プロローグ
昔、昔――
湖に美しい水鳥が降り立ちました。
水鳥は湖のほとりに足を付けると美しい天女に姿を変えました。
そして纏っていた羽衣を木の枝に掛けると水浴びを始めたのです。
それを木の陰から漁夫が見ていて、美しい天女に恋をしました。
羽衣が、空を飛んで帰る為に必要だと気付いた漁夫は、天女の羽衣を隠してしまいました。
そうすればずっと一緒にいられると考えたから――
ずっと、ずっと――
緑深い――
大きな木の根元に彼はいた。
掌に息を吹きかけても、手の感覚は戻らなかった。
上手く握る事すらできない紫色の掌を見る。
もう、数時間前に歩くことは出来なくなっていた。
少年はズキズキ痛む足を恨めしそうに睨む。
夕飯後、外に出てはいけないと言われたのに、ルールを破り仲の良い五人で裏山の木に蜜を塗りに来た。
明日の朝、虫を取ろうと思ったからだ。
珍しい虫を手に入れて自慢したかった。
たったそれだけだ。
帰り際、谷の斜面に足を踏み入れ、滑り落ちてしまった。
真っ暗な中、二回に分けて川のせせらぎが聞こえるところまで落ちた後、痛い足を引きずりながら上に上がろうとしたが、辺りが暗くなり始めたので諦め、川の横を少し入ったところの木の陰で動けなくなって座り込んでいるのだ。
とにかく、時間が経つごとに驚く程寒い。
何時間経っただろうか、手や足先はもう寒さを感じなくなった代わりに感覚が失われた。
暗闇が怖いのは最初だけで、目が慣れれば、薄らぼんやり見える世界が恐ろしかった。
思考がぼやける。
もしかしたら死ぬかもしれない――
しかし、そんな事よりも、恐怖心が薄らいだことが嬉しかった。
木の葉が揺れる音も、とこかで聞こえる鳥の鳴き声も、もう、怖くはなかった。
不思議と、少し体の温度が戻ってきた気がした。
彼をいきなりの眠気が襲う。
眠ってはいけない様な気がした。
それでも、我慢できない――
少年は睡魔に任せて眼を閉じた。
その刹那。
ガサガサと草を鳴らして足音がした。
何か来る――
身体を強張らせて、身構えた彼の前に現れたのは女の人。
灯りが無い今はっきりとは分からないが、暗めの色の制服のようなワンピースを着て、立つその姿には見覚えがある。
少し前におばあちゃんの家の近くで見た、古いアンドロイドだ。
それと同型のモノだ。
少年も動いているのを見るのは初めてだった。
「あなたは今、危険な状態です」
彼女は抑揚のない声で少年の危機を伝える。
「私は、あなたを助けることが出来ます。私の指示に従ってください」
そう続けて、その言葉に頷いた少年に近寄る。
「著しい体温の低下を解消します。私に身体を預けてください」
そんな言葉と共に少年の横に座ったアンドロイドに、力の入らない身体を倒し、しがみつく様にすると、彼女の温度が少しずつ上がってゆく。
温かくて気持ちがいい。
ほっとした。その瞬間、はじけた様に気持ちが溢れだして涙が噴き出る。
「泣かないでください。エネルギーと水分が失われます」
抑揚のない声、真面目くさった顔でそう言われても、涙は止まらなかった。
ヒックヒックと喉が音を立てる。
彼女の顔を見上げる。
顎からのライン――
「あんまり見ないでください。見られるのは好きではありません――」
彼女は少し困ったように顔を背けた。
「ごめんなさい……」
「いいえ、謝らないでください。恥ずかしくなるだけなのです……」
そう恥らった姿はとてもかわいい。
少し落ち着くと、現実を確認するため、何か話したくてたまらなくなる。
抱きついたそのアンドロイドの、表情の掴めない横顔を眺めて少年は口を開く。
「君の名前は?」
恐る恐る聞いてみる。
「スマイルカンパニー製造、SF-07です、製造番号は……、データが破損している為、わかりません」
多分、購入者のデータを全て消してあるのだろう。
彼女は捨てられたアンドロイドなのだ。
それ位は少年にも理解できた。
TVのCMでもアンドロイドの不法投棄をやめる様に呼びかけているし、そんなニュースも見た事がある。
母親が言っていた、回収してもらうのにお金がかかるのだと。だからデータを消して捨てる輩が後を絶たない。
そんな事は分かっていたが、呼び名くらいは覚えているのではと思ったのだ。
「そうじゃなくて……、えっと、何て呼ばれていたの?」
「ルカと呼ばれていました」
やっぱり残っていた。
「ルカは、ずっとここにいるの?」
「主人の家に戻る為のデータが破損している為、帰ることが出来ません」
「何か覚えていることはないの?」
少年は何かできる事はないかと思った。
体を温めてくれた彼女の為に――
「覚えています」
「それを教えてよ、僕にも何かできるかも」
「できません。主人のプライバシーにかかわることは、あなたには話せません」
個人情報保護の為、個人データはあらかじめインプットしていない人には、話さないように作られている。
仕方がない。彼女はアンドロイドなのだから。
「ルカ? 少し話してもいい?」
「あなたが辛くなければ――」
誰かの声を聴いていたかった。
それが、たとえアンドロイドだとしても。
「あの……、手を繋いでほしいと言ったら……」
少年はそこまで言うと、俯いて口籠った。
「かまいませんよ――」
彼女の言葉に、少年はパッと表情を和らげた。
おずおずと差し出される少年の手を彼女は両手で握り締めた。
「私から、何か話しましょうか?」
初めて向けられた彼女の笑顔に少年は見惚れた。
ひとしきり話した後、彼女の膝で彼女の顔を見上げる。
この状況で、こんなに落ち着いていられるのは彼女のおかげだと思った。
少年は肩に置かれた彼女の右手を両手で握り締めた。
さっき自分がされたように。
「ルカ。ありがとう。一緒にいてくれるのがルカで良かった。ルカの手は優しくて気持ちいい――」
少年は笑顔を浮かべた。
ルカは一瞬困ったように少年を見た後、顔を背けて何も言わなかった。
一時間ほど、そうして彼女に温めて貰って、体の痺れが治まった頃、辺りが明るくなり始める。
足は動かすと酷く痛く、少年は立ちあがる事さえできない。
谷の傾斜を滑り落ちた時はまだ歩けたが、徐々に腫れ上がって動かなくなった。
「バッテリーの充電状況に余裕がないため、私があなたを背負って連れて行くことはできません。この付近の民家に助けを求めてきます」
彼女は、右手を肩からカチャリと音を立てて外した。
「これを置いて行きますので、暖を取ってください。私が帰る道しるべにもなりますので離さないでくださいね、温かさは一時間くらい持ちますから。ここから動かないでください」
一人になるのは嫌だったが、歩くことが出来ない以上、少年にどうこう言える事ではないと思った。
「早く、戻ってきてね」
「はい、必ず。必ず、戻ります」
その言葉の後、彼女の顔が近づいて柔らかい唇が少年の唇に当たった。
驚いて目を見開いた時彼女は立ち上がった。
「では、あとで会いましょう」
振り返って、少し微笑んでそう言った姿が、妙に人間らしく思えた。
だから信じることが出来たのかもしれない。
一時間経った頃だった。
沢山の足音と「おーい」と言う呼びかけで、助けが来たことを知った。
ルカが知らせてくれたのだと思った。
とにかく体力が限界で、大きな男の背中に背負われた瞬間に少年は意識を手放した。
それでもルカの右手をしっかりと握り締めて。
薄れゆく意識の中で、まだ温かいそれをちゃんと彼女に返して、ルカの事もちゃんとしてあげないと、と思った。
不思議と意識は去ろうとしているのに、ルカの笑顔が頭の中から消えない。
ちくりと痛い胸の奥――
もう一度会いたい。
そして、彼女の恥ずかしそうな笑顔を思い出した時の、心に走る甘い疼きの正体を知りたいと。