16、災害と戦争 ⑴
ーー 大丈夫? ーー
深く項垂れているエストレーヤに、パリャックが問いかけてきた。
その『声』で、はっと我に返り、身体を起こして正面を向くと、大神官と目が合った。
「どうしましたか?」
「いいえ。何でもありません」
「随分とお疲れのご様子。今日のお説教はお休みにして、明日にしましょうか?」
「大丈夫です」
言いながらも、蒼ざめた顔のエストレーヤに、大神官は心配そうに近づいてきて、静かに語り掛けた。
他の二人にも聞こえるように、心の声で。
ーー 今日のお説教は、少々聞くのが辛いでしょう。あまり体調が優れないようなら、無理はしないほうがよろしい。まだ時間はありますゆえ ーー
エストレーヤだけでなく、他の二人の緊張も伝わってきた。けれど一番懸念されるのはエストレーヤの体調だ。二人は同時にエストレーヤの方を向いてその様子を伺った。
クワンチャイの顔がこちらを向いた時、エストレーヤは何とも嫌な気分がした。彼女がユタに何を話したのか、本当はそれが一番の悩みだ。けれどそれを聞く勇気はない。
もう、クワンチャイが何を話していようと、ユタには会えない。覚悟を決めて、自分の使命を全うすることだけ考えればいいのだ。
ーー 私は大丈夫です。他のふたりが良ければ、先へ進めてください ーー
大人びた言い方でエストレーヤは冷静に大神官に告げた。
大神官はエストレーヤの顔を見ながらゆっくりと頷き、月の神像の前に設えられた祭壇から、ひとりひとりにお椀を運んできた。中には乳白色の飲み物が入っていた。
ーー 本日から数日を掛けて、あなた方のお力をお借りしたい二つの事柄についてお話したいと思います。
いま、我々はどのようにしてこの不幸を乗り越えたら良いのか、途方に暮れております。先ずはその事実を知っていただきましょう。
心を清め、穏やかに聴いていただけるよう、聖酒を用意いたしました ーー
大神官に促されて、三人はお椀の飲み物に口を付けた。大神官の館の晩餐でも供されるトウモロコシ酒の味には慣れてきたはずだが、その時のエストレーヤには、アルコールの刺激ばかりがきつく感じられた。
しかしアハを飲み終えてしばらくすると、これまでユタやクワンチャイに抱いていた疑念やら怒りやらが不思議と薄らいでいった。
何の感情もなく大気の中を漂っていたあの頃、自分はこんな風に淡々と世界を見つめていた。エストレーヤの心は生まれる前の感性を取り戻したかのようだった。
三人がその感性を取り戻した様子を見極めて、大神官は語り始めた。
ーー 北の地に聳える神の山の麓に、ひとつの豊かな村があった。アプーの恩恵に依り、澄んだ水が湧き、多種の作物が実り、家畜は肥え、風光明媚。人々の心も豊かな村だった。
しかし、アプーは突然、煙と炎を吐き出した。
これまでアプーの恩恵で生きていた人々はそれを断たれ、それ以上の試練を与えられることとなる。
幸い煙と炎で直接人の命が奪われることはなかったが、水は濁ってやがて渇れ、作物は壊滅し、そこに降り積もった灰のせいで二度と何も育たない土地となった。家畜は飢えて死に、その光景は地獄と化した ーー
大神官の語りが進むにつれ、エストレーヤの脳裏に、手を伸ばせば触れらるかと思うほど鮮明な場景が浮かんできた。エストレーヤの中に潜在する力が、観ていなくても感じ取ることを可能にする。
彼女は荒廃した大地に立っていた。
仲間たちは皆灰にまみれ、輝きを失った瞳は虚空を見つめている。目についた僅かな荷物を背負って都を目指す。遥か地平まで続く道の先に、果たして生き残る場所が存在するかなど、判る者はいなかった。
ただ、ただ、一本道を辿って歩くこと、何日掛かっただろうか。ようやく彼らの目に、かつての故郷のような、いやそれなど比較にもならないほどの豊かさで溢れた街が現れた。
彼らは歓喜する。生きる場所を再び取り戻すことが出来たのだと。いや、苦難に打ち勝って、神は故郷よりも豊かに暮らせるこの場所を用意してくださったのだと。
神の山が彼らにさらなる恩恵を与えるために、ここへ行けと教えてくださったのだと、感謝する者さえいた。
しかし、それが短慮に過ぎなかったことに、彼らが気付くにはそう時間を要さなかった。
ほとんど身ひとつで移住してきた彼らには、街の住人の邪魔にならない程度の限られた居住地が与えられた。広大な土地で自由に暮らしていた彼らにとって、制約のある場所で生活しなければならない苦痛は何物にも代え難い。
さらに、これまでは、働いた分その何倍もの実りを得られて、満ち足りた生活だったものが、働く場所もなく、ただ配給される僅かな食糧を食べて暮らすしかなくなった。
配給される食糧も、彼らに活力を与えるには十分なものではない。
初めは誰も、それでも生きていられるだけで有難いと思おうとしたが、その暮らしが永遠に続くように思われてから、耐え切れずに不満を爆発させる者が出始めた。
街へ行っては盗みを働き、あるいは暴力で奪い取る。食べ物の不満だけでなく、虐げられた生活の鬱憤を晴らすように犯罪を犯す者まで出始めた。
やがて街の人の疑念は、真面目に謙虚に暮らす仲間にも向けられるようになる。
謂れのない差別の矛先は、自然と弱者が被るようになっていった。
仲間うちの混乱には収まらず、街中の人々を巻き込んで、不満と嫉妬と憎悪と怒りが蔓延していく…………。
ーー なんて愚かなの! ーー
エストレーヤが大きな溜め息を吐いて、瞑想の世界から一旦意識を戻すと、他の二人も疲れた表情をして正面を見つめていた。
アクリャワシの中や宮殿の中の、守られた世界しか知らない三人は、今もこの建物のすぐ傍で、それらに翻弄されている人々が居ることが信じられない。
しかし人々の想念は、三人の感情の中に容赦なく入り込んでくる。
アハを口にしていなければ、三人はお互いを疑い、罵り合い、憎悪を剥き出しにしていたかもしれない。
アハによる軽い酩酊が、かろうじて彼らに、かつて居た高い位置で俯瞰している意識を保たさせていたのだ。
ーー 人々は、愚かだと気付いていながら、それを止めることが出来ない。誰もが苦しみの泥沼から逃れようともがけば、泥は余計に柔らかくなり、人々を悉く飲み込んでいく…… ーー
大神官の呟きに、クワンチャイの声が応えた。
ーー それを救う方法を知るのは、古来からあらゆる人々の動きを見つめ続けてきた私たち
…… ーー
ーー これだけに留まりません。我々は、さらに大きな試練を与えられているのです。
それをお話するのは、また明日にいたしましょう ーー
いくら感情に翻弄されずに居るとはいえ、エストレーヤの神経の何処かに大きな負担が掛かったのは確かだ。
アハの酔いか、聞かされた事実の衝撃か分からないが、お説教が終わると同時にエストレーヤの意識は遠のいた。
数人のママコーナが呼ばれ、彼女の身体を抱えると、アクリャワシへと運んでいった。