第二章
コーヒーの良い香りに誘われて、ダイニングキッチンに顔を出したミイナは、タカヤの腫れた頬に驚く。
「何?」
そう言ったタカヤに、ミイナは首を振ってそれ以上知ろうとすることをしなかった。
おそらく昨日の話の流れで、おおよその見当はついていると言ったところだろう。
タクミはトマトを切って皿に盛っていく。
「俺、目玉焼き二つな!」
タカヤは座ったまま仏頂面でタクミを睨む。
「タカヤ、そろそろ機嫌直せ。で、ついでにアンを起こしてきてくれ」
タクミが振り返りもせずにそう吐き捨てる。
「マジでいいのか?」
嬉しそうに立ち上がるタカヤ。
軽く頷いて、タクミは忙しそうに「オレンジジュース出しといて」とミイナに言う。
タカヤは嬉しそうに走って行った。
「いいの? タクミ。アンは……」
「いいの!」
不安げなミイナの言葉を押し戻す様にそう言って、忙しそうな素振りでフライパンに卵を割入れる。
「ミイナ、目玉焼き半熟でいい?」
タクミが振り返った時、アンの叫び声がした。
ファッキン、ファッキンという金切声とガタガタという物音。
「タクミ……」
「いいんだ!」
ミイナの声はまた押し戻される。
「酷―い! アンが寝起き最悪なのタカヤ知らないんでしょ? どうりで喜んで走ってく訳だ……」
タカヤがアンを意識している事は、何となく分かっていた。
だからだ。どっちにしても早く分かっておいた方がいい。そう思ったのだ。
あの可愛い風貌にあの性格だ。いつも、勝手に好かれて、勝手に嫌われる。
だから誰も好きになりたくないんだとアンは言っていた。
これはアンの兄としての、タカヤの友達としての『ヤサシサ』だ。
「寝起きで跳び蹴りはねえよ……。タクミ、こいつはどこの傭兵だ! LYNXか?」
両頬を腫らせて、タカヤは騒ぐ。
LINXと言うのは世界で最大で最強の傭兵軍団だ。
映画などでタフな男たちの所属先として登場する。実在の組織だ。
「女の子の寝室に来るのはバカ。殺されても文句は言えない! これで済んでよかったと思いなさい!」アンはタカヤを指差して捲し立てる。
「アン。もういいから――。ハイ、ブルーベリージャム」
タクミがふたを開けてやると、アンは溜息を付きながら徐にスプーンを突っ込む。
相変わらず、零れそうな程たっぷりと、ブルーベリージャムを乗せて、重そうに弛んだパンをゆっくりと持ち上げる。
「アンは、目玉焼きはいらないの?」
ミイナがタクミを見る。
「こいつ、朝はこれって決まっているんだ。それ以外のモノは食べない」
食べ物にしても物事にしても好き嫌いが激しく、嫌な事は絶対にしない。
無理に食べさせれば吐く。
朝食はブルーベリージャムのパンとコーヒー、そして気が進むときはチーズがたっぷりのサラダ。
昼食はチキンのハムか、ツナのサンドウィッチと、オレンジジュース。
夜はパスタとベイクドビーンズ、機嫌が良ければコールスローサラダ、肉などは、ごくたまに気が向いた時しか口にしない。
最近、ラーメンが食べられるようになったとこの間ジーナが言っていた。
お菓子も嫌いで味付きのパンも食べない。
間食するならクラッカーにブルーベリーのジャムを付けたのを少し食べるくらいだろう。
アンは食べる事にはほとんど関心がない。
しかしながら決まった時間に決まった食事するのは、アンの精神衛生上とても大切な事らしく、行動パターンとしてのみ行う。
食事という行為に喜びを感じたりはしない。
ただ、同じ時間に同じものを食べるという行為に安心して一日を過ごせるのだ。
そういう行動はIQの高い子供にはよくあるらしく、少し変わった子ととらえられることが多い。これでも小さな頃よりは随分ましになったのだとジーナは笑っていた。
確かに、タクミも今回それを強く感じる。アンは、とても落ち着いて、そして可愛くなった。
美少女だったのは前からだが、大人っぽくなり、そばかすもさほど目立たなくなり、綺麗になった。
しかし、パンを頬張った顔は幼く口の端からジャムが垂れる。
すかさず、タクミがそれを小さなタオルで拭う。
「ん~!」と声を上げて嫌がるが、タクミは続ける。
五、六歳の女の子の面倒をみている様な光景だ。
「アンは大学生なんでしょ?」
突然ミイナがそう切り出した。
「そうよ」
そう答える。
「何を専攻しているの?」
アンが天才児だったという事はみんな知っていて、興味があるのだろう。
「脳科学よ。今は大学で、匂いが脳に及ぼす影響を研究しているの。とても楽しいわ。脳はね、匂いをインプットは出来ても、匂いを伴わないアウトプットはできないの。その匂いを覚えてはいても、その匂いを嗅がないと思い出せないということなんだけど、それだけに臭覚が脳に及ぼす影響も極めて複雑で……」
口の周りを紫に染めて、嬉しそうにアンが話したが、ミイナもタカヤも「へえ」と言葉を濁す。
何故なら、これ以上話を広げたところで理解できないだろうから。
アンもアンで、こんなのは慣れているらしく、続きを話すことをすぐに諦めた。
「タクミ、今日のスケジュールは?」
アンはお決まりの朝の言葉を口にする。
「今日…は……、そうだな。特に何もないけど、どこか行きたい所ある?」
「図書館に連れて行って欲しい。あたしはみんなで行きたい……」
そう言いながら、珍しく粉チーズを山ほど振りかけたサラダを、フォークでつつきだした。
サラダに手を付けるなんて――
これでいて、今日は機嫌がいいらしい。
ひょっとして、アンもタカヤの事がまんざらでもないのかもしれない。
そんな事を想いながら、アンの口の周りを拭いてやる。
タクミが順番に顔を見ると、全員頷いてくれた。
「みんな大丈夫だって、アン」
そう聞いた途端、アンは嬉しそうに笑う。
こんな顔は、本当に抱きしめたいほどかわいい。
タカヤを見れば、タカヤも同じような事を思っていたらしい。
オレンジジュースのグラスに口を付けたまま固まっていた。
用意を済まして、五人が乗り込んだタクミの運転する軽四のワゴンを、ミイナの母親が手を振って見送ってくれた。
蝉が鳴きだした日差しの強い朝。
ゆっくりと車は動き出す。
「おばさん、若いね。昔と全然変わらないよ」
後部座席のタカヤが言うと、そう?とミイナは返す。
「日本人はみんな子供みたい」
助手席のアンがそんな事を言うので、タクミは慌てて付け加える。
「若く見える……ってことだよな?」
「違う。特に女の子は、見た目も、話し方もボディーランゲージも小さな子供みたい」
取り繕うタクミをよそに、ミイナに貰ったセーラー服を着たアンが好きな事をほざく。
「日本では、幼いのは美徳? アタシはいつも、ジーナに、子供みたいな事をすると言われる。大人になりなさいと……。でも、よく解からない。ここでは、子供でいい? アタシは変な子に見えない?」
「変な子?」
「そうよ。アタシはずっとそう呼ばれていたわ。だけど、何が変で何が変じゃないのか、アタシはよく解からない……」
アンは怒りとも悲しみとも解かぬ顔で。
そんなアンに、タクミはどう言ってやろうかと考える。
否定したところで裏付けのない答えをアンは欲しがらないだろう。
「そうなの? じゃあ、日本の女の子はみんな『変な子』ね。アンと一緒で。でも、日本ではその方がモテるのよ!」
ミイナはクスクス笑った。
「いいか、アン。日本の男は、子供っぽい女が大好きだ。気の強い女も大好きだ。つまり、『変な子』ウェルカムだ!」
タカヤが、大きな声でそんな風に笑いを誘う。
アンが確認するようにタクミを見る。
「本当だよ」
タクミはアンの頭にポンと手を置いた。
アンにはアンの不安があるのだ。
勝手気儘に見えても、周りを気にして、他の子と同じように振る舞えない事に傷ついているアンがいた。
何が変なのかは分からない、でも変だと思われている事は分かる。
「ミイナなんか見てみろ、色黒の凸凹のない幼児体型だけど、高校の頃はモテモテだった」
「タカヤ!」
タクミが怒鳴りつけた。
「いいのいいの」
ミイナは笑うが、場を乱すようなことは言えないのがミイナだ。
「俺は褒めてるんだぜ?」
悪びれないタカヤ。
「日本人の性質の問題。焼けても綺麗。ミイナは綺麗」
アンの中では、何一つ差別的な文言を吐いたつもりはないのだろう。
ジーナがアンをパーティーなどに連れて行きにくい理由の一つだ。
「図書館で何か読みたいの?」
ミイナが話を変えてくれた。
「人口知能の研究の文献と、日本の宗教とモラリズムと化学の関係に関する文献」
アンがそう答えると、後部座席の三人が口をそろえて「へえ」という。
それが可笑しくてタクミは吹きだした。
タクミが久しぶりに訪れた、この街の図書館は、静寂に包まれている。
タクミがよく利用する大学の近くの県立図書館と違い、こじんまりしているそこには、利用者は自分たち以外居なかった。
ネットワーク社会の今では、わざわざ家から出る事もなく指一本で欲しい文献にありつけるのだから。
タクミ自身も、本を読む場所としては使ったことが無い。
本ならタブレットに入っている。
図書館は静かな空間を与えてくれる、数少ない屋内で無料の時間つぶしの場所だ。
タカヤは手前のpcのスペースに陣取る。
「本当に、何処にもアンドロイドがいないのね――」
「え?」
キョロキョロするアンに、タクミが問い返す。
「日本はアンドロイドを使わない国だと聞いたけど……。LAの図書館はアンドロイドが大勢働いているわ」
「昔はいたんだよ。でもやっぱりこの国には合わなかったんだろうね。俺もアンドロイド否定派だよ。何かを機械に代行してもらうにしても、生物の形である必要はない」
「ただの機械という認識はおかしいわよ。人工知能が働いているなら、それはただの機械とは言い難いわ。考えて行動するわけだから。LAの図書館にいる司書アンドロイドは、人間なんかより、いい話し相手になるわよ」
アンは重い本を次々とタクミに渡して、次の棚を探す。
確かに、人間の司書にアンと同じかそれ以上の知識を求めるのは容易ではない。
「そう言えば、アンはLAに専用のアンドロイドがいたよね。あれはいつ買ったの?」
「デイジーね。八歳の時にAIのオーナー教育プログラムを受けて、やっと受け入れる事が出来たのよ。同じ学年で一番早かったわ。彼女は家族で相談相手よ。タクミ、デイジーをあれ呼ばわりするのはやめて。日本がAI禁止で無ければ、デイジーは連れてきているわよ」
「オーナー教育? そんなのあったんだ……」
「ええ、それはもう大変だったわ。でもどうしても話し相手が欲しかったの。アンドロイドの勉強は何てことなかったけれど、性格適合のテストは五回落ちた……。アンドロイドのオーナーになるのはそう簡単じゃないの」
図書館の中央には大きめのテーブルが三つあって、そこが閲覧スペースだ。
「日本人もそうすべきだったのかもしれないけどね。十年位前に違法改造や、アンドロイド虐待が問題になって、元々日本の電機メーカーはアンドロイドの制作に遅れていたから、そんなところからの圧力もあったらしくて、人型が即全面禁止、今では動物型の愛玩用もIA禁止だ。大方回収されてしまったよ。違法なのは隠れて買う奴もいるけど、目的は……」
タクミは口籠った。
「性行為?」
アンが真顔で言う。
答えあぐねているとアンが話を進める。
「アメリカにもいるわ。セクサロイドは違法だけど。アメリカは刑罰が重いから大きな組織以外にそんな物作ったりしないけど、確かに彼等は衛生管理が簡単だし、生身の人間を傷つける訳ではないから、アメリカにも推進派はいるの。アメリカはレイプ犯罪が多い国だから」
「……そうなんだ」
タクミはそう言ってテーブルに本を置いた。
「アメリカではアンドロイドの権利を認めようという流れもあって、その問題は混沌としているわね。生物ではないけれど、自己があり、考える事ができるわけでしょ?」
アンはと見上げた本の前に座って、本を開いた。
「いい匂い」
「何が?」
「本の匂い。落ち着くでしょう」
タクミも本の匂いをクンクンと嗅いでみたが、よく解からなかった。
アンはもう何も話さず、本に眼を落したまま、本の中の世界に行ってしまった。
一度こうなれば、呼んでも肩を叩いてもなかなか反応しない。
お昼になって、タカヤが近くのファストフード店に行かないかと誘ってきたが、アンが本の世界に入ったままなので、タクミは、アンと図書館にいる事になった。
ふと、アンが分厚い文献を読み終えて積み上げた本の上に置いて、新たな本を開こうとする。
「アン、ランチはどうしようか?」
すかさずタクミがアンに声をかける。
アンは腕時計に眼をやって溜め息をつく。
「ランチタイムは終わっちゃった。もういらないわ……」
そう言ってまた本の世界に入ってゆく。タクミは呆れた様に笑って、暇つぶしにアンが読んでいた文献をパラパラと開いてみる。
それは年代別のアンドロイドの流通系図や特徴が書かれたもので、タクミにとってさほど興味を引くものではなかった。
しかし開いたページの左端の写真に目が留まる。
修道女のような服を着た女性モデルの、主に老人介護用に製造されたアンドロイドだ。
(このアンドロイド、どこかで……)
見覚えがある――
TVとかカタログ、古い映画などではなく、実際にどこかで――
会った事がある様な気がする。
珍しくアンが本から眼を離し「タクミ……?」と不安げに声をかける。
いつの間にか頭を抱えて考え込んでいたらしく、タクミは慌てて座り直し先ほどの本のアンドロイドをもう一度見る。
「古い介護用アンドロイドね。スマイルカンパニーが日本輸出用に作ったモデルで、かなりの数が流通したって聞いているわ。……これがどうかした?」
アンが訝しげに言う。
「何だか、動いているこのアンドロイドを知っている気がするんだけど……。まったく思い出せない。でも、服の触り心地や声も知っている様な気がするんだ」
記憶の中で、何かが邪魔している感覚だ。
悪寒で身震いをして、その後すぐ気持ち悪くなってきてしまう。
吐き気を催してトイレに走り込んだ。
トイレから帰ってくるとアンが本を閉じて腕を組んで待っていた。
タクミは小さくゴメンと言って溜息を付く。
どうしてしまったんだろう。
体調が悪い訳ではないのに――
「タクミ、十年以上前にPTSDとか精神疾患の治療どこかで受けていない?」
真面目くさってアンがタクミにそう聞いた。
「わから…ない。多分、無い……と思う」
「タクミに聞いたのは間違いね」
あいまいな答えにイラついた様子で、アンが自分のリュックからタブレットを取り出す。
「ユースケなら何か知ってるかも」
画面に映された悠介は少し眠そうだ。
LAとは時差があるので向こうは十一時過ぎた頃だろうか。
「どうしたの? アン。ジーナではなくって、僕でいいのかい?」
久しぶりに聞く優しげな悠介の声。
「ユースケ、タクミは小さい頃、精神疾患の治療をした事があるの? 記憶の操作をした形跡があるんだけど……」
悠介の顔色が変わった。
「そんな事は由紀から聞いていないけど……。もしかしたら、あの時かも知れないな。タクミ、小学生の頃、崖から落ちて、山の中で一晩過ごしたことがあっただろう?」
タクミはタブレットの悠介に頷いた。
「あの後、僕がタクミと話したのは事故から一週間くらい経った頃だった。すごく暗い表情で、夜眠るのが怖いと言っていたのに、それから二日たって、タクミから連絡を貰った時には、別人じゃないかって位明るくて、事故の事も、それからあんまり話さなかったから……」
「多分それだわ。その時タクミはPTSDで、恐怖を緩和するために、記憶を少し消してあるのね。随分前に副作用で処置数年後に嘔吐やパニック症状が出る事が分かって、その治療法は禁止されたのよね? タクミのように今まで何もなく済んでいるのは稀だわ。余程その物事に関わらずに過ごしてきたのね」
考えを巡らせるように夢中に言葉を連ねるアンに悠介が、「アン」と珍しく温度のない声で放つ。
「今アンがそれを深く探るのはとても危険だよ。分かっているね?」
ゆっくりと言い聞かせるように悠介は言う。
「もちろんよ」
「タクミと話させてくれるか?」
アンは頷いて、タクミにタブレットを差し出した。
「タクミ、大丈夫か?」
悠介はそう言って、頷いたタクミに優しく微笑みかけた。
「何か嫌なものを見た?」
「違う、嫌なものではないよ……」
「でも何かを見て、症状が出たんだろう?」
あくまで声は優しく。
「そうだけど、嫌ではないんだ……、なんだか、忘れてはいけない事のような気がするんだよ。父さん、俺は……それを思い出したい」
「今はダメだ! 今すぐ……そのまま病院に行くんだ。いいね? 僕も日本に戻ろう。だから……、それを考えるのは、もう少し待っていてくれないか?」
強い口調の悠介に少しびくついてしまう。
画面の中で震える悠介の唇。
その父を背中から抱きしめたジーナ。
その時の気持ちはとても複雑で、もちろん震える程怖くて――
自分の中に知らない自分が眠っている気がした。小学生のまま。
眠っている事に意味があって、それを起こすとろくでもない事が起こる気もする。
しかし、何か自分の中で起こる不可解なこだわりや気持ちの動きを、解き明かすカギを手に入れたような気もしていた。