第一章
榑井タクミ。
姓はクレイと読む。
葬儀場の折りたたみ椅子に腰かけ、黒いネクタイを緩め溜息を捨てる。
つい今しがた、母の葬儀が終わった。
悲しみはさほど重たくはなく、体が丈夫ではなかった母の苦しみがやっと終わった事の安堵感の方が上回っている。
「お疲れ様。タクミ、よく頑張ったね」
二十歳のタクミの頭に手を置くのが彼の父親、五条悠介。
頭に置いた手は、そのまま滑るようにタクミの頬を捉える。
そして彼はタクミの向かいに座る。
タクミが幼い時に離婚して生活を別にしていたため、悠介の態度は時々恥ずかしい程、昔のまま、幼い日のタクミにした事と同じことをしようとする。
二十歳の男にしては、華奢な体つきはどことなく中性的で、柔らかい声とゆっくりとした話し方は落ち着き過ぎて若さに欠ける。
柔らかい栗色の猫毛も、笑うと無くなる垂れ目も、男らしさとはかけ離れていて、タクミはあまり自分の風貌が好きではない。
百八十センチを超える悠介を見ていていつも思う。自分は何故父に似なかったのかと。
「父さんもありがとう。ジーナとアンにもちゃんとお礼を言わないとね……」
ジーナは悠介の再婚相手のアメリカ人で、アンはジーナと前夫との間の子だ。
「そんなに気を使うな。ジーナもアンも、タクミを家族だと思っているんだから」
笑う悠介に、タクミもつられたように微笑みを漏らす。
母の由紀の身体が弱い事は分かっていて二人は結婚し、タクミが生まれた。
しかしながら状況はそんなに優しくはなく、タクミを産んだ後の母は、元々悪かった心臓の症状を悪化させる。
今では一般的になっている人工臓器に頼る事を、宗教上の理由で拒否した母は、常に死を匂わせる存在となった。
タクミが生まれて五年した頃、悠介のアメリカ赴任が決まり、付いて行けないと悟った母が別れを切り出した。
それからタクミは母の実家の田舎で高校卒業までを過ごした。
その間も悠介は父親として金銭的にも精神的にも支えてくれたので、タクミが十五歳で再婚を聞かされた時は素直におめでとうと笑って言えた。
最も、再婚よりも前から、LAの悠介の家に行くたびにジーナには会っていたので、いまさらと言う感じもあった。
ジーナは背が高くて健康的なおおらかな美人で、製薬会社で薬品の研究をしている悠介の仕事の同僚だった。
ジーナはアンの父親だった軍人のパートナーを戦争で失ったと言っていた。
彼が死んだとき、アンはまだお腹の中だったので、父親に会ったことが無いのだと。
もうパートナーに死なれるのだけは嫌だと、ジーナは酔っぱらった時、繰り返し言っていた。
だから多分、お互い、過去を踏まえた上での相手だったのだろう。
悠介がジーナとその連れ子のアンを連れて来た時は、三つ年下の青い目のアンにドキドキしたものだ。
今はもう、何度か行き来して一緒に過ごしているうちに、本当の兄弟のようになってしまった。
「タクミ。一緒に暮さないか?」
悠介が静かにそう口にする。
「え?」
思わずそう聞き返す。
意外だった――
「そんな顔をしないでくれ。病弱な由紀から、タクミを取り上げる事はしたくなかっただけで、俺はずっとその気持ちはあったんだ。だけど、どうしても由紀の死とセットに考える事になるから、タクミには言い辛かった。でも由紀も常々、何かあった時はタクミを頼むと言っていたんだよ。由紀の死を待っていたような事をここで言うのはどうかとジーナには言われたが、これ以上タクミに淋しい思いはさせたくない」
意外だった。
父のそれも、母のそれも。
昔から、タクミは由紀のモノだと、事あるごとに父に言われる度、優しい父に拒絶されたようで少し淋しい気がしていた。
母もあれだけ毎日「ここにいて、アタシといて」と淋しそうに言っていたのに。
複雑だ。
悲しいだけではない母の死と、母の死にまつわる全てが。
タクミの中には、病弱な母の為に制限された日々を終えられるという安堵感が、少なからずあった。
口にすることは出来なかったが、年老いた祖母が母の看病に明け暮れて死んでいった姿は哀れだったし、人口臓器が保険対応になって十数年経つというのに、宗教を理由に、人に迷惑をかけて生きる道を選んだ母に疑問を感じた事もあった。
それでも、母が好きだったし、母しかいないと思ったから、大学で一人暮らしを始めてからも、週末は実家で過ごしたし、事あるごとに母の所に来た。
最初は、淋しいと四六時中電話があり、一人暮らしとは名ばかりで片道二時間の道のりを往復する日々だった。
「もちろんすぐに決めろとは言わないよ。俺とジーナは仕事があるから明日LAに帰るけど、アンは久しぶりに日本でゆっくりしたいというから、夏休みが終わるまで面倒を見てやってくれないか。多分、アンなりにタクミの役に立ちたいんだろう。もちろんあの性格だから、何処まで役に立つか解からないけどね」
悠介が笑う。
それでも、タクミにはその気持ちが嬉しかった。
「本当にゆっくり考えていい?」
タクミは少し俯いてそう聞く。
この国にもう家族はいない。それでも、ここにはタクミにとっての二十年がある。
「もちろんだよ」
「父さん、ありがとう。父さんやジーナやアンがいてくれて本当によかった――」
そんな事をタクミが悠介に言うのは初めてで、少し恥ずかしくなって悠介から眼を逸らした。
「タクミには辛い思いをさせたね。すまなかった――」
何で父さんが謝るのと言いかけたが、そのまま強く抱きしめられた。
二十歳の息子の髪の毛をガシガシと撫でて、悠介は泣いた。
何となく、遠い存在だった。タクミは悠介に、何でも話せるかといえばそうではない。
やはり一緒に暮している家族とは違って、気を使うし自分を出していいのだろうかと迷う時がよくある。
二人の間には消せない壁がある。誰が悪い訳ではない。そんな事はタクミもわかっている。
タクミは父の背中に手を回して、いつも手に届かなかった人の、ぬくもりを感じていた。
それでも泣けないこの体が忌まわしい。
否、泣けないのではなく、涙が出ないのだ。泣いている感覚はあっても涙は流れない。
小さな頃はよく泣いたのに、いつの日からか涙が頬を伝う事はなくなってしまった。
母の死に際でさえそれは変わることはなかった。
「タクミ、今日のスケジュールは?」
零れる程ブルーベリージャムを塗ったパンに、噛付く前にアンがタクミをチラリと見る。
母が亡くなって二週間ほど経ち、状況も気持ちも少し落ち着いた。
「午前中にお寺にお礼を持って行って、自治会長さんに挨拶行くくらいかな。アンは、何かしたい事ある?」
タクミは、振り返ってアンに温かいコーヒーがたっぷり入ったマグカップを渡した。
夏と言っても、山が近い田舎は朝晩驚くほど涼しい。
「海に行きたいわ」
パンから垂れそうなジャムに舌を伸ばして舐め取るアン。
「水着は?」
「水着なんかいらないわ」
その言葉にタクミはマグカップに口を付けたまま首を傾げた。
「海イコール海水浴……。貧困な発想。ナンセンス!」
アンがタクミを指差して声を大きな声。差し出された指はジャムで青く染まっている。
「美味しそうな指だね」
タクミの言葉に、アンは自分の指先に目をやって徐にそれを舐める。
朝日に光る金髪は絡まってボサボサ。
タクミはさりげなくサラダの入ったボールを差し出した。
それに気付いたアンが、そのまま右手の人差し指でつき返してくる。
「サラダは嫌いだって何度言えば分るの? タクミのバカ!」
「ジーナに一日一度は、出来るだけ食べさせるように言われてる」
「ジーナはここにはいないでしょ? それに、『出来るだけ』なら今日は無理なの! 融通の利かない人」
溜息をつきながら面倒臭そうにアンは首を振った。
「太るぞ!」
「太らないわ!」
「そんなのは若いうちだけだ、西洋人は年を取ると太りやすいんだから」
言葉尻に手拭きのタオルが飛んできた。
「もう! せっかくうるさいジーナと離れたのに……、タクミのバカ!」
ドンと音を立ててテーブルを両手で叩いて、アンは勢いよく立ち上がった。
「アン、ジャムついてる……」
投げられたタオルで口元を拭いてやる。
嫌がるように顔を背けて「タクミなんか嫌い! ジーナと一緒じゃない!」そう言うとダイニングルームを勢いよく出ていく。
「全く――」
タクミはそう溢して溜息と共に椅子に座った。
ジーナはとてもおおらかで優しいのに、どうしてアンはあんな性格なんだろうかと考え込んだ。
LAでジーナと何度もあっていたのに、なかなかアンを紹介しないジーナはタクミに言った。
「性格的に少し問題があるのよ。特に初対面が問題でね。緊張すると少し…その、暴力的になったり……するの。甘やかし過ぎたのかしら……」
ジーナのそんな言葉に、悠介は笑って「俺はいい子だと思うよ。僕が初めて会った時は生卵が飛んできたけどね」そう溢す。
アンのガサツで攻撃的で突飛な行動には、みんな困らされていたようだった。
そうは聞いていたモノの、ジーナに写真を見せられた時は、白いワンピースにブルーのリボン、眼の大きな美少女に、思わず息をのんだ。
ここに初めて来た時なんかは、食事に行くのを嫌がって、二階から飛び降りて額から血を流していたし、アンの金髪を笑った小さな子供を、足を持って逆さにして海に落とそうとして悠介に捕まえられていた。
それでも彼女はIQが高い天才児として生まれ、十七歳の彼女だが飛び級で現在大学生という事もあり、周りの人間もアンには寛大なのだとジーナは言って、そのせいで治らないのかもと付け加えた。
「まあ、淋しくはないからいいか……」
タクミもそうやってアンを許してしまう。
彼女の環境には、きっとおおらかな人間しかいないのだろうとタクミは思った。
自分を含めて。アンには甘い。
その日の午後、知り合いの漁師さんの船で、アンの希望通り釣りに向った。
タクミがお願いした時には怪訝な表情だったその漁師は、アンの縋る様な「お願いします」に騙された。こんな田舎では珍しいブルーアイズの小さな顔の美少女だ。
そんなアンに見つめられれば色黒のおっさんなんかはいちころだ。
アンは船の上で散々はしゃいで、小さな魚が釣れてもそこそこ大きな魚が釣れても同じように喜んだ。そして、夕方十数匹の魚が入ったクーラーボックスをタクミに持たせて、上機嫌で帰ってきた。
海沿いの道を二人で歩く。潮風に吹かれながら、徐々に赤くなる道。
家に近づくと、家の前に誰かいることに気付いて、目を凝らす。近づくとタクミの同級生だったタカヤと隣に住んでいる幼馴染のミイナだった。タカヤは由紀の訃報を遅れて聞いたらしく、わざわざ来てくれた。タカヤはいざ来てみたものの誰もいないのでどうしようかと考えあぐねていたそうだ。門の前でうろうろしているタカヤを不審に思い、声をかけたらタカヤだったと言ってミイナは笑った。アンが取ってきた魚と、みんなが持ち寄るモノを庭で焼いて食おうという事になった。
タカヤはこの路地の奥の一軒家に住んでいたが父親の仕事の都合で、今は東京で住んでいた。
何も珍しいことではない。こんな昔臭い街に住みたい若者は少ないから、殆どが大学進学や就職でこの街を後にする。
タクミだって母の事がなければ都会で暮らしていた。
タカヤ達はアンとは面識がない訳ではなく、アンは彼らを嫌がったりはしなかったし、もしかしたらLAの様な大都会に住む彼女は、何もない田舎の日々に、少し退屈していたのかもしれない。
それにタクミの中で、LAで悠介たちと住むことを少し意識しだしたこともあり、ここにいる間に彼らとゆっくり話していきたいという気持ちもあった。
いつまでもここに一人でいるのも辛いし、日本国内に家族がいない人間は今の日本ではとても生きにくい。日本は現在軍事国家で都会はテロやクーデターを恐れて、身元が保証できない人間や、失うものがこの国内にない人間は都会で暮らすことも、都会に出向くことも難しい。
できるだけアメリカで暮らすなら日本の大学を出たって何の役にも立たない。
魚に慣れていないアンの為に、ミイナが塩コショウでローズマリーまで乗せてムニエル風に焼いてくれて、それを自分が取ってきたんだと偉そうにアンが振る舞う。
こんな時、一生懸命に日本語で話すアンは、何処となく幼くてとてもかわいいと思う。
ミイナが持ってきた自家製のレモネードの味が気に入ったらしく、アンは何度もおかわりをする。
しかし、元々アンは小食で偏食なので、食べ物にはあまり手を付けなかった。
ペンションをやっている両親を普段から手伝うミイナが、何かとよく働いてくれて、楽しい時間を過ごした。
宴が進めば成人組はワインを持ち出し、せっかくのワインを紙コップなんかで飲み始める。
ミイナは家からお客が置いて行った余り物だと言って花火を持ってきて、手持ちの花火をやり始めると、アンがそれに加わり、夢中になって火が消える度に「もう一回!」と叫ぶ。
そのうち少し酔ったタカヤが、ミイナの家に枝豆を貰ってくると言って数分後、ミイナが昔着ていたセーラー服を着て現れ、笑いを誘う。
はしゃいでみんなで写真を撮った後タカヤが「アンに着せてみたくないか?」と薄く笑う。
その時、想像したアンにタカヤはもちろんの事タクミまで萌えて、思わず見てみたいと思ってしまったのだ。アンもまんざらではないらしく、言われるままに着替える為部屋へと。
庭に面した掃き出し窓が開いて、手招きしたミイナの後ろからアンが現れた。
タカヤが息をのむ。タクミも思わず見とれてしまった。
「やばい位かわいいじゃん! タクミ、あのゲーム何だったっけ……? RPGのさ……、高校の時、一緒にやったじゃん……、あのキャラに似てるよね。マジでかわいいよ!」
タカヤがアンを見て微笑むと、柄にもなく恥ずかしそうにアンが俯く。
その姿も何ともかわいらしい。
アンは何度もガラスに自分を映してその姿を確認している。
「アン、気に入ったの?」
タクミが聞くと、アンは困ったような顔をして頷く。
「そんなに気に入ったなら、それあげるよ」
ミイナの言葉にアンはピョンピョン跳ねて、ミイナに抱きついた。
アンの本質を知っているミイナは思わず身構える。
「ミイナ大好き……」
「アン、大袈裟だよ。アタシはもう着られないもん。でも、アンなら、年齢的にも着る資格あるしね」
ミイナは笑った。
「資格?」
アンは首を傾げた。
「そうだよ。それは十八歳までの女の子にしか着られない服なんだよ。ミイナが着てもAV臭かっただろ?」
タカヤが大袈裟に何度も頷きながらそう言う。
「AV?」
アンはまた首を傾げ、タクミが慌てた様に「ま、まあ、よかったな。アン。写メ、ジーナに送ってやろうぜ」そう言ってカメラを向ける。
恥ずかしそうに立つアンと、映り込んだタカヤのアンを見つめる眼。
「アンが初めてここに来たのいつだったっけ?」
うっとりとアンを見つめたままそう呟く。
「俺が中三の今ぐらいの時期だよ。父さんがジーナと結婚した時だから」
タクミが焼け残った炭に水をかけて、宴は終わりを告げる。
「五年経ったんだね。アタシにとってアンは、未だに二階から降ってきた女の子だよ」
ミイナは笑う。ゴミ袋に紙コップやら枝豆の皮やらを放り込みながら。
「難しい年頃だった……」
アンがボソッとそう言ったので思わずみんな噴き出した。
今でこそ流暢とは言えないにしろアンは日本語を話すが、ジーナと悠介が再婚したころは全く話せなかった。ジーナは、悠介と同じ日系企業に勤めているから日本語は話せるが、家では英語で話していたので必要なかっただろうに。
アンの日本語は、日本のTVドラマのDVDなどで勉強していたという。
IQ百八十のアンにとってさほど難しくはなかったのだろう、上達は早かった。
パソコンでビデオチャットをする度に、めまぐるしく上達していく彼女の日本語にはタクミも驚かされた。しかしTVドラマが教科書の日本語は、たまにどこかおかしく感じる事もある。
「アンの場合ずっと難しい年頃だと思うよ」
タクミはジーナの奮闘ぶりを思い出し苦笑する。
「違う。タクミ達がいい子すぎるの。大人に都合のいい子……」
アンの何か足りない日本語は時々、的を得ていてドキッとする。
「かもしれないな――」
タクミはそう呟いて、掃き出し窓を開けてそこに座り込んだ。
由紀が死んで、これからの人生を好きに生きていいのだと思ったのに、何一つ決められない自分はまさしくその通りだ。
アンは不恰好で自分勝手でも、全て自分で決めて進んでいる。
それに比べてタクミは、いつも大人を意識して邪魔にならないように不必要とされないように生きてきた。
「特にタクミは、おばさんの事もあったからね。心配かけている姿なんか見たことないもん」
ミイナがタクミの横に座った。
トレードマークのショートカットは中学の時から変わっていない。
中高とサッカー部のマネージャーをしていて、よく気のまわる優しい性格で、ミイナは昔からモテた。
「昔はそうでもなかったよな?」
タカヤが残った枝豆をつまみながらタクミを見やる。
「昔っからそうだよ。タクミはいつも大人を困らせない、いい子だったわ」
「そんなことなかったんだよ、ミイナ。俺達クソガキ同士で喧嘩もしたしなあ?」
タカヤにそう言われてタクミもそうだったっけ?と聞き返す。
「そう言えば、タクミ転校生だったもんね。最初苛められていたんだっけ?」
ミイナは楽しそうだった。
「苛められていたっつうよりは、からかわれていたんだよな? タクミは都会の小洒落た男の子で、見た事もないようなブランドの服とか着ていたから」
思い出すと妙に恥ずかしい。
「そうだった。タカヤが先頭切って、からかってきたんだった」
指を指してタカヤを睨み付ける。
「そうだ。だってお前、女の子みたいだったんだ」
「サッカーのパスもくれなかった」
「ちゃんと回せそうに見えなかったんだ。だけど俺が一番先に仲良くなってやったんだろ?」
「何だよ、その偉そうな言い方!」
枝豆の皮をタカヤに向って投げつけてやる。
「そうじゃねえよ。あのサマースクール合宿の後だ……」
タカヤの表情が曇る。
「そうだ……。あの後、タカヤが口を聞いてくれなくなった……」
思い出した。
小学五年生の夏――
「あの後、おかんに殺されかけたんだ。で、タクミ君に今後関わるんじゃありませんって言われた」
タカヤが柄にもなく表情を無くしている。
「何の話?」
庭石に腰掛けたアンがそう問う。
「タクミは小五の夏の合宿で死にかけたんだ。……俺のせいで――」
シンと静まりかえってしまった。
「タカヤのせいじゃないだろ? 崖から落ちたのは俺がどんくさかったからだ。俺のせいだよ」
「いや、タクミがいないのに気付いていたのに、そのままにした……」
「それは俺がふざけて隠れたと思ったからだって聞いたよ。……たぶん、そうだった。だから、怪我が治って学校に戻った時、無視されたのはきつかったな……。あの頃の事は、正直あんまりちゃんと覚えていなくて――」
タクミは笑った。
「タクミ、タカヤが見舞いに来ないって、怒ってたもんね」
ミイナも笑った。
今となっては分かる。タクミが何故見舞いに来なかったかというと、それはきっと親に止められたのだろう。それでも少年のタクミはそれに深く傷ついた。
分かっている。由紀が取り乱した姿を何となく覚えているから。
夜になってタカヤがタクミの悪戯を疑い始める。これは悪戯ではないのではと。
点呼の前。タカヤが引率の教師にタクミが帰ってこない事を告白。
そして警察とタクミの家に連絡が行き、由紀が合宿施設に連れて来られたが、山の捜索は深夜行えず、付近の捜索のみで朝まで待つことになった。
朝になって明るくなればタカヤは道が分かると言った。しかし夏でも山の気温は朝晩冷え込む。朝まで持ってくれたらと救助隊の一人が溢した後、由紀が泣きながら助けを乞うた。
由紀は土下座をして捜索に行って欲しいと懇願した。心臓が弱い自分が、命がけで生んだたった一人の子供だと。
タカヤは自分のした事の罪の大きさに愕然とし、タクミに死の危険がある事を知った。そして震えながらタクミが生きて帰ってくる事を願った。
早朝から捜索が始まりタカヤがタクミを見失った地点から下に降りて捜索し、案外簡単にタクミは見つかった。
タクミは左足を骨折していて、山岳救助隊に背負われて付近の道路まで出てきた。
由紀が駆け寄り、タクミは待機していた救急車に乗せられる時、タクミに駆け寄った教師に由紀は放った「タクミに触らないで!」
その姿が余りに恐ろしくて、タクミですら、足が痛かったことも言えなかったくらいだ。
それを見れば、タカヤの母親がタクミに関わるなと言ったことも理解できる。
結局、タクミはその体が由紀の所有物のように感じて、好き勝手には出来なくなった。
タカヤも中学に入って再び同じクラスになった時には仲良くもなれたし、サッカーのパスもくれた。けれど、やはりあの一件の前のようには、振る舞うことは出来ない。
それはお互い、どこかにわだかまりがあったのかもしれない。
それでも、今全て掘り返してああだこうだいう気にはなれなかった。
急に風を冷たく感じて、身震いをする。
飲み過ぎたのか気分の悪さも感じた。
「バカみたい!」
アンの声。
何てこと言うんだと一瞬思った。けど、その通りだとも思った。
それはタカヤも同じようだった。今更そんな事を思い出してどうする。
十年以上経ってまた落ち込むなんて本当に『バカみたい』だ。
「やめよう。アンの言う通りだ。終わった事じゃないか――」
タクミは声のトーンを上げ気味に、この重い空気を断ち切ろうとした。
「タカヤ、泊まっていくなら用意するけど?」
タカヤはもうこちらに実家が無い。父親の仕事の都合で引っ越して、ここから車で一時間の一番近い地方都市に親と住んでいる。
「もちろん」
タカヤはタクミの誘いに乗って、仲間外れは嫌だと隣に住むミイナまで泊まると言った。
ミイナの家のペンションの大きなお風呂を使わせてもらって、八畳のリビングにタカヤとタクミが寝て、アンが使っているタクミの部屋に、アンとミイナが寝る。
深夜になってもなかなか寝付けない二人は、またワインを持ち出す。
二階から女の子の笑い声がする。長い間この家に笑い声などした事があっただろうかとタクミは考えた。自分にとっては当たり前のような暮らしだったが、周りから見れば陰気な家だったのかもしれない。
「あっちは楽しそうだな」
タカヤが羨ましそうに天井を見上げる。
「こっちも楽しいだろ? 俺が相手だと不満か?」
すねた様にそう言ってみる。
「当たり前だ、バカか? ミイナとアンに挟まれて眠れるなら、絶対にそっちの方がいいに決まってるだろ? で、どうすんだ?」
「何?」
「アメリカ行きだよ。俺なら迷いなくアメリカに行くぜ」
タカヤはグラスのワインを飲み干した。
「何で?」
「情勢が不安定な軍事国家の日本よりはアメリカの方がいいって言ってんだよ。そうだろう? お前の親父もそれを考えたからアメリカに呼び寄せたんだと思うけど」
「ここいらはそんなに危なくないよ。東京とか一部の都市が危ないだけだろう?」
タクミはスティック状のきゅうりをかじる。
軍事政府に対する不満を持った者達が、デモを起こしたりするのを阻止するため、政府は少々行き過ぎた予防線を張っているせいで、誤認逮捕で拷問を受けるものが後を絶たない。
報道もネットも規制されている為、そんな事はニュースにはならず、たいていは噂話として聞くだけだ。二年前に大きなデモ組織が壊滅に追いやられて、沢山のメンバーが処刑されたとか銃殺されたとか噂が広がってから余計に都会は危なくなった。
危ないとは言っても政府の警戒のせいで犯罪に関係する事ではないのだが。所持品やメールや会話なども常に監視されていて、公道などで下手な事を言おうものならすぐに警察が飛んでくる。
「まだ、気持ちが固まらないんだ……」
タカヤのグラスにワインを注いでそう溢す。
「まあ……、家族がいないって言っても、友達も学校もバイトもあって、それを置いて行くんだからな、そりゃ簡単には決まらねえよ。全てが変わってしまうんだから。お前はゆっくり考えればいいよ」
グラスに口を付けたタカヤを見ながらタクミは考えた。
それが理由なのだろうか?
家族の都合で環境を変える事には慣れている。
大学もバイトも病状の悪化した母を想い、できるだけ近い場所を選んだだけで、たいした思い入れもなく、母の病状が悪化してからは特に友達付き合いも大してできなかったので、離れ難いような友達や彼女が居る訳でもない。
自分は何でこんなにココを離れたくないのだろう。
「やっぱさ……、一発殴ってくんねえか?」
そんな事を言うタカヤを睨み付ける。
「またその話ぶり返す気?」
「終わんねえんだ……。そうしないと、俺はお前と対等になれない……」
記憶の端に、緑のキャップをかぶった小さなタカヤが立ち尽くしていた。
いつかの記憶だ。あの時のタカヤは見た事が無い眼をしていた。
タクミは身震いした。何故か吐き気を感じる。
思い出したくない――
そう体が訴えている。そして、今も。
早くその話をやめたかった――
彼にとってアレが枷になっているというなら、幕を引いてやるのは自分なのかもしれないと思った。




