第一章 王の資格 第六話
クレイマンの後に付いて、アルフリートが案内されたのは第二大広間と呼ばれる場所だった。王宮の中央部の上階に位置し、中程度の式典などを行う時に使用される場所である。入口へと続く廊下に、ずらりと侍従や侍女達が並んで彼を出迎え、アルフリートの後ろに控えていた者達もその列に加わる。扉へと向かう間に、両側に並ぶその顔ぶれをこっそりと眺め、アルフリートは少し機嫌を良くしていた。
(思ってたよりも若い女の子が多いなぁ、ラッキー)
彼はそんな事を考えていたのである。もちろんシルヴァという恋人がいる以上、浮気をしようなどとは考えていなかったが、(職場環境は華やかな方が労働意欲も増すってもんだ)と内心喜んでいた。緊張とは無縁のこの若者は、重厚な扉の向こうに何が待っているのか大方察しがついており、(きっとこれもテストみたいなもんなんだろうなぁ、はめられたって感じ)と秘かに愚痴っていたが、同時に面白そうだとも思っていた。
クレイマンが扉の前に立ち止まる。ひと呼吸おいて両開きに重そうなそれがゆっくりと開いていき、中の様子が目に入った。広間に老侍従長の声が響く。
「アルフリート・リーベンバーグ様をお連れ致しました」
臙脂色の絨毯が足元から真直ぐに壇上へと伸び、その両側にこれまたずらりと閣僚や文官、武官が居並ぶ。彼等がトランセリア王宮の中核を成す、この国を動かす官僚達であるのだろう。全員が一斉に頭を下げ、衛兵がぴしりと剣を捧げ持つ。クレイマンに促され、アルフリートは毛足の長い絨毯に一歩を踏み出した。
一段高くなった壇上にトランセリアの深い青の国旗が掲げられ、玉座には父アンドリューが正装を身に着けてにこやかに腰を下ろしていた。審議会に居た元老院の老人達も壇上に立ち、武官の最前列にはシルヴァの姿も見えた。恐らく宮廷騎士団の礼装なのだろう、初めて見る恋人の正装は大層美しくそして凛々しかった。ほぼ予想通りといった光景の中、一つだけ彼を驚かせる事があった。
(ばあちゃん………なんでまた)
アンドリューの隣、王妃の椅子に腰を下ろしているのは彼の祖母、先代の王妃シャーロットであった。小柄な身体に王妃の正装を身に纏い、姿勢良く座ってはいるがその表情は明らかに仏頂面であり、無理矢理連れて来られた事がありありと分かった。祖父アーロン以上の頑固者で人の言う事など聞きはしない彼女を、一体どうやって説き伏せ、ここに座らせたのか。アルフリートは何よりもそれを知りたくなり、正直今から始まる立太子の儀式(ここに至ってはそれ以外に考えられなかった)などどうでも良くなって来ていた。
緊張も見せていないが貫禄も無く、重々しさをまったく感じさせない足取りで、すたすたと列の間を通り抜けたアルフリートは壇上を見上げて立った。
(すげぇな、よくとんまえたもんだ)
割烹着姿で無い祖母など見るのは何年ぶりだろうと、つい凝視してしまう。母の葬儀の時に遠くから見掛けたきりではないだろうか。髪まで高々と結い上げられたシャーロットが、まるで悪いのはお前だとばかりに孫を睨み付けている。もちろん彼のせいなどでは無いのだが、後で肩の一つも揉んでやろうとアルフリートは思っていた。法務庁長官の声が朗々と響き渡る。
「只今より、トランセリア王国第四代の皇太子即位式典を執り行ないます」
(本気で退路を絶つつもりでいるんだなぁ。こんな事までしなくても、今さら気を変えたりはしないのに……)
昨日審議会を終えたばかりのアルフリートを一刻も早く皇太子の地位に就かせようとする、有無を言わせぬこのスケジュールは、彼をいささか辟易とさせた事は確かだった。しかし、同時に自分を試そうとするテストの意味合いもあるのだろうと彼は考えていた。何も告げずにいきなり式典の舞台に引っ張り出し、その反応や態度を見ようとしているのだろう。この程度のアクシデントで怖じ気付くようでは、とても国王の職務は勤まらないということなのか。アルフリートはシャーロットを担ぎ出した意味も次第に読めて来ていた。これがトランセリアや大陸諸国の式典の基本的な形なのであり、祖母が王妃の座にあることも、その『型』を意識しての所以だろうと考えていた。
「皆様にご報告申し上げます。昨日、国王審議会において、アルフリート・リーベンバーグ様を、全員一致で次期国王に承認する旨を可決致しました」
法務長官のこの言葉に、アルフリートは初めて自分が正式に王に選ばれた事を知った。(そういえばまだ聞いていなかったっけ)と思い出し、壇上に向かって一礼し、振り返って居並ぶ閣僚達にも頭を下げた。目の端にちらりとシルヴァの姿が入り、彼は一瞬だけ小さくそちらにウィンクをした。後で叱られるかも知れないが、このぐらいの余裕を見せてもいいだろうと思っていた。
アルフリートのその行為はいわゆるアドリブであったのだが、進行役を務める長官は満足げに頷き、裏方らしき文官達が駆け寄って彼を壇上へと導いた。シャーロットはまだ不機嫌そうな表情のままである。新たな王族の略歴が紹介され、この瞬間に初めてアルフリートは、国王夫妻の息子として公的にその存在を認められた事になる。
壇上に昇り広間を見渡して彼は気付いた。列の中には見慣れぬ服装の人物が幾人か混じっており、他国から赴任している大使や駐在武官も列席しているようであった。てっきり内々だけの式典だとばかり思っていたアルフリートは、さらに演奏の為に控えている宮廷楽士達の姿も目に止まり、(ああ……、本気なんだ)と今さらのように実感していた。ひょっとしたら今日はリハーサルなのかも知れないと、疑ってもいたからだ。
老齢の楽士長のタクトが静かに上がり、広間に荘厳なメロディが流れる中、遊牧民の古老リマが進み出る。補佐官が捧げ持つ青いマントを手に彼はアルフリートの前に立った。これが皇太子の象徴となる、言ってみれば国王の王冠のような物なのだろうと思い、アルフリートは陽に焼けた小柄な老人の前に片膝を付いた。正直に言って式典の作法はさっぱり分からず、説明されてもいないのだが、まぁこんなもんだろうと適当にやっている事が合っているのかいないのか、リマ老は彼の肩に丈の短い深い青色のそのマントをゆっくりと掛け、腰を屈めて小さく囁いた。
「シルヴァ殿が言うとったよ、おぬしはとても良い子じゃとの。しっかり、おやんなさいよ」
手を差し伸べてアルフリートを立ち上がらせると、老人はにこりと笑い掛けた。アルフリートも言葉を返す。
「ありがとうございます。至らぬ身ですが精一杯国政に励みます」
若々しいその手を皺だらけの両手が包み、ぽんぽんと軽く、慈しむように叩くと、リマはアルフリートを正面に向き直らせた。新たな皇太子が人々に向かって深々と一礼すると、広間全体を揺り動かす拍手が鳴り響いた。それなりに感動を呼び起こす場面であり、アルフリートは彼なりに決意を新たにし、アンドリューは満面の笑みを浮かべて手を叩いている。ただ、シャーロットだけが、最初から最後まで笑顔一つ見せなかったが。
それで式典はお開きとなった。あっさりとした物だとアルフリートは思い、控えの間へとクレイマンに案内されていく。アンドリューとシャーロットはただ座っていただけであったが、トランセリアでは戴冠式など王族に関わる式典は全て元老院の管轄であり、国王であっても立会人に過ぎなかった。
慣れないマントにぎこちなく歩きながら、入って行った控え室にその父親と祖母が居た。開口一番シャーロットは言った。
「アルフっ!あんたが王様になったらもうあたしを引っ張り出すのはやめとくれよっ。肩がこるったらありゃしない。ふんとにもう」
「ばあちゃん、そうしてるとちゃんと王妃様に見えるから不思議だなぁ……。分かった分かったごめんごめん。肩などお揉み致しましょう」
慌てて祖母の肩を揉み始め、ご機嫌を伺うアルフリート。その光景を見つめるアンドリューが、まだ笑顔を顔に貼り付かせたまま息子に言った。
「びっくりしただろう、まぁちょっとした試練ってやつだ。なかなか落ち着いて上手くやれていたと、評判は良かったぞ」
「結構あっさり終わるもんだな。てっきり挨拶しろとか言われるのかと思ったよ」
「そこまではさすがにな。あんまり余計な事を言われても困るし」
「何が驚いたって、よくばあちゃんをつかまえたなぁ。どうやったのか気になって仕方なかったよ」
親子の会話にシャーロットが口を挟んだ。
「このぼんくら息子はユリアの名前を出してあたしを説得しやがったのさ。『ユリアーナの最後の願いが叶う時がやっと来たんだよ、お袋が見届けてやってくれれば、きっと喜ぶと思うんだけどな』とかぬかしやがるんだ。まったく、そんなこと言われたら断るわけにいかないじゃないか」
「なるほどねぇ、その手か。でも、それなら俺からもお礼を言わなきゃ。……ばあちゃんありがとう」
「はいはい。でももうやらないからね。いちいちあたしが出なくたって、アルフはこの程度の式にびびったりはしないよ。誰が育てたと思ってるんだい。こんな事で怖じ気付くような子なら、あたしゃあの世でユリアに顔向け出来ないってもんさ」
さんざん言いたい事を言って、シャーロットは着替えの為に部屋を出て行った。恐らく自分を待っていてくれたのだろうと思い、アルフリートは黙ってその後ろ姿を見送った。アンドリューの三人の姉達は皆嫁いでおり、アルフリートはシャーロットにとって唯一の内孫となる。彼女なりに思い入れもあったのだろう。
六十を越える年齢のシャーロットは、普段は化粧もせず何処にでも居る元気なおばあさんといった風情であったが、侍女達の手によって飾り立てられ、きらびやかな衣装を見に纏った姿は十以上も若く見え、気品さえも感じられた。戦乱と苦難にあった二十年を、夫と共に国を支え守り通して来た自信が、彼女をそう見せているのかも知れない。
ソファーに身を沈めたアンドリューが口を開いた。
「年が明けたら戴冠式だ。そん時は親父もお袋も文句言わずに出てくれるだろうさ。今日のはまぁ…、正直顔見せだけの式だからな。ユリアの話は本当だけど。……お袋は、本当にあいつを可愛がってくれてたし」
侍女も伴わずたった一人で国元から嫁いで来たユリアーナを、シャーロットは実の娘以上に溺愛し、彼女に関してだけは徹底的に甘やかしていた。何かといえば王宮に彼女を見舞い、時には小柄な身体で軽々とユリアをおぶって庭を散歩する事さえあった。シャーロットも、病弱な王妃が決して長くは生きられぬ身体である事を、察していたのかも知れなかった。
「俺は、半分ぐらいは母様の為に王になろうと決心したような気がする。そんな事を言われたのは一度きりだったけど。………ところで、これってまだ脱いじゃダメなのかな?」
肩に掛かったマントを指差して尋ねるアルフリート。せっかくのしんみりとした雰囲気を台無しにされ、アンドリューは苦笑して肩をすくめ、こう言った。
「もういいぞ。どっちにしろ昼飯だ、汚されちゃかなわん」
父親と昼食を終えたアルフリートは、小さな会議室のような部屋で官僚から今後の説明を受けていた。度の強そうな眼鏡を掛けた宮内局のサイモン局長が、今日の朝からの非礼を詫び、てきぱきとこれから半年に及ぶ皇太子期間のスケジュールを読み上げて行く。幾人もの教授による個人授業に始まり、彼等のように王宮で働く人達との顔合わせや、宮廷の様々な慣習に外交時の礼儀作法。武官との基本的な訓練や騎士団への訓示も覚えなければならない。さらに、父王アンドリューの実際の職務の見学や、トランセリアに駐在している各国大使との謁見もメニューに加えられていた。冬を越し、雪が溶け始める頃に行われる即位式典は、当然のように日程が既に決められており、各国の訪問団の調整も始まっているという。こうしてアルフリートは、目の回るように忙しい王族の生活に、否応なく慣らされていくのであった。一通りの説明を終え、局長は質問を促した。
「以上が戴冠式迄のおおまかなスケジュールでございます。個々の段取りにつきましては、クレイマン侍従長や、それぞれの担当者からその都度説明がございますので、その折にご確認下さい。何かご質問はございますか?」
この時点で既に相当な量になっている様々な書類の束を手に、アルフリートは尋ねた。
「えーと、自宅から私物を持って来たいんだけど、どの程度まで許されてるのかな?」
「まず、金銭は一切持ち込めません。宝石とか絵画とか、あまり高価な物も出来れば御遠慮頂きたいと存じます。王族は清貧である旨、王宮規範に定められておりますので。身に着ける衣服や装飾品などは全て王宮から支給されます。身の回りの生活必需品、タオルとか石鹸とかいった物も同様です。…どういった物をお考えですか?」
「シル………友人にもらった誕生日のプレゼントなんです。懐中時計とペンとかの文房具、それと櫛です。後は出来れば本を何冊か持って来たいんだけど」
「その程度でしたら差し支えないと存じますが、あまり多くは持ち込めません。一人で持ち運べるぐらいの、そうですね、鞄一つに収まるようにしていただけると、助かります」
見た目真面目そうなサイモン局長は、意外と話の分かる男のようだ。年齢は三十と少しだろうか、返答も素早く、いちいち悩んだり上司に確認を求めたりはしない。アルフリートは、クレイマンの印象から王宮が自分の国とは思えない程格式張った場所かと思っていたのだが、実際現場で働く人々はそれ程でも無いようだ。この後も、ほとんどの人物は話し掛ければ気軽に受け答えをしてくれ、老侍従長が宮廷でも指折りの堅物である事を彼は知るのである。サイモンは続けて言った。
「他にはございますか」
「そうだな………。あ、学校に休学届けを出したままだ。いくらなんでも二十年の休みは受け付けちゃくれないよね?」
「左様でございますね。よろしければ局員を向かわせて退学の手続きを行なっても結構ですが、ご自分でなさいますか?」
「出来れば顔を出したいなぁ、挨拶もしたいし」
数カ月を通っただけの大学校であったが、親しい友人も沢山出来、教授達とも議論を交える事があった。楽しかった学生生活を終えなければならない事だけは、アルフリートにとって辛い事だった。サイモン局長は頷いて立ち上がりながら言った。
「それでは今から参りましょう。この後は予定も開けてございますし、私がお供致しますので。帰りにご自宅に寄って、引っ越しも済ませてしまいましょう」
あまりの行動の早さに、着いていけないアルフリートを急かし、サイモンは足早に廊下を進む。トランセリア王宮に二十人程存在する各局の局長といえば、他のどの役職よりも多忙な日々を送っている事を、この時アルフリートは身を持って実感するのである。せかせかと歩きながら、宮内局局長は言った。
「これから王宮の外へお出になる場合は、宮内局か侍従長の許可が必要です。護衛をお付けせねばなりませんので。くれぐれも、お忍びなどなされませんようにお願い致します」
「………親父はお忍びとかしなかったの?」
「陛下はその点では大変に真面目でいらっしゃいましたので、我々としても安心でございました」
中央大広間を抜け、用意されていた馬車に二人は飛び乗った。さすがに国王用の馬車では無く、二頭立ての普通の大きさの物であったが、それなりの防護と豪華さを兼ね備えていた。甲冑姿の宮廷騎士が二名御者台に座った。走り出した馬車の中で、アルフリートはなおも尋ねる。
「サイモン局長、あなたは話が早くて面白いなぁ。ついでに聞きたいんだけど、親父って誰か愛人とか居なかった?そろそろ再婚してもいいと思ってるんだけど」
この質問にはサイモンも面食らった表情を見せたが、それもほんの一瞬だった。百戦錬磨のトランセリア閣僚は、当り障りの無い台詞をすらすらと答えてみせた。
「私はそのような話を耳にした事はございませんが、王宮内では様々な噂話が飛び交っておりますので、いずれ皇太子殿下もお耳にする事があるのではと存じます。個人的には、陛下は大変忙しくプライベートも無く働いて来られましたので、ご退位された後は、ご自身の幸せを考えるべきだろうと思っております。今は立ち直っておられるようですが、王妃殿下のご崩御の時はそれは痛々しく……、失礼を、皇太子殿下のご心痛も考えませんで」
「いや、俺はもう平気。というか、今日、あの部屋に入ってみて分かったよ。…七年は、人の心を癒すには十分とは言わないけれど、大きな年月だって」
黙って頷いた局長にアルフリートは思い立って言った。
「サイモン、すぐでなくてもいいんだけど、半日ぐらい休みを取って行きたい所があるんだ。出来れば、その、シルヴァ将軍と一緒に」
「…………調整致しましてすぐに手配を。お任せ下さい。…母君のお墓参りでございますか?」
「そう。本当に話が早くて助かるよ」
「お誉めの言葉と承ります。私に限りませんが、局長は皆慌ただしく毎日を過ごしておりますので、自然とこうなってしまうのかもしれません。ご無礼の節はお許し下さいませ」
アルフリートは実力第一主義と言われるトランセリア閣僚の力量を初めて垣間見、その能力の高さに驚いていた。彼が王位に在った時代、『大陸最強の実務集団』と、絶大な信頼を置く事になる彼等との、最初の結び付きがここから始まったのである。
王立大学校に横付けされた馬車からアルフリートとサイモンが降り立つ。午後の授業の最中なのだろう、古びた木造二階建ての校舎が建つ敷地の何処にも、外を歩いている生徒の姿は見えなかった。
サイモンが受付の事務員に名乗り出ると、初老のその女性はすぐに校長室へと案内を買って出てくれた。アルフリートに対し深々と一礼したその態度から、ここにまで自分が立太子した事が知らされていると気付き、彼は驚きと共にこの国の情報伝達の早さに舌を巻いていた。
校長はにこやかに二人を招き入れ、手続きはものの数分で終わった。恐らくこういった書類なども予め用意されていたのだろう。校長はクラスに挨拶をしていくかと尋ねたが、アルフリートは迷った末にそれを断わった。わざわざここに来てまで気を変えたその理由は、ひょっとしたら教授や生徒達にも、自分が皇太子になった事が知れ渡っているのでは無いかと思い始めたからだ。きっと彼等は自分にどう接してよいか戸惑うだろうし、彼にしても友人達のそんな所は見たく無かったのである。
校舎から出る二人を校長が見送ってくれた。門までのちょうど中程に来た辺りで、校長はアルフリートを呼び止め、ここで少し待つようにと告げる。立ち止まり、校舎の建物を見上げ、アルフリートは心の中で別れを言った。今思えば、飛び級をして一年程早く入学しておけば、卒業する事も彼の成績ならば不可能では無かっただろう。しかし、ここで過ごした日々と同様に、上級学校での毎日も楽しい物だったのである。友人達と過ごした一日一日を大切に思う故に、尚一層淋しさが込み上げる。アルフリートが思わず俯いた時、ふいに大きな鐘の音が響いた。校長が授業の始まりと終りを告げる鐘を手に、息を切らして走って来る。その音に授業中の生徒達が一斉に窓の外を見た。
「………アルフだ」
中の一人がアルフリートの姿に気付き、窓に駆け寄る。
「おい、アルフだ」
「あいつどうして……、退学手続きか?」
「おーい、アルフー!」
窓に鈴生りになった学友達が口々に声を掛ける。アルフリートは遠慮がちに小さく手を振った。それを見た生徒達はさらに声を張り上げて叫ぶ。
「頑張れよーっ!」
「ちゃんとした王様になれっ!」
「俺も王宮に行くからなー!」
「負けんなーっ!」
窓枠に足を掛け、拳を突き出し、身を乗り出して声を枯らす友人達に、アルフリートは精一杯両手を拡げて大きく振り回した。教授達までも彼に手を振り返している。アルフリートの大きな瞳が涙で潤む。これから彼が歩む道のりの困難さを皆分かっていたのだ。トランセリアの学問の頂点に立つ王立大学校は、多くの人材を輩出し王宮でも卒業生が多数働いていた。アルフリート自身もかつては外交官として出仕する目標を持っていたし、生徒達の多くも仕官の道を志している。この国の王の実情を知らぬ者は居ないだろう。
何度も何度も、飛び上がるように手を振って、アルフリートは振り返り振り返り馬車へと乗り込んだ。懸命に涙を堪え、下を向いてサイモン局長に見られまいとする。どうにか我慢をして、頬を濡らさずに済んだと思い顔を上げると、眼鏡を外したサイモンがぼろぼろと流れる涙をハンカチで拭っていた。どうやら彼は涙脆い人物のようだ。
「……よう…ございましたね。……本当に、…ようございました」
鼻を啜りながら繰り返す彼に、アルフリートは小さく呟く。
「うん、そうだな。良かった。………頑張んないとな」
窓から顔を出し、もう一度学校の校舎を見つめ、彼は言った。
「頑張ろう」
引っ越しの荷物はごくわずかだった。自室の机の上や引き出しから、シルヴァのくれたプレゼントを古いトランクに放り込み、本棚から数冊の本を選ぶと、アルフリートは部屋を見回す。何度見ても、もう持って行こうと思えるような物は無く、トランクの中味はすかすかで隙き間だらけだった。
ダイニングでは帰って来ていたシャーロットがサイモンにお茶を出しており、彼はしきりと恐縮している。声を掛けようとして洗面所の櫛を忘れた事に気付き、慌てて取りに行く。
「アルフ、これ持っていきな」
壁に掛かっていたユリアーナの肖像画を外しながら、シャーロットは言った。それは父母の結婚式の折に市内で売りに出された、印刷によるありふれた物であり、トランクにも十分収まるような大きさだった。王宮には宮廷画家の手による大きな肖像画があちこちに飾られているのだが、アルフリートは黙って祖母の言う通りにした。丁寧に埃を払い、布で大切そうにくるむと、それはシャーロット自身の手でトランクに納められた。
「あの子が見てるって事、忘れんじゃないよ」
孫の背中を乱暴に叩きながら、トランセリア第二代の王妃はからからと笑った。アルフリートは一言だけそれに答えた。
「腹は括ったよ」
お茶を手にするサイモン局長は、その光景に再び瞳を潤ませてしまっていた。
皇太子として、勉強に勤しむ日々が始まってから半月程経ったある日、アルフリートはシルヴァと共に母親の墓を詣でた。宮内局局長サイモンは見事なスケジュール調整をこなし、皇太子が一通りのローテーションを終えて概ね王宮での暮らしに慣れた頃を見計らって、多忙な第三軍司令官の休暇を合わせてくれた。王族として初めての休日を、恋人と過ごす事が出来るとあってか、アルフリートの機嫌は大層良かった。
シルヴァは時間を見繕っては頻繁に彼の元を訪れ、食事を共にする事も度々あった。表向きは親戚として幼い頃から姉弟同然に育ったアルフリートを心配しての訪問だが、王宮で二人の仲を知らぬ人物は最早皆無と言ってもよかった。アルフリートもシルヴァも、公に交際を口にする事は無かったが、既に元老院は内々に彼女の王妃としての資質を調査し始め、宮内局では婚約発表のタイミングを議題に乗せるべきではとの声も上がっていた。
墓所の管理官の丁重な挨拶を受け、緑濃い夏の盛りの道行きを、二人は仲良く手を繋いで歩いた。今日のシルヴァは珍しく私服であったが、いつもの軍装とさほど変わらぬシャツとスラックス姿であり、ご丁寧に腰に剣まで吊っていた。自分が帯剣して皇太子の護衛に付けば、他の騎士の邪魔が入らず二人きりで居られると考えての事だろう。歩きながら彼女は言った。
「もう大分慣れたみたいね」
「勉強はついこないだまでやってたからね、場所が変わっただけだし。閣僚の連中とも色々話が出来て面白いよ。ただクレイマンだけはまだまだ厳しいかなぁ」
「行儀作法だけはわたしも心配だったのよね。まぁいい機会だと思いなさい。侍従長の御墨付きがもらえれば、どこの宮廷だって大丈夫だから」
アルフリートは心持ちシルヴァに顔を寄せて囁いた。
「そろそろ泊まりに来なよ」
「やぁよ。それこそどんな噂になるか分かったもんじゃないわ、今だってみんな面白がっちゃって凄いんだから」
「え~、しーちゃんぼく独り寝が淋しいの」
わざとらしく子供の頃の呼び方で小首を傾げて見せるアルフリート。
「何言ってんのばか」
そうは言いながらも(ちょっと可愛いかも……)と思ってしまっているシルヴァ。かすかに頬が赤みを帯びている。
王宮の一部の人は薄々感付いているのだが、シルヴァは普段の職務の時の厳格な指揮官としての態度が、アルフリートの前でだけは途端に普通の若い女性に戻ってしまうようだ。その光景を目撃した侍女は「言葉遣いは丁寧なままなんですが、顔付きが全然違ってて、目元なんかすっごくお優しくなってるんですよ」と、なにやら嬉しそうに語るのである。それが惚れた弱味なのか、長い付き合いの保護者的な立場に因る物なのかは、本人にもはっきりとは分かっていないのかも知れない。
「そりゃわたしだって少しは淋しいと思ったりもするのよ。でも、王宮はわたしにとって仕事場なのよ。恋愛とはちゃんと切り離して考えたいわ」
「真面目だなぁ、シルヴァは」
「アルフが不真面目すぎなの。……今度お休みになったら家に来なさいよ。母様もダグ兄様も待ってるから」
「は~………はい」
「よろしい」
シルヴァにしてみれば、年下の恋人を嗜めているつもりなのだろうが、端から見ればいちゃついている以外の何物でも無い。幸い此処には彼等二人しか居なかった。
周囲より一段高く丘のようになって居る所に、代々の王族が埋葬されている。とはいっても、初代の王アルザスと、戦女神と讃えられた王妃ラウラ、そしてアルフリートの母ユリアーナの三人が葬られているに過ぎなかったが。
まずは曾祖父と曾祖母の墓に花を捧げる。管理官の手入れが行き届いているらしく、墓石は綺麗に磨かれ、辺りにはゴミ一つ落ちてはいなかった。そこから少し離れた場所にユリアーナの墓がある。アンドリューは常々「私が死んだらユリアの隣に埋葬してくれ」と言っており、その為のスペースも開けてあるようだ。対してアーロンとシャーロットは、口を揃えて「死んだ後の事なんか知らん」と言い放ち、自分の墓の事などどうでもいいと思っているようである。
ユリアーナの墓には供えられたばかりだと思しき、ひと束の花が置かれていた。アルフリートはひょっとしてシャーロットかも知れないと思い、注意深く位置をずらすと持参した花束を並べて供えた。シルヴァと二人、しばらくの間祈りを捧げ、顔を上げて彼は呟く。
「ありがとう、シルヴァ」
「……アルフは、小さい頃からおばさまの為に国王になるって、言ってたものね」
「母様にそうやって言われたのは、一度きりだったんだけどね。すごく良く覚えてる。いや、普段は忘れてるんだけど、時々ふっと思い出すんだ。一言一句間違っていないと思う。あの言葉が無ければ、ひょっとしたら王様になろうなんて思わなかったかも知れないなぁ……」
「アルフって、今でもおばさまだけは『母様』って言うのね。おじさまは『親父』なのに……。男の子ってやつ?」
くすくすと笑ってそう言うシルヴァに、アルフリートは照れくさそうに答えた。
「呼び方を変える年頃をそのまま通り過ぎちゃったからなぁ。それにあの人『お袋』って感じじゃ無かったし」
「思い出すわ、本当に綺麗な人だった。なんだかふわふわしてて、いい匂いがして、髪の毛なんかきらきら光ってた。いつもにこにこ笑ってて、周りの人もみんな楽しそうで。物語に出て来るお姫さまって、きっとこういう人なんだろうなって思ってた。そういえば本を読んでもらったこともあったわ。わたし、続きが気になってその本探して買ったもの。おじさまとの馴れ初めのきっかけになった本だって、言ってらしたわよ」
「その話は親父から耳にタコが出来るぐらい聞かされたよ。どこ迄ホントなんだか……」
プロタリア帝都で開かれた舞踏会で、伯爵令嬢であったユリアーナを見初め、領地まで彼女を追ってプロポーズしたアンドリューの皇太子時代の逸話は、トランセリアの人々が皆良く知っているロマンスであった。一時は芝居の題材にまでなった程の人気であったが、随分と脚色されているのだろうとアルフリートなどは思っていた。二人が会話を交わすきっかけとなった冒険小説は、この国でもかなりの売上げを記録したようである。シルヴァは唇を尖らせて反論した。
「えー、本当よぉ。だってわたし、おじさまの護衛官だったセニオ准将からも聞いたんだもの。おばさまに会いに、二人で一緒に伯爵領まで旅したって言ってたもの」
「……デールおじさん、酔っぱらってただろう。あの人は時々ウチに来るんだけどなんせ大酒飲みだからなぁ、聞く度に細かいとこが変わってるんだよ」
「いいのっ。私の中では本当なの」
はいはいとシルヴァをなだめつつ、アルフリートはもう一度母親の墓石に目をやり、腰を屈めて指先でそっとその名前をなぞった。いつまでも少女のようだったその笑顔を脳裏に思い浮かべ、呟いた。
「母親だったけど、なんだか不思議な人だった。身体が弱くなかったら、どんな人生を生きていたのか……。王妃としてもっと国の為に働いていたのかも。いや、そうしたら親父のとこになんか嫁に来なかったかも知れないな」
アルフリートは小さく笑ってシルヴァに向き直る。恋人の手を取り、しばらくそれを見つめていたかと思えば、ふいに顔を上げて言った。
「あと半年もすれば俺は国王になる。……シルヴァ、頑張って働くから、…結婚してくれ。戴冠式をしたら正式に婚約を発表しよう」
「アル…フ……」
「分かってると思うけど、王妃になるって事だよ。ホントはそんなのはどうでもいいんだけど、ただ、一緒に国を支えて欲しい……。いや、そうじゃないや、俺を助けて欲しいんだ。そばに居て欲しいんだ。……それだけなんだ」
「もう一回言ってアルフ。ひと言だけでいいから」
「………結婚して」
「はい」
一瞬の迷いも無くそう答えると、シルヴァはアルフリートの首に手を回し、そっと唇を重ねた。短いキスの後、目を開けた彼女の瞳に映った恋人の顔は、悲しそうに歪んでいる。その表情の理由を、シルヴァは誰よりも分かっていた。
「もう、そんな顔しないの。……あの時からずっと覚悟は決めていたんだから、大丈夫」
この国の王妃になるという事が、決していい事ばかりで無いのは国王と同様である。贅沢な暮らしなど望むべくも無いし、将軍として今でも十分に多忙なシルヴァが、尚一層職務に追われる事になるだろう。王族として国民に対する重責を担わねばならず、彼女の苦手とする外交もこれまで以上にこなさねばならない。アルフリートにしたところで、失策を重ねれば王位を追われる可能性もあり得るのだ。十二歳の時のプロポーズとは違い、今のアルフリートはその言葉の重みがはっきりと理解出来る年齢になった。彼は言った。
「ごめ……。謝ったりなんかしちゃダメだな。………ありがとう、シルヴァ」
「どういたしまして。……大丈夫、きっと大丈夫よ。わたしたちは、ちゃんとやれるわ」
「うん、そうだね。………行こう」
しっかりと手を繋ぎ、一度ユリアーナの墓を振り返って、二人は歩き出した。お互いが居れば、何も恐れる事など無いと、心に言い聞かせて。
年が明け、雪が溶け始める頃、アルフリートはトランセリア第四代の国王となる。
第一章はこれで終了です。
続きの第二章はまた投稿しますので、よろしくお願いします。