19、未来
―― 王の断食が終わるまで、あたしたちには久しぶりに何もない時間が出来た。神殿に集まることもなく、アクリャワシの仕事をすることもない。あたしは以前のように、中庭の木の上でぼんやり時間を過ごしていたわ。
中庭の木には、もう新しい花の蕾が膨らんできていた。その花が、あたしたちを象徴する『カントゥータ』という花だということは、ママコーナの噂話で知ったわ。
ああ、そうか。あたしたちが天に還るときに向けて花を咲かせようとしているのね、なんて、ちょっと感慨深いものがあった ――
呑気に話すエストレーヤに、ダニエラはずっと気になっていたことを訊いた。
―― ユタのことはどうなったの? ――
―― なんかね。折角気持ちが割り切れているのに、また会ってしまうのが怖かったの。それに、あたしがカパコチャであることを知ったユタが、あたしによそよそしくする姿を見たくなかった。
だから、会いに行くのをためらったわ ――
何かを思い出して、エストレーヤはふふと小さく笑い、また続けた。
―― ある日、木の上でうとうととしていたら、下から誰かに呼ばれた。見下ろすとクワンチャイが立っていたの。クワンチャイが中庭に来ることなど今まで無かったから、あたしを探して来たんだって、分かったわ。
クワンチャイは、ちょっと話がしたいわ、とだけ言って、踵を返した。あたしは急いで木から飛び降りて、彼女の後に付いて行った………… ――
クワンチャイの後に付いて行くと、彼女は自分の部屋に入って行った。
ほとんど何もない部屋の真ん中に大きな機織り機が置かれている。色鮮やかな模様の描かれた布が織りかけたままだった。エストレーヤはほぼ一日、することもなくぼんやりとしているというのに、クワンチャイは、こんな時でさえ働いていることを知って、恥ずかしくなった。
「狭いけど、そこに座って」
クワンチャイは、自分で織ったのだろう美しい模様の入った敷物を指して言った。エストレーヤが遠慮がちに腰を下ろすのを見届けて、自分は向かい合うように座った。
クワンチャイから呼ばれたというのに、彼女と正面で向き合った途端、エストレーヤの方から思わず声を掛けていた。
「クワンチャイは、ここでユタに会ったの?」
一瞬驚いた表情を見せたが、クワンチャイはすぐににっこりと笑顔をつくって答えた。
「そう。会ったわ。あなたにそれを訊きたかったの」
「訊く? 訊くって何を? クワンチャイはあたしがふつうのアクリャでは無いことをユタに話したんでしょう?」
「ほかのアクリャとお仕事は違うという話はしたわ。でもユタにはどういうことか分からなかったと思うわ」
「じゃあ、何を話したの?」
エストレーヤの口調が強くなったのを感じて、クワンチャイは敢えて落ち着いた口調で言った。
「ピウラは、ユタのようなお友達がいて、うらやましいわって。だって、ユタに服を貸してあげるなんて、よっぽどのことだったんでしょう? それだけお互いに大切に思っているということでしょう?
私はね、本当に小さい時にここへ連れて来られたから、故郷の家族や友達のことはあまり覚えていないの。アクリャワシでも、私はほとんど習うことなく織物が出来るようになったから、こうして自分の部屋で機を織るようになったわ。私は機を織る仕事だけしていればよかったから、ほかのアクリャたちと交わることも無かった。機織りの練習や、酒造りの帰りに賑やかなおしゃべりが聞こえるとうらやましかったものだわ。
今になってみると、そうして人と深く関わる機会が少なかったのは幸いだったと思うけど、やっぱり寂しいものよ。天に還れば、そんな気持ちも要らないんでしょうけど。
ただ、ね。友達ってどんなものか、知りたかったの。誰かの心に、少しでも私のことがあったらいいなと憧れるのよ。
だからユタに、『私のこと覚えておいてくれる?』って訊いたの。ユタは忘れないって言ってくれたわ。ピウラには敵わないでしょうけど」
それを聞いてエストレーヤは恥ずかしくなった。クワンチャイが自分の正体をユタに告げて、ふたりの仲を壊そうとしていたように思っていたのが正直なところだ。けれど、クワンチャイは純粋に友達に憧れていただけだった。
「敵わなくなんて、ないわ。だって、あたしのことだって、ユタはすぐに忘れちゃうに決まっているもの」
「そうかしら? そんなことはないと思うわ。あなたの名前、姿、しぐさ、声、そんな細かいことは覚えていられなかったとしても、あなたと出会ったことが、彼の人生を大きく変えるから」
「…………どういうこと? クワンチャイはユタの未来を視たの?」
「ええ、視たわ」
「どうやって?」
パリャックが、オマの未来が視えるようになると言っていたが、エストレーヤには未だにその感覚が分からなかった。クワンチャイはすでにそれが出来るということなのだ。
「ピウラも知りたい?」
「もちろんよ!」
「わかったわ。手伝ってあげる。ピウラも彼の未来の姿を視てみるといいわ」
そう言って、クワンチャイは腕を大きく広げた。クワンチャイの腕に掛かっている肩掛けごと、エストレーヤの身体をふわりと包み込む。目の前にクワンチャイの胸元が近づきエストレーヤの顔に押し当てられた。トクトクと、クワンチャイの心臓の鼓動が伝わってきた。胸を伝ってクワンチャイの声が響く。
「ユタのことを思い出して。彼の将来を強く想うのよ」
クワンチャイの腕に抱えられたまま、エストレーヤの身体が空高く舞い上がった気がした。
そのまま風に乗って浮遊し、今度は頭を下にして下界を見下ろす。たくさんの人々が生活する様子が俯瞰できた。
エストレーヤはそこで強く願った。『ユタの姿が見たい』
すると身体は急降下を始め、限りなく下界に近づいていった。
たくさんの人々が汗を流して働いている。誰も身体の大きな男性ばかりだ。大勢が大きな石を切り出すため、盛んに斧や鉈や鉄鉱石を振るっている。切り出した石にロープを結わえ付けて、また大勢の人が引いていく。石が運ばれた先には建設途中の段々畑と、畑に水を引くための大きな水路があった。
彼らは山の斜面に広大な畑を築いているところだった。
大変な労働にもかかわらず、男たちは陽気に歌を歌い、笑い合っている。汗と埃を体中にまとった彼らはお世辞にもきれいとは言えないが、皆活き活きとして爽快だ。
―― ねえ、クワンチャイ。私はユタに会いに来たのよ。こんな建設現場を見たいわけじゃないわ ――
―― ユタのことをもっと強く想って。そしてよく目を凝らして ――
エストレーヤたちは建設現場のすぐ上を飛び回る。下のほうから積み上げるように築かれた段々畑の、これから均されようとしている頂上付近に、ひとりの青年の姿が見えた。労働者たちと変わらぬ粗末な服に身を包んで、鍬を地面に打ち付けていた。粗末な身なりではあるが、明らかにほかの労働者とは異なる雰囲気があった。
青年に近づいて、うつむいているその顔に注目する。ふと手を休めて青年が顔を上げたとき、エストレーヤには分かった。
―― ユタ! ――
その顔は、幼いユタの面影をそのままに、精悍さを加えた男性のものだった。
凛々しさと知性を感じさせるその面持ちは、王の風格を漂わせているものの、彼のいでたちはどこから見てもただの労働者だった。
―― ユタは王子ではなくなってしまったの? ――
王族がその地位を追われるということは、他の国に支配されて失脚したということだ。ユタは奴隷に身を堕としてしまったのだろうか。
心配そうに見つめるエストレーヤの目の前を横切り、数人の男たちがユタに駆け寄っていった。
「カパックさま! 新しく切り出した石を頂上に上げる準備が整いました」
すると青年ユタは、背筋を伸ばして彼らに告げた。
「よし。全員配置に付くよう申し伝えろ」
「はっ!」と一斉に威勢の良い返事をして、屈強な男たちがユタに頭を下げ、舞い戻っていった。
またすぐにユタの周りに何人もの男たちが寄ってきて、彼の指示を仰いでいる。ユタは次々と身振り手振りを交えてそれに答えていた。
―― 王…… ――
エストレーヤの呟きに、クワンチャイが答えた。
―― 正確には、彼は王では無いわ。彼に与えられた『名』よ。でもその名を名乗れるのは、それに相応しい者だけ。特にここでは、彼がこの多くの労働者を従えている王なの ――
労働者たちを従えているというよりも、ユタが労働者たちに敬愛されているのが伝わってきた。次々とやってくる労働者たちが皆笑顔になって彼の指示に従っている。
やがて彼の一声で、巨大な石が丘の上へとゆっくりと滑るように上りだした。一瞬でも判断を誤れば命が危険に晒されるかもしれない過酷な労働にもかかわらず、彼らの顔が皆、活き活きと輝いているのが印象的だ。
頂上で彼らの安全を見守る王を絶対的に信頼しているのだ。
―― でも何故、こんな場所に居るの? ――
エストレーヤが疑問に思うと、クワンチャイはエストレーヤを抱えたまま、ユタの背後に回り、背中に手を伸ばした。ユタの心が、クワンチャイの身体を通してエストレーヤに伝わってきた。
―― 何としてでもこの工事を成功させて、干ばつに苦しむ民を救わなければ ――
クワンチャイの胸に身体を預けていたエストレーヤが、さっと身を引いてクワンチャイを見上げた。
―― 民を救うために? ――
―― そうよ。彼はどんなに貧しい人々でも、辺境の人々でも、救いの手を差し伸べたいと願っているの。そしてそれをただ命じるだけでなく、自ら出向いてその手を汚してでも、実現させているのよ ――
―― ユタは、本当の王なのね ――
―― そう。何故ユタがこんなことをやっているか、察することができる? ――
―― もともと優しい子だから…… ――
―― 優しさだけでは動けないわ。ピウラ、あなたの存在が彼に力を与えるのよ ――
途端にすべての景色が勢いよく流れていき、二人の意識はクワンチャイの部屋に戻っていた。
エストレーヤはクワンチャイの腕の中で目を閉じたまま、涙を流していた。
―― ユタはあなたの使命を知って、いろんなことを考えるでしょう。それが彼を変えていくことになるの。彼にきちんとお別れをして、ピウラ。それが彼のためでもあるのよ。
私たちには本来、感情は無いわ。だから今だけ、こうして喜んだり悲しんだりできる。でもきっと、宙に還っても、この想いは残り続ける。そして、この世で触れ合った人々の心に、私たちの面影を残すことが出来る。
そう信じましょう ――
エストレーヤは小さく頷いた。