第六章
夕食の時間は、明るい二人のアンドロイドのおかげでとても和やかに過ぎてゆく。
タクミには胸がいっぱいで何がどんな味だったかわからない程の食事だったことは言うまでもない。
向かいに座ったルカに何度も視線をやる。
アンはトマトソースで口元を赤く汚しながら、斜め向かいに座った神谷に質問を投げかけた。
「ドクター。あなたがルカにしたことを教えて下さい」
時間が止まったように静けさに包まれる。
「ルカにしたこととは、彼女に施した改造の具合のことかな?」
タマゴサンドを口に運びながら神谷は淡々と質問を返す。
「はい」
「俺は先程、感情の流れる道の間口を広げただけだと言ったよね?」
オレンジジュースを口に含んだアンは頷く。
「アンドロイドの感情というのは制限されているものなんだが、それはその感情を抱く相手が何者かにもよるわけで、対人間、対動物、対アンドロイドと、まあ、細かく分けられて間口を設定されるわけだ。先程君が言っていたのは、アンドロイドの人間に対する絶対服従性だけど、全世界のどんなアンドロイドでもそんな事を組み込まれているわけではないのは知っているよね」
アンの顔色が変わる。
「ドクター、何が言いたいの?」
「君が言ったのは人間と暮らす目的のアンドロイドの話で、アンドロイドには様々な目的のものがいるわけだ」
探るような目のアンと、微笑んだままの神谷。
しかし、空気は張り詰める。
それにはタカヤでさえも気づいて、二人を交互に見て、手に持ったフォークの動きを止めた。
「世の中には、指令通りに人を皆殺しにするアンドロイドもいる。破壊目的に自爆する奴や、その起爆スイッチをマスターに託なければならないアンドロイドだっているんだ。しかし、彼らはロボットではなくAIが組み込まれたアンドロイドだ。感じて、考える。ロボットにはこなせない複雑な任務も、臨機応変にこなすし、自分たちの命がどれだけ粗末に扱われて消えるかということも理解するわけだ。切ないだろう?」
「それは法を犯したことの言い訳に聞こえるわ」
「そんな事はない! 俺はね、悲しみの心を持っている壊れ物は『命』として尊ばれるべきだと思っているだけだ」
「それは、アタシも同じだわ。だけど――」
「いいや、違うよ。俺はアンドロイド反対派だ。『尊ばれない命』は存在してはいけない――そう思っている。作り物だから簡単に始末してしまう様なモノは作ってはいけない」
「それを始末しているのは、日本政府に雇われたあなた達じゃないかしら?」
「そうだ。少なくとも君よりはアンドロイドの最後を目撃している。だから、アンドロイドは存在するべきではないと考えているんだ。その命が尊ばれるまではね――」
激しい討論に発展しそうな状況に神谷とアン以外は閉口する。
アンドロイドのエリカ達もどうしていいかわからないといった風だ。
「類、楽しくないわ――」
突然ルカが割って入るように声を上げた。
「彼女の言う通りよ。類――」
エリカもそう同調する。
「科学者なんて、議論に熱中すれば、きっとパンに雑草を挟んでいても、トマトソースが廃棄油でも、知らずに食べてしまいそうよね」
ロべリアが自分のフォークの先のレタスを見ながら溜息をつく。
神谷とアンは思わず視線を合わす。そして神谷は手元のツナサンドを、アンはパスタに目を落とす。
思わず吹き出す面々。
笑いのツボは天然も人工もそう違わないようだ。
アンがむっとして笑う顔を見渡す。
「また、やってしまったようだ。アン、食事を楽しもう」
神谷はツナサンドを口に運んだ。
タクミは、そんな笑いの最中にルカの事を考えていた。
これからの事を。
タクミ達の東京滞在には期限がある。
ルカといたい気持ちは毎秒大きくなる。
はたして、ルカにどれ程に自由があるというのだろうか――
もう離れるのは嫌だ。そんな事を思って思わず笑ってしまう。
こんなに大きな気持ちを封印していたなんて――
「何を笑っているの?」
いつの間にかルカがこちらを見ていた。
見られるのは嫌いだと言っていた――
十年前も。
タクミはそんな事を思い出してさらに笑った。
ルカは首を傾げている。
「ゆっくり二人で話したい」
彼女を見つめるタクミは真剣だ。
「食事より、大切?」
反対側に首を傾げた姿に、タクミは抱き締めたい衝動を堪えるしかなかった。
これから、こうやって一瞬一瞬のルカに心を踊らされながら、きっと今までにない毎日が待っている。
それを思えばどんな事も越えられる気がした。
バルコニーは小さな鉢植えが可愛い花を咲かせているこじんまりしたスペースで、ベンチが丁度景色を一望できるように一つ置いてある。
目の前には、東京という名の未来都市が広がっている。
ビルとチューブ型車道の網目を縫って見える空には色も温度も感じない。
まるで空は必要とされていない気すらして切なくなる。
所詮田舎者の考えだろうか。
「寒くはない?」
ルカがタクミを気遣う。
「うん。大丈夫だよ」
タクミは先にベンチに座ると彼女の手を引く。
「ルカは?」
その問いに、隣に腰掛けながらクスリと笑う。
「氷点下三十度を越して、体液が凍りつかない限り大丈夫よ」
「そうか……、そうなんだね」
「でも、寒い野外にタクミと二人なんて……」
「食事の席で俺の名を明かすんじゃなかったの? それまで知りたくないって……」
ビル全体を纏ったエアーカーテンのせいで風すら感じない。
「その約束は、すぐに破ってしまったわ――」
彼女は意味深に微笑んだ。
「どういう意味?」
「類に助けられた後、病院のカルテのデータをハッキングして調べたの。あなたの生死が知りたかった」
「ハッキングって……」
タクミが言葉を失う。
「あなたが右手を持って行ったことで私はすぐに回収された。二日後の事よ。その後、類の当時のラボに連れて行かれた。その後違法な改造がないか検査されて、類に言われた『生きたいか、死にたいか。どちらでもかなえてやる』って。思い残すことなんてあなたの事くらいで、誰も必要としなかった私を最後に頼ってくれた人だったから。あなたが生きていたら私も生きていたいと……、そう言ったの。それであなたの事を調べたわ。だけど個人データはプライバシーの保護があるからなかなか簡単には見る事は出来ないし、おまけにあなたはあの頃未成年でもっと厳重に管理されていたから――」
ベンチに座って真正面を向いて話すルカの横顔を見ていた。
「だけど、私がやることは全てマザーに監視されているし、犯罪行為に当たる事だからストップがかかる。だから改造をしてもらったの。あなたの消息が分かった時点でもとに戻す予定だったけど、類が長期で変化を観察したいからそのままでいなさいって」
「じゃあ、ルカは俺の事、何処にいるかも知っていたんだね」
「三か月以上かかったわ。名前も知らないただの男の子、足の骨折と手首の切り傷から、あなたにたどり着いた時、精神疾患の治療で私の事を忘れてしまった事を知った――」
タクミは彼女には彼女の時間があった事を如実に理解する。
「PTSDの治療法の副作用についても、病院関連を装って、類が何度も電話をしたわ。タクミのおばあさんが取り合ってくれなくて、あの時はとても絶望したけど」
それぞれの思惑があったのだろう。悪気なんかない。ただ、みんな必死で生きていた。
それでもそんなに一生懸命に探してくれている間、自分はのほほんと生きていたのだと思うと胸が痛くなる。
「どうしてそこまでしてくれたの?」
それが知りたかった。
自分にそんな価値など無いと思ったから。
意外にルカはその言葉を聞くとクスクスと笑った。
「最初の五年は手を繋いでくれと言った少年のあなたに恋をしたから、後の五年は…意地よ」
ルカはふふふと笑う。
「意地……?」
聞き返すタクミの顔を見る彼女の顔に都会の夜が光を当てる。
「そう。怨霊みたいなものね。あなたはどうだった?」
二人で吹きだす。
「俺の十年は、半分抜け殻だったから。だから、今はなんだかドカッと重いかな」
「重い? 忘れていた事?」
「母の事とか、ばあちゃんとか、俺、何にもわかんないままにのうのうと育った事とかさ、もう話もできないからね。やり方は間違えていたかもしれないけど、やっぱ命がけで守られたのに死んじゃった後で思い出してもどうにもなんないっていうか、切ないばっかりだよ……。そんな感じで諦めなきゃいけない事多くて、ルカの事も……、諦めるつもり満々でここに来たんだよ。最低だよな――」
「ねえ、あの日の事を話していい?」
タクミはゆっくりと頷いた。
「私、人と話すのは二週間ぶりだったの。その少年は血塗れで、どんどん体温は下がってしまうから、助けなくちゃと、思ったわ。捨てられた古いアンドロイドの私を必要としてくれたから」
彼女を捨てた前のオーナーは人工臓器だらけのおじいさんで、その人には感謝をしていると彼女は言った。
彼女を捨てたのも処分される身の上を思ってのことだからと。
だから山に連れて来られた時も戻ってくると言ったその人の車が戻ってこなかった時も、彼を恨む気持ちは持たなかった。
それはたとえその時のルカが感情を制限されていなくてもそうだったと彼女は言う。
ただ、彼が天命を全うするまで一緒に居たかった。
「死ぬのが怖い寂しがりやだったから。体の中が機械だらけになっても、生きる事に拘って……」
だからルカは家族もいない彼が一人で死んだのかと思うと悲しいのだ。
人工臓器が保険対応だからと言っても無料とはいかない訳で、手術を含めて結構なお金がかかる。
いつの時代も金持ちが得するようにできているもんだ。
彼も全財産をはたいて臓器を買い一体何年生き伸ばす事が出来ただろう。
「でもね、あの時の私は、アンドロイドとして制限された感情のもとにいたのだって思うの」
「どうして…そう思うの?」
「今の私はあの時のあなたを助けなかったと思うから……」
見つめあってルカの言葉は一呼吸おいて続く。
「あの時の血塗れのあなたに今の私が会ったとしたなら、一緒に死んだかもしれないって……。生まれて来て十年で死を決意した子供をもう一度苦しみの中に放ったりできなかったわ。だって、私も傷ついていたもの……チップを引き抜いて捨ててって頼むくらいには、きっと…絶望していたもの」
言葉が出なかった。
ルカのとても痛い部分に触れた気がした。
もしあの時のルカが発した言葉が、『私はあなたを助けることができます』ではなく、『私はあなたと共に逝くことができます』だったとしても、タクミにとってはとても嬉しかったと思うのだ。
「あの時、もし君が人間だったら俺はここにいなかったって事か――」
「手を繋いでと言ったあなたの声が未だに消えないの。死体みたいに冷たくて、でも力強く握って。タクミが『ルカが一緒にいてくれてよかった』と言ってくれた時、心が震えたわ。私はあの時に恋に落ちたのね」
助けを求めて伸ばしたタクミの手は、もしかしたらルカの心を温めたのかもしれないと思ったら急に何か熱いものが心から吹き出した。
あの日のルカもきっ同じ絶望の淵にいたのだ。
ボロボロに引き裂かれた心がお互いを手繰り寄せるかのように、二人は出会ってしまった。
どうしょうもない震えと胸の高鳴り――
「やっぱり、出会ったことが大き過ぎたんだ……」
タクミはルカを抱きしめた。
衝動的に。
そんなことは初めてだった。
止められないほど誰かを抱きしめたいと思うなんて。
美しい魂が機械じゃないなんて誰が決めたんだ。
これは自分にとって他に変わりのないたった一人の大切な人だ。
タクミはルカにキスをした。
そうしないと死んでしまいそうな気がした。
震える程好きだ――
それほど欲したものに嘘などあるはずが無い。
唇を離した後、柔らかくて優しい空気が流れる。
生きていてよかった。
初めてそう思った――
「……くん」
微睡みのなか。男の声がする。
「タクミくん!」
今度はもう少し大きな声で呼ばれて、体を揺すられてやっと目を覚ました。
目の前には神谷がいた。
その顔には笑顔はなく、切迫した状態を訴えていた。
「困ったことだ。ルカがクーデターを察知した。じきに政府の犬が研究内容と証拠を抹消するためにここにやってくる」
タクミはポカンとして神谷を見上げるだけだ。
「俺は政府の依頼で軍事用アンドロイドの研究をしていたんだ。その研究データがここにある。それに俺の口からそれをばらされるのは困るだろうしね。ここにいれば君らも巻き添えを食う。今すぐここを出るんだ。いつかこんなことになるっていう危機感は常にあって、ルカに政府の動きを監視してもらっていたんだ」
寝起きの頭では話がうまく飲み込めない。時計は午前三時を過ぎたところだ。
「先生は…どうするんですか?」
「俺は未来の命を売ってアンドロイドの近くで生きる日々を買ったんだ。満足はしている」
「答えになっていません……」
少し間が開いた。
神谷は言葉を選んでいる。
「俺はここに残るよ。アンドロイド達のこともあるしね。彼女達は俺が最後を看取ってやらないと……。その覚悟はできているんだ」
神谷はニコリと笑った。
ギュッと心臓が掴まれた気がした。
和やかな夕食の時の風景を思い出す。
みんな笑っていた。
一体、何が起きようとしているのか。
「そんな……」
やっと会えたばかりなのに。
「残念だけど、仕方ない事だ……。それとも、君にルカと心中する覚悟はあるのか?」
「心中…する覚悟なのかどうかわからないけど……最後まで一緒にいたいと、思っています」
「それこそ残酷なことだ。ルカは必ず人間の命を守るよ。そのために破壊されることになってもね。それで…満足かい……? そんな事はないだろう? さあ、行くんだ!」
切羽詰まった目をして、神谷は本気だった。だから、タクミは本当に危機なんだと思った。
怖い。これから起こることを思うと。
何か抗えない大きなうねりに飲み込まれるような気がする。
だけど。
失うのは嫌だ。
失う痛みを知らない時とはもう違う。
戻れない――
「先生、やっぱり……」
タクミがそう切り出した時、ドアが大きな音を立てて開いた。
そこにはボサボサ頭のアンがいた。
この眼は――
マズイ。
「ルカから話は聞いたわ。そんなことは許さない。みんなで一緒に、ここを出る! アタシはそうじゃないとイヤ!」
「アン。それじゃあ君らが危険な目に遭ってしまう。わかってくれないか」
神谷は、呆れたようにため息をつく。
「アン。どうにかできそう?」
タクミが体を起こす。
「ルカが車を追跡されないようにしてくれているわ。アメリカの大使館にも連絡を取った。東京さえ出られればどうにかなる。だけどチューブは使えない。一般道で速く車を走らせる技術はタクミにはある?」
「残念だけど、田舎道しか走ったことないよ……」
一斉に肩を落とした時、「任せろ」とタカヤの声がした。ドアの向こうから顔が見える。
「俺はレーシングゲームで何度も優勝してる」
タカヤはどうだと言わんばかりに胸を張った。
「ゲームかよ……」
タクミが一度は上げた顔をガクリと落とす。
「なんなんだよ! 似たようなもんだろ? 大丈夫だよ!」
タカヤがそう喚く。
「タクミ。タカヤしかいない……」
思いつめた目のアンにタクミは頷いた。
「先生。なんとかして突破しましょう。俺はルカが必要だし、ルカにはあなたが必要です。第一、俺の妹は言い出したら聞かないから、このままあなたがここにいるなら彼女も動かない」
「死ぬかもしれないんだよ?」
神谷の言葉にタクミは微笑んだ。
「生きていてよかったと思えたばかりの俺が、死んだ方がいいような辛い現実をまた生きるのは嫌なんです。もちろん、死んでもいいとはいいません。だから一緒に来てください」
漠然とは理解していた。
クーデターが起きたと言われたところで、何が起こるかなんて、そんな経験がない人間がわかるわけがない。
危険という文字の輪郭がそこにあるだけだ。本当の危険なんて何も知らない。
甘いと言われればそれまでだけれど、神谷の事は何かしないと、と思った。
目の前の人が死ぬかもしれないと言っているのにおいていけるほど、タクミは危険を知らなかったのだ。
「ドクター、あなたが死ぬなんてイヤ! ルカもエリカもロベリアも。一緒に行く! 死ぬかもしれなくても、死ねと言われたわけじゃないから、恐怖は本当に死ぬと思ってからでいい……。ごちゃごちゃ言われて人に決められるのはイヤ! 正しいかそうでないかはもういらない。アタシはしたくない事はしない! 絶対に! 絶対に!」
駄々をこねるようなアンの幼すぎる態度。イヤイヤと首を振る。
何かを強く押し付けるとアンはこうなる。
それでも彼女の方がこの状況の受け止めている気がした。
この先に歩み出せば、起きてしまうかもしれない出来事を思い描いたうえで、そうするしかなかったのだろう。
一方、タクミはどこか夢の中にいるような気持ちで、走り出していたのかもしれない。
何も見えない闇の中へ――