第一章 王の資格 第四話
閣僚達にとってはまだ仕事は終わってなどいない。アルフリートが退席した後、小広間ではそのまま最終決定を下すべく、会議が続けられていた。既に元老院の老人達は意志を統一したようであり、皆ひと仕事終えたリラックスした表情を浮かべている。進行役を務める法務庁長官が穏やかに告げた。
「元老院はおおむね合意を得ました。閣僚の皆様方、決を取る前に何かございますか」
しばらくの静寂の後、閣僚を代表する壮年の内務庁長官が手を上げて発言を求めた。本来の文官の長である宰相ユーストが、この場に限っては立ち会いのみの権限しか持っていない為に、普段は何事にも控え目な彼がその代役を受け持っている。緊張を隠せない表情で彼は言った。
「わ…我々閣僚も、武官文官共にほぼ意見がまとまっておりますが、どうでしょう、もし許可が頂ければ、宰相閣下とシルヴァ将軍の見解を伺いたいと考えておりますが……」
元老院の委員達はお互いに頷き合い、了承の意を示した。内務長官は随分と固くなっているようだが、場の雰囲気は和やかな物であり、皆が一様に同じ考えを持っている事が言わずとも感じられる。促されてユーストがまず口を開いた。小さな会釈をした彼の唇から、すらすらと滑らかに言葉が流れ出る。
「発言の許可を頂きまして誠に有難うございます。まずは皆様お疲れ様でございました。私自身も審議会に召還された身ではございますが、昨日までの討議により、事実上現王アンドリュー陛下の一子、アルフリート様お一人の審議である旨が閣議決定されております。よって私の発言が許された物と解釈致します、皆様ご理解下さいませ。……御存じの通り、私とシルヴァ将軍は陛下の親戚筋でございますので、幼い頃からのアルフリート様を良く存じ上げております。本日、審議会の模様をずっと拝見致しておりまして、二三、場にそぐわぬ発言などございましたが、ほぼ、アルフリート様の性格や思考といった物が現れていたと思います。勉学に限らず、様々な事柄を深く考え、時には声を掛けても気付かぬような事もございました。その辺りはアンドリュー陛下に良く似ていらっしゃいます。また自分で思い付いた事を人に話して聞かせ、その反応によってまた新たに思考を深めるような、議論好きな一面もございます。私なども良く相手をさせられました。なかなかな論客であった事を思い出します。誰彼構わずといった所もあり、人見知りとは無縁な子供でございました。ただ、お分かりとは思いますが行儀の悪い癖がいくつか見受けられます。言葉遣いもいささか乱暴になる事がございます。アンドリュー陛下が大変に多忙であった事、また我が国の制度として王宮での暮らしが許されなかった事情もあり、先王陛下並びに王妃殿下の元で幼少の頃から育てられておりますので、いやこれなどは私よりも皆様方の方が記憶にあると存じますが、時々アーロン様そっくりな仕種や、シャーロット様そのままの言い回しが飛び出す事がございます。まだ決定を得ておりませぬが、仮に、アルフリート様が次期国王にと決まった場合、行儀作法や宮廷言葉などの教育をきちんとする必要があると考えます。ただし、それ故にごく普通の民の暮らしや考えを良く分かっている点もあると存じます。……僭越ながら皆様に申し上げれば、見た目は亡きユリアーナ王妃に良く似た可愛らしい少年ではございますが、惑わされてはいけません。くれぐれもご注意下さい。中味は酒場で酔客と五分に気勢を上げるような……、失礼、『食えないくそ親父』で、ございます。ゆめゆめ油断などなされませぬよう」
ユーストの長い発言は彼が口にするとは思えぬ意外な言葉で締めくくられた。文官達は顔を見合わせ、武官は楽しげに口元を緩める。元老院の老人達は小さく微笑んで頷きあった。
何事も無かった様に紅茶のカップを口に運び、音も無く一口飲むとユーストはシルヴァを促した。若年の女将軍は固い表情で話し始めた。
「発言の機会を頂き恐縮です。私の意見はほぼ宰相閣下と同じでありますので、一つだけ述べさせて頂きます。私の経験からも、アルフリート様が大変に聡明で賢い少年である事は明白です。自分の考えをはっきりと他者に説明でき、外交的な性格も持ち合わせていらっしゃいます。ただ、幼い頃から……おそらく母君がお亡くなりになった辺りからだと思いますが、自身の感情を表に出さないように意識していると感じる事がございました。内向的になったという事では無く、その、上手く言えませんが、怒ったり笑ったりは普通にするのですが、どこか本心では無いというか、間に何か一枚挟まっていて遮られているような、そんなつかみ所の無い感じのする事が時折ございました。言葉遣いは少々乱暴になったりも致しましたが、元々我が儘を言ったりするような事もありませんでしたし。……その、聞き分けのいい子供を演じているような、わざと大人のふりをして見せているような……。自分がそうしなければいけない立場だと考えているのではと、思う事もありました。………ひょっとしたらあの時から、王になると覚悟していたのかもしれない。………申し訳ございません、不明瞭な発言をしてしまって」
それきりシルヴァは黙ってしまった。普段の職務での冷静さや、年齢に見合わぬ迫力を感じさせる彼女が、ことアルフリートに関する事になると、途端に不安定な精神を表に表わしてしまうようであると、この場に居る人々は意外な思いで見ていた。
審議会の最中からずっと、閣僚中最年少のこの若い将軍がアルフリートの事が心配でならぬ様子を見せている事を、年のいった者達は内心微笑ましく思っており、今の発言もそれ故の混乱だろうと察し、彼女の言いたい事は朧げに理解する事が出来た。沈黙の中、元老院の一人がふいに口を開いた。
「シルヴァ殿、あの子は良い子かの」
遊牧民の古老、リマ・デロッシが、長く真っ白な顎ヒゲを撫でながら問い掛けた。俯いていたシルヴァははっとして顔を上げ、笑顔を浮かべて答えた。
「はい、とても。……とても良い子です。ちょっとだらしなくて、生意気な所もあるけれど、人を思いやる事の出来る子です。困っている人が居たら、迷わず手を差し伸べる事の出来る子です。とても……良い子です……」
その言葉にうんうんと頷き、老リマは皺深い顔をさらにしわくちゃにして微笑んだ。広間にセリア山脈の清浄な空気が流れ込んだような、優しく穏やかな笑顔だった。
「そうかの。人の心根というは、いちばん大事な物じゃからの。良い心を持っておるか。そうかの」
老人の言葉に、シルヴァは照れくさそうに小さく頭を下げる。左目を眼帯で隠した軍務長官グレン元帥が、残った右目で愛弟子とも言える部下のその仕種を見つめていたが、ふいにじろりと末席に近い位置に視線を移して告げた。
「メレディス、おぬし休憩の間に抜け駆けをしておったろう。どうだった」
いきなり名前を呼ばれ、長身の第一軍付き副官はびくりとし、苦笑いと共に答えた。
「いやいや閣下、たまたま通り掛かっただけですよ。二言三言話をしただけで……」
「何を誤魔化しておるやら。ヴィンセントも行っとっただろう、せっかくだからそれぞれ印象を述べてみろ。おぬし達が最も長く仕える事になるのだからな」
有無を言わせぬ迫力の元帥の言葉に、名指しを受けた二人は顔を見合わせて互いに譲り合う素振りを見せている。周囲の人物が皆にやにやとその様子を眺めていた。
「えー、では私から。けれど本当にそんなに長く話をした訳では無いんですよ」
まだなにやら言い訳をしているメレディスは、既に第三軍の司令官に昇進する事が内定している。近い将来、アルフリートの治世を支える三人の将軍の一人になる為に、副官の立場でありながらこの場での発言を許されていた。
「私の印象としましては、年齢と見た目の割には落ち着き過ぎているという感じが致しました。審議の最中でもそうでしたが、とてもリラックスしていて、緊張どころか退屈しているといった雰囲気さえ感じ取れました。もし私がこの場であの椅子に座ったら、とても冷静ではいられないでしょう。けれど彼は、後半の元老院のお歴々との問答を、心待ちにしている様子さえ見せておられました」
その言葉とは裏腹に彼自身の発言も淀み無く、同時になかなかの観察眼を証明した形となり、将軍位に昇るだけの度量を十分に持ち合わせている事を感じさせた。
続いて赤毛の若い文官、ヴィンセントの順番となる。初めてこの場で発言する事となった彼は、シルヴァに次いで若年の二十台の閣僚であり、現在は隣国に駐在する大使の任を帯びている。後に彼は最年少の外務長官となり、やはり新たな王の政策を支える閣僚の重要な一員となるのである。
彫りの深い端正な顔立ちに、若い女性なら頬を染めてしまいそうな完璧な笑みを浮かべ、彼は口を開いた。尤もこの場に居る誰一人、シルヴァも含めてそのような笑顔に心を動かしたりはしなかったが。
「では僭越ながら感想を述べさせて頂きます。一見するといかにも今時の若者といった風情なのですが、何と言うか底知れぬ物を感じました。宰相閣下のおっしゃる通り、可愛こちゃんの見た目に……失礼、優しげで気弱そうな見目と随分違う中味をお持ちのようで、特に胆の座りようはちょっと…、尋常で無いと言うか。私は良く存じ上げないのですが、お噂に聞いたアーロン様のお孫様であると言う事が、さもありなんという印象でしょうか。陛下と似た学者肌の部分もあるように思えましたが、いやいやどうして、あれは結構なくせ者で……、おっと失礼。えー、以上です」
直属の上司であり、父親代わりとも言える現外務長官ドワイトが、とかく浮わつきがちの彼の言動に睨みを利かせるがごとく視線を送っている事に気付き、ヴィンセントは口を閉じた。
二人の発言を聞き終えた所でほぼ意見が出尽くしたと法務長官は判断し、採決に移った。彼等の発言とは関わりなく、もう皆の意志はほぼ固まっていたのだ。
「それではお伺いします。アルフリート・リーベンバーグ様の次期国王承認に賛同される方、挙手をお願い致します」
その場に居る全ての人物の右手が静かに上がり、国王審議会は全員一致でアルフリートの立太子を決定した。
その夜、アルフリートの元を訪れたシルヴァは、最後の質問の答えについて尋ねた。どうやら彼女はそれを聞く為に来たようである。
「あれ、どういう意味?なんとなくは分かるけど……」
アルフリートは服を半分脱いだようなだらしない格好で、行儀悪くベッドに寝そべり、腰掛けたシルヴァの髪を触りながら説明を始めた。彼はこう答えたのである。
「『普通の毎日』の事?」
「そうそれ、説明して。得意でしょ?」
「実は半分くらいはじいちゃん達の受売りなんだよ。時々話してたんだけど、ホントは国だの王だのっていらないんじゃないかな。そこに住んでいる人が平和で幸せに暮らせればいいんであって、それが出来れば別に国家なんか無くったっていいだろ?」
「そんなの現実離れし過ぎてるわよ。確かにどこの国にも属さない民は大陸にも居るけれど、すごい山奥の遊牧民とかのごく一部よ。自由開拓農民にしたってどこかしらの国に保護を受けているし、平和を維持するにはそれなりの組織の力が必要だわ」
さすがに将軍の地位にあるシルヴァはしっかりとした意見を返した。連日の勉強と審議会とで疲れ気味だったアルフリートの顔が、みるみる楽しげな表情に変化していく。彼は言った。
「そう、実際はそうはいかない。だから国があって軍隊があって国民が居る。でもさ、そこに住んでいる人達にとっては、結局同じ事だろう?そりゃ税は納めなきゃいけないかもしれないし、法律もあるけれど、まともな国で普通に暮らしていれば、毎日の生活にそんなに違いは無い事になる」
「………まぁそうね。あぁもうはいはい。……それで?」
アルフリートは身体を起こして後ろからシルヴァの肩に腕を回し、甘える様に背中にしなだれ掛かる。それをあしらいながら続きを促す恋人の髪に顔を埋め、アルフリートは答えた。
「そもそも一般の国民が、王宮で行われている政治や外交を気に掛けたり心配したりする必要は無いんだよ。彼等は自分達の毎日の仕事や家族の事を考えていればいい訳で、政治のプロがごっそり集まってる国の中枢が、いつもいつも庶民の話題に出て来るようじゃまずいと思うんだよね。それは当り前のようにそこにあって、普段は忘れているぐらいじゃなくちゃいけないんだ。国民が王様の事なんか気にしないでいて、明日の天気や晩ごはんのおかずの事を考えているのが、本当の意味での正しい政治だと思う。そういう国を作るのが、国王の義務だと思うんだよ」
「ふーん、なるほどね。それが『普通の毎日』ってことなのね。…………なんか地味ね」
「まぁね。……王宮は『縁の下の力持ち』であるべきなんだろう。俺達は裏方なんだよ、ホントはさ。……ウチの国なんか特に貧乏だから、どの家もみんな仕事で忙しいし、子供達だって手伝いするのが当たり前だろ。それなのに外交問題だの戦争だのやらかしていい訳ないじゃん。何も特別な事の無い日々を、みんなが送れるようにするのが、国王の……俺の役目だって事に、……なったの?どう?もう決まった?」
「明日正式に発表がございます。私の口からは言えませーん。……あ、こら。もう、私そろそろ帰るんだから。……こらってば」
いつの間にかシルヴァの腰に手を回し、うなじから耳たぶに口付けをするアルフリートを、シルヴァは振り解こうとする素振りを見せるがどうやら本気では無い。彼女がその気になれば一瞬でアルフリートは床に転がっているだろうし、ここには仕事もきっちり終えてから来ているのだから。
「さっきまで疲れたとか言ってだらだらしてたくせに、もう……」
「それとこれとは別」
向き合って唇を重ね、目を閉じるシルヴァの艶やかな黒髪を、アルフリートの指がさらさらと梳いていく。彼の手が恋人の胸元のボタンに掛かろうとした時、玄関の扉が開く音が響いた。慌てて身体を離した二人の元に、父王アンドリューの声が届き、勢い良く部屋のドアが開いた。
「おーいアルフ……。おっとっと、取込み中か?」
「いいえ陛下、どうぞお掛け下さい」
何事も無かったように立ち上がり、職務中同様に礼儀正しく国王に椅子をすすめるシルヴァ。身に着けた軍装は乱れておらず、普段から彼女はほとんど化粧をしないのでその点も問題は無い。アルフリートだけは仏頂面で父親を睨み付けているし、服も半脱ぎの状態で、どういう場面だったのかは手に取る様に分かってしまうのであったが。腰を下ろしながらアンドリューは言った。
「すまないねシルヴァ。なんなら一時間ぐらい外で待ってようか?」
「余計な気を回さずとも結構でございます。私ももうお暇する所でしたからお気遣い無く」
気を利かせたつもりで全く逆効果になっている現王の台詞に、シルヴァの言葉にもわずかに棘が混じっているようだ。亡父の跡を継いだ形で王宮に仕える彼女を、アンドリューは親類縁者としてそれなりに心を配っていたが、シルヴァにしてみればそれは有り難迷惑のような物であった。親の七光りと思われる事を最も危惧している彼女にとって、国王から特別扱いされる事など決してあってはならないのだろう。
シルヴァは准将に昇進した頃から、内々に幾度もアンドリューに「必ず他の騎士達と同じ接し方をするように、むしろ突き放した感じで」と、頼んでいるのだが、生まれた時から彼女を知っているアンドリューはついつい甘い態度を見せてしまう。女児を得られなかった彼は、アルフリートと付き合い出したシルヴァを自分の娘と思いたいようであり、最近は特に、国王となった息子を支えて王妃の地位に就いてもらいたいという気持ちが強くなっているようであった。アンドリュー自身が、病弱な妻に代わってこれまで二人分の仕事をこなしてきたも同然だった事もあり、現在も将軍として見事な働き振りを見せるシルヴァならば、王妃としての職務を十分にこなしてくれると考えているようである。
国王とはとても思えぬ腰の低さで、ぺこぺことしきりにシルヴァに謝りながら、アンドリューは息子に向かって告げた。
「アルフ、お前王様に決まったから。近い内に立太子だ。分かったか」
「………あ~あ、言っちゃった。……おじさま、まだ正式発表の前ですよ、もう。ダメじゃないですか」
呆れて慣れ親しんだ親戚の娘としての口調に戻ってしまったシルヴァが、口の軽い国王を嗜める。せっかく自分が内緒にしておいた事を易々と言われてしまって、いささかおかんむりでもあるようだ。先程の恨みも含まれているのかもしれない。
「う……そうかな?まずかったか。どっちにせよ同じ事だと思ったんだがなぁ……」
「審議会の進行は元老院と法務庁の管轄です。国王が職域を破っちゃ示しがつかないでしょ、……ホントにもう」
「ちょっとその、ほら色々と心構えを伝授しておこうかな……とか思ったもんだから……。ごめんごめん」
ため息と共にシルヴァは二人を見下ろして言う。目付きが鋭くなり、迫力十分だ。
「言ってしまった以上仕方がないわ。……いい?明日は二人とも知らない振りをして。だからってわざとらしく大袈裟に驚かなくってもいいのよアルフ、分かった?私もおじさまもここには来なかった。いいわね?……明日はボタンちゃんと留めるのよ。貧乏揺すりしないでね。髪も櫛入れて来るのよ。歩く時ポケットに手入れちゃダメよ」
「は~い」
親子揃って気の抜けた返事をするアルフリートとアンドリュー。もう一度ため息をついてシルヴァは厳しく告げた。もう命令口調である。
「返事は短く!」
「はいっ!」
満足げに頷くシルヴァは、仕事中は大変に真面目で規律を重んじ、軍人という事もあってか堅物と言っても差し支えない程上下関係や礼儀に煩かった。くだけた口調で会話をするのもごく限られた親しい人物のみであり、それも公の場では控えるように意識している。親戚であるアンドリューやユーストにもその態度は変わらず、時には彼女が嗜める側に回る事すらあった。誰に対しても公平であろうとするシルヴァの姿勢が、今の彼女が部下から揺るぎない信頼を得ている理由の一つなのだろう。
「よろしい。……じゃ、おやすみなさい」
こつこつと靴音を響かせて部屋を出ていったシルヴァを見送り、アンドリューはぼそりと言う。
「相変わらずおっかないなぁシルヴァは。お前良く平気だなぁ。……いつ嫁にもらうんだ?」
「まだそこまで考えてないよ……。つーかさ、国王が家臣に説教されてちゃダメじゃん」
「ウチの王様なんて閣僚に叱られるのが仕事みたいなもんさ。まぁそれもあと半年ってとこか」
さも幸福そうに満面の笑みを浮かべる父親を横目に、立ち上がったアルフリートは尋ねた。
「で、なんか話があるんだろ?なんだっけ?心構え?」
「ああ、愛する息子へ父としてそれはそれは為になるお話をだな……」
「ウソくせぇなぁ……。まぁいいや、コーヒー飲む?」
「いいな、もらおうか。お前の淹れるコーヒーなんて随分久し振りだ」
二人でのそのそと台所に移動し、湯を沸かす息子を眺めながら、ダイニングの椅子に腰を下ろしてアンドリューは尋ねた。
「親父とお袋は?」
「二人とも昨日一旦帰って来たんだけど、今朝また出掛けちまった。じいちゃんは鉱山へなんか『でっかい機械』の試験に行くって。めちゃくちゃ嬉しそうに準備してたぜ。ばあちゃんは………どこに行ったのかなぁ?多分どこかで子供にメシを食わせているのは間違い無いと思うんだけど」
「ホントに相変わらずだなあの二人は。マイペースというか何というか……、ありゃ百まで生きるな」
「もう一回王様やらせても出来るんじゃねぇの、俺の後にさ」
両手にカップを持ったアルフリートがふざけて言った。それを受け取りながらアンドリューが答える。
「冗談でなくなるからよせよ。ホントにやっちまうぞ、王宮が毎日お祭り騒ぎだ。……おう、ありがと。お前料理は適当なんだが、コーヒーだけは上手いからなぁ」
「……親父は再婚とかしねぇの?安月給の宮廷図書館じゃなくって、どっかの後家さんにでも食わせてもらえばいいじゃん」
突然の一人息子の意外な発言に、アンドリューはコーヒーを吹き出しそうになり、まじまじとアルフリートを見つめてから言った。
「あー…………。もう結婚はいいよ、色々あったしなぁ。……しかしお前もそんな事を言う歳になったのか。俺も老ける訳だなぁ、やれやれ」
「王様でいる内は忙しいばっかりだったろうけど、暇になってからのやもめ暮しは淋しいぞ~。実は宮廷の侍女とか手ぇ出してんじゃないのぉ?」
「そんな時間あるわけないだろ。……しかしお前は一体どこでそういう事を覚えて来るんだ。頼むから王宮ではそういう言葉を使うなよ、シルヴァにどやされるぞ」
「は~い」
「返事は短く。だな」
「………」
息子の下世話な質問を否定したアンドリューだったが、実は心当たりが無い訳でも無かった。近い将来、アルフリートに妹が居る事が発覚するのだが、まだこの時点ではアンドリュー自身も、はっきりとした答えを得ていなかったのである。
コーヒーのカップを両手で包み込む様に持ち、湯気の立ち上る褐色の表面をじっと覗き込みながら、アンドリューはそれ迄と一転した真面目な声で告げた。
「アルフ、国政ってのはなあ、この揺れる水面に綺麗な円を描こうとしているみたいなもんなんだよ」
「……言わんとする事は分かるけど、ちょっとカッコつけ過ぎじゃないの」
「せっかくいい場面なんだから言わせろよ。……俺達の仕事はいつだって何かの途中なんだ。あっちを良くすればこっちが歪む、こっちを整えればあっちが出っ張る。それをひたすら繰り返して、なんとか不格好な円を保っているようなもんさ。取り敢えずより良い方向に進んではいるけど、完璧にはほど遠い。一息ついたと思ったら、問題は後から後から繰り出され、せっかく丸くした円はまたぐずぐずと形が崩れていく。またあっちこっち駆けずり回ってはそれを直すの繰り返しだ。一発で丸を作れるような必殺技や特効薬なんざ一つも無いんだ。地上の何処にもユートピアが無いようなもんでな。そう思うのは俺が平凡な王だからかも知れんが、……いや、誰がやっても本質的な事は変わらない筈だ、それだけは自信を持って言える。お前は、親の欲目があるのかも分からんが、いい国王になるんじゃないかと感じる。でもなぁ、忘れんでほしいんだよ。人は一人じゃ何も出来やせんし、いっぺんになんもかんも全部を解決するような事は夢物語の中だけだと、そう胆に命じてほしいんだよ。……これから王になるお前に言うにしては、ちょっと景気の悪い話ですまんがな、でも、本当にそう思うんだ」
ランプの灯りにゆらゆらと照らされたアルフリートの大きな青い瞳が、じっと父親を見つめている。亡き妻の面影と、在位中の様々な苦労がよみがえり、不覚にも瞳を潤ませてしまったアンドリューは慌てて下を向いた。まだ息子の前で弱味を見せる程衰えてはいないと自分に言い聞かせ、涙を押し止めた。気付いているのかいないのか、アルフリートは静かに言った。
「分かってる………つもりだけど。前に、ユーストにも似たような事を言われた。あいつの言いそうに無い、意外な事だったんで、良く覚えてる。『城を築き上げるのに、ひとつひとつ石を積み上げていく以外の方法など無い』って言ってた。それが政治だって。絶対に忘れるなって」
「………ホントにあいつは。天才ってのはああいうのを言うんだろうな。…年齢から言えばあいつに先に国王になってもらいたかったんだが。その後でも十分、お前は若いし」
「なんでユーストは選ばれなかったんだ?俺より有利な筈だと思うけど」
「選ばれなかった訳じゃなくて、辞退したんだが………。あー………、その………」
アンドリューは天井を見上げ、頭を掻いてさんざん迷った挙句、こう切り出した。他には誰も居ないのに声を潜める。
「お前ならどうせ気付いちまうだろう。言うなよ。最重要機密だぞ。絶対に言うなよ」
「?……な、なに?」
「あいつなぁ、………馬車に酔うんだよ」
「…………初めて聞いた。マジで?」
「ああ、そりゃもうてきめんだ。五分と持たない。乗馬もダメらしい。外国なんか死にに行くようなもんだ」
「それは……、確かに国王は無理だ……。あのカッコつけ男が宰相の地位にこだわる訳だなぁ。……へぇ~、いい事聞いたなぁ」
にやにやと人の悪そうな笑みを浮かべ始めたアルフリートに、アンドリューは重ねて口止めをする。
「馬鹿やろう。いいか、言うなよ。みんなうすうす感付いているような気がするんだが、誰も口に出しては言わないんだからな。絶対に絶対に言うな。というか俺から聞いたって言うな。言ったらお前の子供の頃の恥ずかしい話を本にして出版するぞ。今月のおすすめにして図書館に並べてやる」
「分かった分かった、言わねぇよ。……でも真面目な話、閣僚としては結構不都合があるんじゃねぇの?」
「ところがこれがユーストの凄い所でな、ほとんど支障が出ないんだ。どうやってるのかも分からんぐらいだ」
「ふーん、色々面白いなぁ。……他にはなんか無いの?ここだけの話ってやつは。今後の参考にするよ」
興味深げに尋ねるアルフリートに、アンドリューは腰を上げながら言った。
「ないない、あってももう言わない。おっともうこんな時間じゃないか、いかんいかんすぐ戻らねば」
「そんなぁ。愛する息子へもっと良きアドバイスを賜りたく存じますですよ父王陛下」
「やかましい。明日は遅れるなよ。いや迎えの馬車が来る筈だから、きちんとして待ってろよ。まったくなんでこんな時にお袋は……」
自分の息子ながら抜け目の無いアルフリートに、これ以上余計な事をしゃべってしまわないようにと、アンドリューは逃げるように立ち去っていった。父親を乗せた馬車の車輪の音が聞こえなくなっても、アルフリートはしばらくコーヒーのカップをじっと見下ろし、何事かを考え込んでいた。彼のその表情は、今迄のふざけたやり取りが嘘のように真剣な物だった。