第一章 王の資格 第五話
翌朝、王宮からの使いがアルフリートを迎えに現れた。シルヴァに怒られないようにと、早起きして念入りに身支度を整えていた彼は、玄関の前に停められた馬車を見て驚いた。それは国王専用の大型の馬車だったのである。
豪華と言う程の装飾はされてはいないが、頑丈そうな鉄張りの外見とゆったりとした室内を持つその馬車に、一人で乗せられて王宮迄の道のりを行くアルフリート。慣れない馬車にすぐに彼は手持ち無沙汰となり、座席をめくってみたり、窓を開け閉めしたりと、早くも行儀の悪い行動に出ていた。
王宮に到着したアルフリートを出迎える人数も、昨日と違いいきなり十数人に増えている。その上、案内された控え室には彼の着替えまで用意されており、高齢の侍従が有無を言わさずそれらを身に着けさせていく。仕立ての良さそうな肌触りの良いドレスシャツと、わずかな折り目の乱れも無くアイロン掛けされたスラックス。紐飾りと刺繍の施された短い丈の上着に磨き上げられ、顔の映りそうな革靴。てきぱきと働く侍従達は瞬く間にアルフリートを身綺麗に仕立て上げ、髪にも丁寧に櫛が入れられ、いつもはあちこちを向いている彼の癖のある金髪が、本人も生まれて初めて見るほどきっちりと整えられた。
鏡に映る自分を(馬子にも衣装って言うんだっけ?)と思いつつ、現れた若い侍女達を笑わせようと「嘘みたい!これが僕?」などとふざけた一言を発してみるが誰にも相手にされず、(正式な発表も何も、これじゃもう決まってるのまる分かりじゃんよ)と内心で文句を言い、(今朝の洗面所での苦労はいらなかったんだなぁ…)とがっかりする。
鏡の前で次々と表情を変化させるアルフリートに、着替えを指揮していた、一際年老いて痩せた侍従が、慇懃な礼と共に白いひげを蓄えた口を動かして告げた。背中に棒でも入っているのかと思える程姿勢が良く、動きのひとつひとつが機械のようにきちきちとしている。
「ご無沙汰を致しておりますアルフリート様。御幼少のみぎりに幾度かお顔を拝見した事がございます、侍従長を拝命致しますクレイマンにございます」
「………ああ、そう言えば見覚えがあります。お久し振りです、お元気ですか」
「お陰さまを持ちまして無事にこうしてお勤めを全う出来ております。まずはお部屋にご案内するようにと仰せつかっておりますので、どうぞこちらへ」
「あ、そうなんですか。はい分かりました」
「のち程閣僚の皆様方からご説明があると存じますが、王宮でのお言葉遣いも皇太子の期間中にお勉強なさらなければなりません。まずは、わたくしに対して敬語をお使いになってはいけません、なるべくお早く、お慣れになって下さいますよう」
「分かりまし……分かった、クレイマン。よろしくおねが…、頼む」
「それでは参りましょう」
恐らく自分の祖父よりも年配だと思われる侍従長に、敬語を使わずに話をするのは意識していてもなかなか難しいらしく、この後もアルフリートは幾度も言い直しをする羽目になる。元々彼は身内以外には礼儀正しい少年であり、その本性を知らない大人にはかなりの優等生で通っていた。親戚の前や幼馴染みの家などでは、油断をするのか普段の調子で話してしまい、すぐに正体がばれてしまうのである。
数人の侍女と侍従を従え、クレイマンの後に着いて歩くアルフリートに対し、宮廷で働く人々はすれ違う度にきちんと立ち止まって頭を下げる。昨日と一変したその対応に、彼は王宮全体に自分を皇太子として扱うよう指示がされているのだろうと察した。審議会の正式な結果発表や、立太子の儀式の前にそのような命令がなされた理由を、アルフリートは土壇場で自分が逃げ出さないようにする策略ではないかと勘繰っていた。迎えの馬車にわざわざ大きくて目立つ国王専用の物を手配した理由も、それによってアルフリートが次期国王に選ばれたと、市民に宣伝する目的が合ったのかも知れない。それ迄王族である事を極力知られぬように暮らして来た彼を、この日の朝から正反対の生活に半ば強制的に放り込み、今さら後戻りは出来ないと無言の圧力を掛けて来ているようにアルフリートは感じていた。
やれやれと心の中でため息をつきつつも、大仰なこの暮らしもなかなか新鮮な体験であり、しばらくは退屈しないだろうと楽観的に彼は思っていた。先程現れた自分と同じ歳ぐらいの若い二人の侍女も、可愛らしい子であったし、後で名前と歳を聞いておこうなどと不謹慎な事まで考えていた。後にアルフリートは知るのであるが、彼が王宮に住まうようになってしばらくは、歳若い侍女や女性官僚達の間で、若々しく美形の皇太子はかなり人気の的になっていたのである。しかし彼がシルヴァの恋人である事が判明した途端、その熱は潮が引くように去って行き、アルフリートがその話を親しくなった侍女から聞いた時には、最早忘れられた話題となっていた。戦場で魔女のごとき無敵振りを発揮する女将軍シルヴァの噂は王宮で知らぬ者は居らず、誰も彼女のライバルになろうなどとは考えなかったのである。
案内された彼の私室は、それ迄与えられていたベッドと机でいっぱいになってしまう狭い自室とは格段の違いが合った。書斎を兼ねた居間と十人は食事が出来そうな食堂、天蓋付きの大きなベッドの置かれた寝室、そして洗面所と浴室が隣接し、どの部屋にもきちんと調度が備えられている。隣には護衛の騎士や侍女の控えの間があり、居間に面した中庭から、明るい日射しが差し込んでいる。アルフリートは思わず声に出して呟いた。
「……広すぎてどうしていいか分からない」
「すぐにお慣れになりますでしょう」
広く豪華な私室に戸惑っていた彼であったが、後に国王となって他国の王宮での歓待を受けた時に、自分が王族としては如何に質素な暮らしをしているのかを思い知るのである。大国の王ともなれば、自分が住むだけの建物を国にいくつも持っているのが当り前であり、住まいが三部屋しか無い国王など大陸でもアルフリート以外には存在しないであろう。かといって、その後も彼が自室に対して不満を言い出す事は無く、贅沢な暮らしをしようとしても、そんな余裕はトランセリアには無いのだから。変わらぬ真面目くさった表情のまま、クレイマンが言う。
「まだお時間の余裕がございますので、少々ご説明をさせて頂きとう存じます。アルフリート様のお世話はわたくしが責任者となり、侍従二名、侍女二名がそれぞれ交替しつつお勤めに当らせて頂きます。主にこちらの私室でのご用事を男性の侍従が、執務室でのご用事を女性の侍女が担当する割り当てになっております。なんなりとお申し付け下さいませ」
クレイマンからこれからの生活についての話を聞きながら、さしものアルフリートもあまりの変化の早さに対応出来るかどうか不安に思っていた。トランセリアの王宮が、他国に比べ政策決定から実行までの時間が極端に短い事は学んでいたが、これほどとは思ってもみなかった。この様子では、今日の午後から国王教育が始まってもなんら不思議は無いとすら思える。
これから二十年を過ごすのだろう私室を見渡し、アルフリートは考えを改める必要があると自分に言い聞かせた。落ち着いて良く見れば、この部屋はかつて彼の母親が住んでいた場所だと気付いたのだ。居間から見える中庭の景色に見覚えがあり、以前はここにベッドが置かれていた筈であった。すっかり模様替えをされていた為に気付くのに時間が掛かってしまった。彼は言った。
「クレイマン、ちょっといいかい」
「はい、なんでございましょう」
「ここは以前母様の部屋だったね」
「………左様でございます。ご記憶でいらっしゃいましたか」
「ああ、中庭のあの木。それから池の脇の岩。母様と一緒に遊んだ覚えがある。あんなに小さかったかな」
「アルフリート様はまだお小さい頃でございましたから」
母の死から七年、彼は王宮に来る事はあってもこの部屋に近付こうとはしなかった。亡くなる一年程前から、王妃はベッドから起き上がる事も少なくなっており、幼いアルフリートと遊ぶ事も出来ずに居た。彼にしてみれば辛い記憶の方がこの部屋には多いのかも知れない。クレイマンは黙って窓の外を見つめるアルフリートに、躊躇いがちにこう告げた。
「アルフリート様、……もし、この部屋がお気に召さないようであれば、わたくしから上申致しまして代えて頂く事も……」
「いや、ここでいいよ。この眺めは嫌いじゃ無かったし、それに……不思議だな、あの時はあんなにイヤだったのに。思い出すのも辛かったのになぁ…。人間って、やっぱりそういう風にできているんだ。時間がちゃんと治してくれるんだな……」
次第に小さくなっていったアルフリートの言葉を、痩身の老侍従長は黙って聞いていた。この部屋を選んだのは現王アンドリューであったが、クレイマンはその意図が図れずにいた。王宮にそれ程部屋数の余裕がある訳では無いが、わざわざ母親の亡くなった部屋を選ばずとも良いのでは無いかと思えたのだ。だが、振り返ったアルフリートは、意外な一言を彼に告げた。
「ここを選んだのはおや……、父だろう?クレイマン」
「仰せの通りでございます」
「やっぱりな。そういう事か。……きっと見せてやれって意味だよ。母様に立派な国王になった所を見せてやれって。母様は俺に王様になってほしいって言ってたし、親父は心底惚れてたからなぁ……。どこまで愛妻家なんだかあの親父は、まったく………あ」
「お言葉遣いにはお気を付け下さいますよう、お願い申し上げます」
「……はい、……気を付けます。いや、気を付ける」
朝からすっかり王宮のペースに振り回されているアルフリートは、天井を見上げ、頭をこりこりと掻いてしばらく考え込んでいたが、やがて勢い良くどさりとソファーに腰を下ろした。せっかく整えた頭髪が乱れ、侍従達が思わず手を伸ばし掛ける。アルフリートは皆を見回して言った。
「クレイマン、それからみんなも聞いてくれ。悪いけど俺には無理だ」
その言葉に、その場に居る全員の表情が凍り付いた。さしもの冷静な侍従長も戸惑いを隠せず、言葉を絞り出した。
「あ……アルフリート様、……それは、王位を辞退するという事で、…ございましょうか」
「え?いや。……ああごめんごめん、そうじゃない。言葉遣いとか、あと色々の話」
皆が一様にほっと息を付いた。この場でアルフリートが王位を拒んだとなれば、自分達にも責任の一端があると思ってでもいたのだろう。立太子するまでは一市民のアルフリートを、今この場で拘束する法的根拠は何処にも無いのだ。片やアルフリートも小さくはあるが失敗をしていた。彼はこれまで一度も自分が国王に承認されたのかどうかを尋ねていなかったのである。恐らく彼等は答えをはぐらかすだろうが、正式な発表を聞く為に訪れた王宮で、いきなり皇太子扱いされているのだから、何も知らない振りをしなければいけないアルフリートは一言ぐらい尋ねてみるべきだったろう。
「悪かった、びっくりさせちゃったのか。ごめんごめん。俺が言いたいのは、……ここって自分ちだってこと。これから先、俺にとってプライベートと言えるのは、この部屋に居る時だけになるんだろう?だったらあんまり堅苦しい言葉遣いや、行儀良くばっかりはしてられないよ。もちろん仕事中や、他の国の人に会う時なんかはちゃんとするから、ここに戻った時ぐらいは大目に見てくれないかな。どうだい、クレイマン」
侍女と侍従は互いに顔を見合わせ、クレイマンはしばらく黙りこくっていた。アルフリートはようやく自分のペースという物を掴み始めた。子供の頃の母親との思い出が、彼の本来の持ち味を取り戻すきっかけとなったようだ。
昔日のある日、幼いアルフリートをベッドの上で抱きかかえ、王妃ユリアーナは一人息子だけにこう打ち明けていた。
「かあ様はね、本当はアルフに王様になってもらいたいって、思っているのですよ。我が国には色々と厳しい審査がある事は知っているけれど、でもお父様の後を継いでもらいたいのです。おじい様やおばあ様がお作りになって、お父様が守って来たこの国を、かあ様を暖かく迎え入れてくれたトランセリアを、アルフが引継いでくれたら、とても嬉しく思うのです。こんなこと口にしてはいけないのかもしれないけれど……でも、あなたにだけは言っておきたくて。お父様のような、立派な国王になって欲しいとは思いますけど、きっとアルフにはアルフのやり方があるのでしょうね。アルフはとても賢いから、いい王様になれると思うのです。あなたの時代の国を、あなたの方法で、守っていけるようになれば、それはとても素敵な事だわ」
ユリアーナがそのような事をアルフリートに告げたのは、後にも先にもただそれ一度きりであった。柔らかく豊かな金色の髪と、いつでも、ベッドに臥せっているような時でも絶やさなかった優しげな微笑みとが、悲しい記憶と共に甦った。貴族のお嬢様として育った世間知らずの王妃が、国政に意見するような事はほとんど無く、それは彼女にとって、決して表に出してはならない気持ちだったのかもしれない。今思えば、母は死を予期してそう言い残したのだろうかとアルフリートは思い出していた。
侍従長クレイマンはやっと口を開いて言った。
「おっしゃることは理解出来なくはございませんし、お気持ちもお察し致しますが……。分かりました、どうか公務中はくれぐれもお気を付けあそばしますよう、お願い申し上げます。付け加えさせて頂きますが、わたくしはアルフリート様の礼儀作法のご教授も承っておりますので、そちらもお励み下さいますよう、重ねてお願い致します」
重々しくそう告げたクレイマンに満足げに頷き、アルフリートは楽しげに微笑んで言った。いつの間にやら首のボタンが一つ外されている。
「よし決まった。今さらだけどアルフリート・リーベンバーグです、みんなよろしく。……座らない?」
「わたくしどもは職務中は腰を下ろしませぬし、王族の方と同じ席に座る訳には参りませぬ。お気遣い無きよう」
「そうなんだ、そりゃすごいな。じゃあ俺も立とう。……ふーん、ウチの国でもそんな決まり事があるとは知らなかったな」
アルフリートは立ち上がり、それぞれの人物に自己紹介を促した。二人の侍女の名前も知る事が出来たが、彼女達の上司の居る手前、年齢まで尋ねる訳にはいかなかったようだ。最後にクレイマンがもう一度名乗った。
「侍従長のクレイマン・モートロックにございます。王宮に住まわせて頂いて居ります故、ご用がお有りの時はいつ何時でもお呼び下さいませ。無論、深夜でもいっこうに構いませぬ」
トランセリアの歴史がそのまま年齢になるクレイマンは、父の代から王族に仕え、宮廷の生き字引とまで呼ばれていた。彼の父親は外国の貴族であったが、若い頃に領地を失い爵位を剥奪されていた。国を追われ、セリア山脈に流れて来た所を初代国王アルザスに救われ、リーベンバーグ家に忠誠を誓いトランセリア建国に携わった。クレイマンは父の跡を継ぎ、侍従として代々の王に仕えて来た。公的には宮内局に籍を置くが、王宮でただ一人、リーベンバーグ王家に個人的に仕える家臣であると、クレイマン自身は思っているようだ。七十を越す高齢でありながら、姿勢良く背筋をぴんと伸ばし音を立てず歩き、一分の隙も無い身なりで給仕も接待も完璧にこなす。必要とあらば何時間でも微動だにせず部屋の隅に立ち続け、宮廷の誰に聞いても「座っている所を見た事が無い」と言われる筋金入りの侍従であった。
クレイマンは胸のポケットから、アルザスが退位する時に下賜されたという年代物の磨き上げられた懐中時計を取り出し、一礼と共に告げた。
「アルフリート様、そろそろお時間でございます。閣僚の皆様が準備をしてお待ちでございます。参りましょう」
促されて歩き出そうとしたアルフリートがふいに言った。
「さっきの話だけど、どうだい?たまには一緒に食事をするぐらいあってもいいと思うけどな」
またもやクレイマンを絶句させ、侍女達の目を丸くさせると、彼はにやりと笑って付け加えた。
「ま、その内にね。考えといてよ。……行こうか?」
すっかり乱れてしまったアルフリートの服と髪とを、彼等は部屋を出る前にもう一度整え直さなければならなかった。