5、出会い
すでに四日目ともなると、ダニエラもすっかりこの研究室の一員のようだ。昨日嫌味を言ってきた女性研究員はしばらく長期の出張だそうで、もう顔を合わせることもないだろう。
ミゲルと、一番新米の研究員マルシアは、ダニエラにとても好意的で、必要なことがあれば何でも言ってほしいと申し出てくれた。ダニエラの熱心さに、ふたりは再びエストレーヤのカプセルを開ける許可を上層部に申請してくれたらしい。それでも許可が下りるには何日も掛かってしまうのだそうだが、ダニエラにはふたりの心遣いが嬉しかった。
環境が落ち着けば、エストレーヤの『声』も感じ取りやすくなるような気がする。残りの十日余りをただひたすらエストレーヤとの対話に集中しようとダニエラは心に決めた。
今日もまた、レポート用紙を準備すると、ガラス窓の向こうのエストレーヤに呼びかける。時の概念がない死者に挨拶の必要があるのかは知らないが、ダニエラがここに来たという合図を送るためだ。
「おはよう、エストレーヤ。昨日の話の続きを聞かせてくれる?」
本当は早くその先を聞きたくて仕方ないのだが、そう落ち着いて告げることでエストレーヤの話し出すタイミングを待つことができる。案の定、エストレーヤはすぐには答えてくれなかった。
静かに目を閉じて待つダニエラの脳裏に『声』はなかなか聞こえてこなった。しかしその代わりに瞼の向こうで何度かフラッシュが焚かれたような感覚を覚えた。
瞼をそっと開いてみるとダニエラは宙に浮かんでいて、足元には色鮮やかな花が散らばる石畳が見えていた。眩暈を感じて再び瞼を瞑る。しかしダニエラの周りには研究室の中の空気とは異なる暖かな微風が吹いていた。
「もしかして、これはエストレーヤの記憶なの?」
エストレーヤは答えなかったが、ダニエラは確信を得ていた。ダニエラはエストレーヤの記憶の中に居るのだ。
再び眼を開けて、足元に広がる光景をよく観察した。
石畳に散らばる鮮やかな赤色と生成りの白色の小さな花は、ダニエラの周りから落ちたもののようだ。ダニエラは宙に浮かんでいるのではなく、細くしなやかな枝の上に座っているのだ。枝には釣り鐘状の小さな赤い花がたくさん下がっていて、それらがときどきぽろんぽろんと石畳に落ちるのだった。
彼女の居る枝の下には四角い石の桶があり、中から澄んだ水が盛んに溢れ出て周りを囲う池の中に流れ落ちていく。その石桶を挟んで反対側にも同じような高さの木が生えていて、それには同じ釣り鐘状の白い花が満開になっていた。
「なんて、きれいなの」
ダニエラはうっとりとその光景を見つめる。しかし同時にひどい退屈も感じた。
―― 毎日毎日、この景色を眺めて過ごすばかり……。いつになったら此処から出られるの? ――
ダニエラはそれがエストレーヤの心の中の呟きであることが分かった。数百年前、エストレーヤはこの景色を眺めてそう感じていた。それをリアルタイムで経験しているわけだ。
ダニエラの感覚は最高潮の興奮を覚えている。しかしエストレーヤの感覚は見飽きた景色にうんざりとし、将来への絶望を感じていた。
気だるそうに枝と花の間から覗いている空の深い青を眺め、溜息を吐いて視線を下に移すと、エストレーヤの眼にも意外なものが映り込んできた。
小さな男の子。エストレーヤより少し年下と思われる。
アクリャワシには、例え子どもであっても男性はいない。いないどころか神官以外の男性の出入りは固く禁じられているはずだ。厳しい許可を得て仕事として出入りする男性は稀に見るが、必ず大人である。小さな男の子が此処に入ってくる理由などない。そして許可を得ずに立ち入った者には、例え子どもであっても厳しい処罰が与えられるのだ。
エストレーヤが此処に来たとき、ママコーナにまず教わったことだ。男性が立ち入ることも許されないが、アクリャが外へ出て男性と関わることも禁じられていると。
その男の子を目にして、エストレーヤはまず『恐怖』を感じた。彼がどうして此処にいるのか知らないが、言葉を交わせばそれだけで処罰されるのが分かっている。音を立てて気付かれないように、そっと身体を強張らせる。
眺めているとその少年は、不安気な様子で辺りを見回した。誰かいないかとしばらく辺りを探し回ったあと、またこちらの方へ歩いてきた。
それから涼しげな水音を立てている石桶の泉に気を取られて、そこに立ち尽くして動かなくなった。
―― 早く逃げなさいよ! そうじゃないと、誰かに捕まって罰を受けることになるわよ! ――
エストレーヤは焦って苛々とし始めた。幸いエストレーヤの居る場所は、アクリャワシの主要な建物からは死角になっていて滅多に人が通ることはないが ―― だからこそエストレーヤの格好の隠れ場所ではあるのだが ―― その時に限って誰かがやってくるのではないかと不安は膨らんでいく。
自分が関わらなければいいのだが、それであの幼い少年を見殺しにするのには耐えられなかった。
覚悟を決めて、エストレーヤは縮めていた背筋を伸ばし、声を張り上げた。
「ちょっと、あんた。ここで何やってんの?」
いきなり声を掛けられて、少年は目を真ん丸にしてエストレーヤを見つめた。あまりにも驚いてすぐには口がきけないらしい。固まってしまった少年に、エストレーヤは早く何とかしなくてはと焦った。木の枝から軽やかに飛び降りて少年の前に立つと、人差し指を突き付けて尋問する。
「ここで何やってんのかって聞いてるのよ!」
すると少年は、しどろもどろになりながらもようやく口を開いた。
「と……友だちに見つからないように、……隠れる場所を探していたんだ……」
アクリャワシで男の子がかくれんぼ? 少年はここがアクリャワシとは知らないのだろうか。それとも入ってはいけないとは思わずにアクリャワシで遊んでいたのだろうか?
けれどいったいどこに外から入れる場所があるのだろう。
エストレーヤは興味を持ったが、それ以上に間抜けな少年に呆れていた。そこで少年をからかうように意地悪を言ってみた。
「いじめられてるの?」
すると今までおどおどとしていた少年が急にムキになって答えた。
「そういうわけじゃない! 遊んでいただけだ!」
今にも捕まって酷い目に遭うかもしれないというのに、見当違いの意地を張っている少年に、エストレーヤは腹が立った。
「何ムキになってんの? ばっかみたい! そんな理由なんてどうでもいいのよ! ここはね、よそ者が入って来られる場所じゃないの! 見つかったらコレよ!」
出来るだけ怖い顔を作って、手で首を切る真似をして見せる。少年に事の重大さを分からせなくてはならない。
それを見て少年は一瞬驚いた顔になったが、すぐに強気に戻って言った。
「ぼくは宮殿に住んでいるんだ。よそ者じゃない!」
ますます訳のわからないことを主張する少年に、エストレーヤははっきりと告げた。
「宮殿の人間だからって、男は入っちゃいけないのよ! ここはアクリャワシだから!」
少年は再び押し黙った。これだけ脅せばさっさと逃げ帰るに違いない。エストレーヤはようやく安心出来ると思った。落ち着いているようで、掌は汗でぐっしょり濡れていた。
しかしエストレーヤの心配を他所に、少年は尚も意地になって言った。
「ぼくは宮殿でかくれんぼをしていたんだ。アクリャワシに来られるわけがないじゃないか。ここは宮殿の中だ」
少年の言い分にエストレーヤは、怒りを通り越して思わず笑い出した。
「宮殿の裏からいつの間にか外に出て、この館の裏に入り込んだんでしょうよ。自分でどこに居るのか分からないなんて、間抜けねえ!」
いくら言い聞かせても分からなかった少年は、ようやく自分の置かれた状況を理解した。すると途端に真っ青な顔をしてぶるぶると身体を震わせ始めたのだ。脅しが過ぎたのかもしれないと、エストレーヤは今度は柔らかい声で話しかけた。
「いやだ、本当に知らなかったのね」
弟のような少年に優しくしなければと思いつつも、あまりにも変化の激しい少年の様子が可笑しくなり、つい口の端に笑いが出てしまう。何とか堪えて慰めを言ってみる。
「大丈夫よ。今はお勤めの時間だから、みんな神殿でお祈りしているの。言う通りにしていれば、黙っててあげるわ」
少年が縋るような目を上げたとき、エストレーヤは思わず好奇心を押さえきれなくなった。
「ねえ、あんたが入ってきた裏道をあたしに教えて頂戴!」