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第三章

穏やかな光と優しい風が抜ける。

 ゆっくりと目を開けるとそこには悠介がいた。

「父さん――」

 起き上がろうとするタクミを制止する悠介の手。

「まだ寝ていていい。遅くなってすまない、つい先ほど主治医の説明は受けたよ」

 悠介は、タクミのベッドサイドの背もたれのない椅子に座り、タクミの前髪をかきあげる。

「検査でぼんやりしてしまって……」

 ここはタクミの家からは少し離れた大学病院だ。

 一昨日、悠介に言われた通りに子供の頃通った医院に行くと、年老いた医院長がタクミの処置の事を覚えていた。

 山での事故自体が、小さな町で大きなニュースになっていたので、当時運び込まれた病院の情報と、そこから引き継いだ後のカルテまでプリントアウトしてくれた。

 大学病院に連絡を取ると、検査と処置に五日ほどかかるので翌日にでも入院の準備をして、来いという事だった。

 タクミが考えているよりは簡単ではなく、急を要した事も、悠介の最初の反応もあり、タクミはその時点でやっと不安になった。

 医者の説明では、PTSDの処置として人工的に記憶を思い出さないように封印してあるだけで、取り除いてしまった訳ではないので、封印した記憶に近い事を思い出そうとする時に、脳が欠けた記憶につじつまを合わせようとすることが誤作動を生み、酷い嘔吐反応や癲癇のような症状が出るそうだ。

 PTSDの原因となった記憶の核は思い出すことはないのだが、治療の時に忘れなくていい核の周辺の記憶まで忘れてしまう。

 水の波紋と同じように、力は中心に強く作用するが、円状に中心から離れるごとに弱い作用になっていく。

 由紀やタクミの祖母は強く作用しているため問題はない。

 タカヤなどは弱い作用だが、タクミの中では辛い思い出との関連は薄いと位置付けている為問題ない。

 その円の縁にあって無関係に思えても、当事者の中でそれと深く関連づけている人や物事に関連した記憶に触れようとした時に起こる脳に誤作動なのだ。

タクミにも嘔吐反応の症状には何度か覚えがあったが、危険なのはそちらではなく、いずれ出るであろう癲癇発作の方だ。

それは突然起こる為に生活が困難になる。

車の運転はもちろんの事、階段での転倒、風呂場、調理中の事故など、通常の生活の中で突然意識を失う為、単独では家の中でさえ危険になってしまう。

その為、記憶を元に戻す処置を施すのだが、そうなれば抑え込んだPTSDの症状が今度は問題なのだ。

タクミの場合はPTSDの症状は過呼吸などのパニック症状なので、そう重いものではないが、何分、人間の脳は複雑で、医師ですら考えも及ばない事が起こることもあるという事で、隔離入院だそうだ。

昨日から脳の反応を弱める点滴を施され、タクミはぼんやりした意識の中にいる。

「記憶を元に戻す処置は、明日の午後だって。何、二時間程度で済む。心配ない……」

悠介の掌は相変わらず、タクミの頬を子供にするように撫で回す。

「心配かけて、ゴメン……。ジーナは?」

「彼女は外せない仕事があって、来なかったんだ。心配はしていたけどね。謝るな、タクミ。俺がもう少しちゃんと調査していればよかったんだ。由紀のお母さんが全て済んでいると言っていたから、安心していたんだ。ああ、でも彼女を恨んではいけないよ。きっとそう言うしかなかったんだろう――」

 看護師の退室を呼びかけるコールが入って、悠介は立ち上がった。

「タクミ。退院したらすぐにお前をアメリカに連れて行くから――」

 悠介はそう言った。

「でも……」

「嫌だとは……言わないでくれ――」

 タクミの言葉を押し戻す様に、そう言った父の後姿に、タクミは何も言えなくなった。


次日の記憶は朝から曖昧で。

 悠介が会いに来た気もするが定かではない。

 全てが夢のような気がした。

 悠介が「タクミ」と呼ぶ声を何度も聞いた。

 

 優しいのはそこまでで――


 キンキン頭に響く母の声。

 何かに向って怒鳴り散らし、泣きわめいた。

夢の中、母に追い詰められて、飛び込んだ深い森はすぐに暗闇に変わり、誰かの笑い声がして、タクミは怯えた。

足が痛い、手が冷たい――

怖い――

孤独――

死が口を開けて待っている。

嫌だ――

何かがタクミの足を引っ張る。

嫌だ――

怖い――

暗闇の中で何かが触れた。

痛い――

手から溢れる温かいモノ。

ガラスの欠片――

逃げたい――

恐怖から――

痛みと、寒さも――

そして母から――

捕まる前に、死が『僕』を逃がしてくれる。

手首に走らせる刃――

恐怖も痛みも寒さも、感じない。

母も――

だけど――

『僕』は、何のために、生まれてきたの?

きっと母を生かす為に――

「命と引き換えにあなたを生んだのよ」

 やめて――

「どこへも行かないで、ここにいて」

 嫌だよ、母さん。


暗闇に引きずり込む、その白い手は母の――

取り込まれてしまう――


遠くから――

響く――

「あなたを助けることが出来ます」

 頭の中に広がる、優しいノイズ。

「必ず戻ってきます――」

 嗚呼――

 待っているよ。

 待っている――

「ルカ――」

 そして彼女の優しい手を摑まえようと、タクミは手を伸ばす。


そう口走って、目を覚ました時。

まだまだぼんやりとしていた。

気分は最悪で、やけに沈む。

 口が渇いて指先が痺れている。

 顔が熱くて体が寒い――

「タクミ」

 悠介の声がした。父の声なのに、どうしようもなく怖いと感じてしまう。

「やめて、大きな声を出さないで!」

 ベッドに近寄る悠介に恐怖を感じる。

「こっちに来ないで……」

 手を動かそうとしたが胸のあたりで固定されていた。

 拘束帯だ。

「これ以上は近寄らない。だから安心して。タクミ、お前のPTSDの症状の出方を見る為、今日は何の薬も使わないそうだ。辛いかもしれないが耐えてくれ」

 悠介だと分かっている。なのに何故こんなに怖いのだろう。

 傍に来た看護師にもビクビクしてしまい、唇が震える。

「どうしてほしい? 拘束されているタクミの面倒が見たいんだ」

 悠介は困ったように、タクミを見つめる、

「大人は嫌だ……。大人は俺に近寄るな……」

 震える唇で何とか言葉にした。

 

 やがて、部屋のロックが解かれアンが入ってきた。

 それと交代するように悠介が部屋を出る。

 名残惜しそうな眼はタクミに向けられ、タクミはそれから逃げる様に顔を背けた。

「タクミ」そう呼ぶアンの声も。

「鼻は痒くない?」なぜか鼻を限定で気遣ってくれる声も。

 まったくと言っていいほど嫌悪感はなかった。

 すぐそばに寄せたタクミを観察するような眼も。 

「アン――」

 そう言葉を発した瞬間、弱さが噴き出る。

 顔がカッと熱くなり喉の奥が震える。

 泣いている感覚はあるが相変わらず涙は出ない。

頬に触れるアンの冷たい手。

「優しいタクミの中には…深い闇があったのね……」

 少年時代に経験した恐怖を今また繰り返している様な感覚だ。

 自分が信じていた自分の輪郭がぼやけていく。

 明日になればきっと治療が始まる。

脳の事が随分解き明かされている現代では、PTSDの治療はとても簡単だ。

その治療のための今の時間なのだから、この状態が続く訳ではない。

そんな事は分かっているのに、辛くてたまらなかった――

「楽にしていればいいわ、アタシは脳科学の研究者として観察したいだけだから気にしないで」

「余計気になるよ……」

 タクミはそう溢して溜息を捨てる。

「ねえ、どう? どんな感じ? 何か治療前と違う事とか、気になることはない?」

「戻ってきた記憶が生々しすぎて変なんだ。ちびの頃の記憶なのに……」

 目が覚めてから顔を合わせた人間で唯一、アンに嫌悪感が無かったのは、その頃の記憶にアンはいなかったからか。

「人間は、嫌な記憶でも何度も思い出してあれこれ考えて経験するうちに、嫌な記憶じゃなくしていくものでしょう? それがまったく行われていないから、未だに痛くて嫌な記憶なのよ。まったく経験が積まれていない、新しい傷とそう変わりないわ。でも、明日になればその治療がされる。それで終わりよ。それで? 目に映るモノとかはどう?」

「今は、アン以外の全てが……恐怖の対象だね……」

見回した景色すら怖いと思ってしまう。

「脳が一度経験した恐怖を回避しようとしているのよ。危険を知らせようとしているだけ。……少しオーバーにね」

 そう、とタクミは言って眼を閉じた。

「震え止まらない?」

 アンかタクミの耳元で小さな声でそう言った。

 さすが脳の事を研究しているだけあって、接し方は心得ているといったところだろうか。

 うっすらと目を開けると目の前に青い目がある。

「アン近いよ……」

 拘束されているせいで、仰け反る事くらいしかできない。

「タクミは本当に恥ずかしがりね」

 ニコリともせずそんな事をアンは言う。

「日本人だから」

「だから? アタシが男ならタクミともっと仲良くなれたかな……」

「よせよ。俺達は十分に仲良いだろう? それにアンが男だったら、父さんがアンに関わる姿を見る度苛立っていたよ。父さんを取られた嫉妬でね」

「それは女でも同じじゃないの?」

「いや、違うね。アンが可愛い女の子だったから、許せたんだ。父さんじゃなくても、誰でも優しくしたいだろう? そう思って諦められる。でも、同じ男ならそうはいかないから――」

「悠介はタクミを深く愛しているわ」

 そんな恥ずかしくなるようなことを平気で口にするところは、とてもアメリカ人的だ。

「父さんはアンが可愛くて仕方ないようだけど?」

「それは、ジーナを愛しているからよ。アタシに対する思いは、愛ではなくジーナに対する思いやり――」

 アンがそんな事を言うのはとても意外だった。

 どちらかといえば、人が自分をどう思っているかなどに、興味など無いと思っていたから。

 人に愛されたいと思う心があるからそれが言えたのだ。

「ありがとうな。今まで、世話がかかる妹だと思っていたけど、今回はアンに助けられた」

 震えは止まらないまま、フフフと笑いが漏れた。

「アタシにだって、タクミを助けられるわ」

 拗ねた様な表情を作って、その後アンは笑った。

 私は貴方を助ける事が出来ます――

 懐かしい声が頭に蘇って、胸が熱くなる。

 ルカ――

 彼女を――

 忘れてはいけなかったんだ。

 必ず戻ると言ってくれたのに――

 彼女だけが助けてくれようとした。

 彼女だけが寄り添ってくれた。

 彼女は今どこにいるのか?

 ルカ――


ここは――

 タクミの家。

 申し訳なさそうな祖母の顔。

 数年前、亡くなった時よりもずいぶん若い。

 言葉が喋れない。

 小学生のタクミの口はタオルで口を塞がれていた。

 手はロープで後ろ手に縛られて横たわっている。

 片足はギプス。

 もう片方の足首はロープで縛られ、母のベッドの足に繋がれていた。

 山での事故の後の記憶だ。

「ここにいれば安全よ。タクミを危ない目には合わせないからね」

 由紀はベッドで体を起こして、虚ろに笑う。

「由紀、タクミを離してあげて……」

 ドアの所に立って祖母は遠慮気味にそう言った。

「ダメよ。また何かあったらどうするの? タクミはアタシの命を犠牲にして産んだ子なの! アタシの命なの! アタシのモノなの!」

 甲高い声で由紀は叫んだ。

「だけど……」

「母さんのせいよ。アタシをこんな体に産んだから……」

 由紀は上布団を掴んで泣き出した。

「ごめんね……。由紀、ごめんね……」

 祖母はオロオロするばかり。

「タクミ……、ごめんね……」

 祖母はタクミに近寄る。

 ダメ! それ以上近寄ったら――

 言葉にならないくもった声をタクミが上げた時、母が目覚まし時計を投げた。

 祖母はそれを避ける事もかなわず、顔の正面でそれを受け止めた。

「近寄らないで、って言ってるでしょう?」

祖母の足元にトスンと落ちた目覚まし時計。

そして、ポタポタと落ちる赤い雫――

真顔で膝をついた祖母が見つめるのは、由紀のベッドの下に転がされたタクミの、声のない涙――

額から血を垂らす祖母の顔には絶望が浮かび、祖母はタクミの顔に同じものを見ていたのかもしれない。

全てが限界だった。

「もう……、終わりよ。全部なくなっちゃえ――」

 由紀は笑いながら涙を流した。

 血を垂らした祖母と見つめ合っていた時間はせいぜい一、二分だっただろうが、タクミには永遠にも思える程長かった。

 祖母が部屋を出て数十分後――

数人の警察官と救急隊が部屋になだれ込んできた。

由紀は取り押さえられ、タクミは救急隊に解放された。

暴れる母に掴まれたタクミの髪の毛がブチブチと千切れる音がする。

鎮静剤を投与されぐったりとした由紀が、運び出されるところをタクミは見ていた。

「もう大丈夫だよ。心配しなくていいからね」

 救急隊の男が言った。

 数日前にも聞いた言葉はタクミの心には届くことはなかった。

 母とは別の救急車に乗せられる時、見慣れた緑のキャップ。

 少年のままのタカヤが、こっちをじっと見ていた。


そして数日間の治療を受けて、取り戻した穏やかな生活と引き換えに、数日の記憶と涙をタクミは失った。

 それは由紀も同じで、由紀の場合は、忌まわしい記憶を忘れたまま逝ってしまった事になる。


全ての治療のプログラムが終わった後、主治医と悠介、アン、タカヤとタクミとで話す場が設けられた。

これからの生活での注意点などを聞かされて、説明は終わる。

「何か言いたいことは?」医師が言った。

「俺は、これからの話がしたい」タクミがおずおずとそう口にする。

「タクミの?」

 悠介が問う。

「そう、俺の――」

「これからの事? もしかして答えが出せないと言っていた事の?」

 タカヤが顔を上げる。

「そう。父さん――」

 呼びかけると、真摯に顔を向ける悠介。

「俺は、すぐにはLAには行けない。ごめんなさい――」

 悠介の顔は曇った。

「何故なんだ? 理由を説明してくれるか?」

「そのままにはして行けない事がある――」

「それが何か聞いてもいいか?」

 悠介の苛立ちも混ざったその表情を見て、こんな父を見るのは初めてだとタクミは思った。

「心配しなくてもいいよ。父さん。母さんや、あの事に関係がある事じゃないから。だけどあの事があったせいで、忘れてしまっていたんだよ。俺を助けてくれた人の事を……」


ルカ――

俺は君に逢わなければいけないんだ。

 あの山で俺がいなくなった事に戸惑ったかもしれない。

 もしかしたら探し回ってくれたかもしれない。

 右手を失ったまま――

 暖かな彼女の手の感触を覚えている。

 俺が触れたどんな手よりも優しくて暖かかった。

 彼女に右手を返さなければ。


 


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