18、大いなる水
―― 大神官のお説教はひと通り済んだわ ――
ここしばらく、直接ダニエラに語りかけることのなかったエストレーヤが、突然呼びかけた。
ダニエラがそれに答えるのを待たずに、エストレーヤは続ける。
―― けれど、そのあとも私たちの瞑想は続いた。正確には、私たちが自力で大いなる力を完全に目覚めさせて、王に伝える言葉を見つけ出さなくてはならないと、自ら進んで訓練をしていたと言えるわね。
自分たちで同じ時間に神殿へ集まり、ママコーナに頼んで、香とアハを用意してもらった。
大神官のやっていたことを見よう見真似でやってみたわ。
もうだいぶ記憶は蘇ってきていたから、私たちはただ瞑想していれば良かった。それだけで、次々と忘れていたことを思い起こすことが出来たの。
過去の記憶がそろえば、未来も見えるはず。未来が見えれば、王へ何を伝えればいいのかも分かるはずだから…… ――
再びエストレーヤの記憶の中に引き込まれていったダニエラは、甘い香りとアハの酩酊の中でエストレーヤの意識が遡っていくのを感じた。
ピウラという少女の身体を抜け、天空から見つめる人の世界で、嘆き悲しみ、怒り狂い、絶望に打ちひしがれる多くの人間の姿を目撃する。
彼らに同情は感じずとも、異常な事態であることは分かる。そして誰もが自分に無力さを感じていることも。
ついこの間まで、多くの人が手に手を取り、楽しげに活気に満ちて生きていたのに、何故彼らはその手を離し、時に相手を突き放し、自分の頭を抱えて蹲っているのだろう。
あるいはその手で相手を傷つけるのだろう。相手の命を奪うのだろう。
けれどエストレーヤは知っている。
それが人というものなのだ。人は、彼らがずっとずっとそうしてきたことを知らない。優しく手を取り合っていても、その手で人を殺めることがあるという危うさを抱えていることを。しかし、同じ手でまた誰かと手を取り合えることも。
それらが常に繰り返されてきたことを。
彼らがそういう存在であることを知らせなくては。彼らが人の手を離して絶望していたとしても、その手でまた誰かの手を取ることが出来るのだと教えてあげなくては。
お互いに傷つけ合い、殺め合い、彼らの命が減ってしまう前に。
エストレーヤはその意識のまま、今度は今居る世界を振り返る。
災害を受けたことにより、荒んでいく市井の人々の心。国は終わりの見えない戦いに翻弄され、人々を救う手立てを見つけることすら出来ない。
二つの濁流が作り出した大きな渦に抗うには、その中心に居る王が強くあらねばならない。しかしその王も、感情に翻弄されるひとりの人に過ぎない。
数日間、三人だけの瞑想は続けられた。
ようやく三人の想いがひとつにまとまろうとした時、神殿に大神官が姿を現した。
前回会った最後のお説教の日からそう日数が経っていないのに、大神官はすっかりやつれたようだった。今日、三人から返事が得られなければ、彼の気力が持つのか心配なほどだ。
―― 答えはほぼ、見つかりました…… ――
大神官の身体を慮り、彼が何かを訊く前に、クワンチャイが話し始めた。大神官の不安気な瞳が、安堵の色を帯びた。
―― 私たちは、ひとりの人が生まれて死ぬまでの期間など、一呼吸の間に過ぎないと思えるほど永いこと、人の世を見続けてきました。このような事も、これ以上に苦しむ人々の事も、知っています。そしてまた、それが元に戻るさまも。
私たちの記憶の中に、あなたたちが生き抜くための方策があるのなら、探ってみましょう ――
大神官はクワンチャイから目を離さずに、その前にゆっくりと膝をつき、すがるように彼女を見上げる形になった。
クワンチャイはさらに続けた。
―― しかし、それを活かすのは、他ならぬ人、あなたたちでしかありません。
私たちが伝える事を、どうか大いに活かしていただけますよう。
ただし、私たちが伝える事が出来るのは、一度のみ。それを活かせる力のある人物、あなたたちの王に対してのみ。
そして、私たちはそれを伝え終えた後、ここに留まることはできません。全ての記憶を取り戻したあと、人の世界で生きることは耐え難い苦痛になるからです。
あなたたちには、私たちが還る手助けをしていただかなければなりません ――
クワンチャイの言葉は、パリャックもエストレーヤも抱いていた想いだ。二人もそれに深く頷いた。
大神官は最敬礼をするように両拳を床に置いて頭を深く垂れた。
―― はい。我が王はこれより、あなた方のお知恵を清い心で受け取れるよう、七日の断食に入ります。八日目になりましたら、こちらで直にお知恵を授けていただけますよう、何卒、よろしくお願い申し上げます。
そして、あなた方を送り届ける役目は、私と神殿の者たちが賜ります。
この大地の中でも特に天に近い場所、あなた方に相応しい神の山の頂上まで責任をもってお連れ致します ――
そう告げると、大神官はその身をさらに低くした。
その時エストレーヤには、少女ピウラの迷いも、遠い物となっていた。
天には巨大な流れがある。澄んだ水に星々の光を美しく反射して悠々と流れていく。溢れるほどの水を常に湛えながら、決して淀むことも、氾濫することもない。そして悠久の時を経てもその形が変わることはない。
普遍の水は雨となって大地へと降り注ぎ、地上のあらゆる生き物の命の元となる。天の流れは地上で多くの命を芽生えさせ、そして育む。命の中に流れ入った水がその体内を流れやがて外へ出る。地上を潤した水は、命から流れ出た水と共に、地表を巡る。
やがて太陽の光がそれらを蒸気に換え、天へと再び還すのだ。
変わらぬ天の流れと、目まぐるしく変わる地の流れ。
それらが常に巡ることによって、世界は安定を保つ。
しかし、地の流れはしばしば滞り、淀み、あるいは逆行し、時に氾濫する。
その乱れた流れをただすのは、天の一定の条理を識るもの……。
淀んだり、荒れ狂ったりする流れに、ひとしずくの清い水を差し入れるもの。
天から、もたらされた『 大いなる 水』
―― カパコチャとは、そういう意味だったのね ――
ダニエラは思わず心の中で叫び声を上げた。するとエストレーヤがくすくすと笑うように答えた。
―― あたしたちには、名前も名称も無いわ。あたしの生きていた国ではそういう風に考えられていたというだけのこと。大神官が語ったことは、あくまであの国の人々が見聞きしてきたことを語り合い、そういう考え方になったというだけのことなの。
ダニエラの国では『天使』とでも呼ぶのかしら?
けれど、あの国ではそうやって、あたしたちの存在を崇めていた。あたしたちが地上に降りてきた意味もだいたい分かっていたわ。だから、あたしたちの言葉を受け取る準備も、あたしたちを再び天に還す方法も知っていたの。
だからこそあたしたちは、あの国の王に、淀んだ流れを正す方法を伝えることが出来たんだと思うわ ――