして男性でもあまり付けない。ただでさえ目立つ名前であるのにそれが彼女の名だ。その苦労は計り知れなかった。
「これでも一応女の子なんだけどなぁ……はぁ~」
彼女は深くため息をついた。
「かわいい名前でかわいい服着て……たったそれだけが……それだけが願いなのに……」
落ち込みながらも彼女は今日の宿を探した。半ば家出同然にアーケイシティにやって来たため宿の手配すらしていなかったのだ。
「はやく宿見つけてもう寝よう……」
まだ日は高かったがもはや動き回る気力はなかった。大通りに立ち並ぶ宿から適当に一軒選ぶととぼとぼと中へ入っていった。
特に繁盛している様子もなく、カウンターではきれいに禿げ上がった店主とおぼしき中年男性が本を読んでいる。本のタイトルは「勇者ゼムギルガン」だった。それを見てまた気がめいり、出ようかとも思ったがそんな気力すらもなくカウンターへ向かう。
「お、いらっしゃい」
「……部屋空いてますか?」
「なんだ元気ねぇなぁ。部屋はいくらでも空いてるから早く寝な。顔色もよくねぇぞ」
おっちゃんの読んでる伝記のせいだよ、と思いながらも早く横になりたいので愛想笑いをかえしておいた。
「そんじゃ、宿帳に記名してくんな」
〝記名してくんな〟。宿屋の主人が言った何気ない一言。その一言は少女の五臓六腑を深く抉り、細胞の一つ一つにまで再起不能なほどのダメージを与えた。
ふらふらになりながらも何とか記帳する。そのくせゼとルガンを小さく書きパッと見「ムギ」に見えるようにすることを忘れていない。
彼女は昔からなるべくこの「ムギ」という自分で考えたニックネームを使うようにしており、友人にも「ムギ」と呼ぶように頼んでいた。
子供の頃、彼女にゼムとかギルといったあだ名を付けた男子たちが彼女の拳の前に沈んだこともよくあった。間違えて本名で呼んでしまい、恐怖と自己嫌悪で泣き出した友達の女の子を慰めたこともあった。
そういった記憶が走馬灯のように彼女の脳裏をぐるぐるとまわっていた。もはや限界だった。
「きゅう~」
目の前に暗い帳が下り、意識が遠のいていく。もはや立っていることもできずに彼女は崩れ落ちた。