15、覚悟
オマが部屋を出ていくと、エストレーヤはパリャックに早速訊いた。
―― 守り神の力ってどういうこと? 呪術師になるって? ――
守り神というのは、街や村や、人が集まって暮らすところには必ず祀られている神さまのことだ。エストレーヤの村でも、大きな木が守り神として祀られ、崇められていた。たいていは岩や石や木や花といった、自然の物がワカとされている。
パリャックのように人間がワカとして崇められているなど、エストレーヤは聞いたことが無かった。
―― ぼくには音を聴く力が無い。その代り、感じ取る力が鋭いんだ。だから病気やケガをした人の身体に触れて、一番悪いところを感じ取れる。そこを指し示してあげると治療師や呪術師がどこを診ればいいのかが分かって、早く治るんだ。
そういう普通とは違う身体や能力を持った人たちのことを守り神と呼ぶこともあるんだよ。
神殿でのお説教をオマに説明するのは難しいから、ワカの力をもっと強めて呪術師になる修業をしているんだと言ってある。
でも安心して。ピウラはほかのお勉強をするためにお説教を受けているんだと言っておいたから ――
しかしエストレーヤには、彼女が神殿で勉強をしていることをまるで自分の自慢のように触れ回るオマの姿が想像できて、すんなり安心できるものではなかった。
替わって今度はパリャックがエストレーヤに問いかけてきた。
―― ピウラ、ぼくたちの使命というのは、もう分かっているよね ――
―― たぶん、だいたい。
あたしたちには、生まれる前から人の世界を違う場所から見ていた記憶がある。そして、生まれた後の記憶も大神官さまに教えてもらったわ。何かその記憶を世の中に活かしていかなくてはいけないということでしょ ――
―― まあ、そういうことだね。これから、今起きていることも教えてもらうのだと思う。そしてきっとぼくたちの記憶の中に、今起きていることと、これから先起きることに、どう向き合えばいいのかというヒントが隠されているのだと思う。大神官さまは、それを知りたいんだよ ――
―― そんな大事なこと、あたしたちに出来るの? ――
―― ぼくたちにしか、出来ないんだよ ――
エストレーヤは胃の辺りに鈍い痛みを感じた。
確かに大神官は、お説教が進むに連れて三人の子どもたちに目上の者に相対しているような慇懃な態度で接するようになっていた。自分たちが、神に仕える神官の中でも最も位の高い大神官でさえ、敬意を払わなくてはいけない存在になっていく、つまり神に近い存在とみなされているということなのだろうか。
ただ記憶が蘇ってくるにつれ、自分が人間というものを高い位置で常に眺め続けていたという感覚をも取り戻しつつあった。人を超越した存在であったことを……。
―― ぼくたちはやがて、自分の本当の存在に気付く。けれどその存在に気付いたら、どうなると思う? ――
―― どうなるって? ――
―― ぼくたちはこのまま、変わらずに暮らしていけると思う? ――
大神官でさえ及ばない大きな力に気付いてしまったら。人の世のすべてを知る存在になってしまったら……。
―― …………きっと、何も知らない振りをして、心から楽しく遊んだり、明日起きることにどきどきしたり、誰と出会うかわくわくしたり……出来なくなるわ ――
―― そう。ぼくたちは、ここに居るのが辛くなってしまう。
おそらく人の世界を見下ろしていたときには、そういう感情は知らなかったんだ。人の世界で楽しいことがあっても、喜ぶことがあっても、哀しいことがあっても、恐ろしいことがあっても、何も感じない。ただ見つめているだけの存在だった。
だからその記憶は何にも邪魔されることなく鮮明に残っている。
けれど、人として生を受けた途端、それらの感情を持つようになったんだ ――
―― だったらなぜ、あたしたちは生まれてきたの? ――
―― ぼくの記憶の中に、感情はないはずなのに、人の中に混じってみたいなという憧れがあったことは覚えている。それに、大勢の人が苦しんでいる姿を見て、何かを伝えてあげなくてはと焦っていたことも ――
エストレーヤの記憶の中にも、それと似たようなものがあったことに気付く。
―― あたしたちは、自分で望んで生まれてきたということ? ――
パリャックは頷いた。
―― ぼくたちは、人が苦しむ様を見て耐えきれず、大いなる知恵を授けに来た。だから役目を果たしたら、また還っていくんだよ ――
―― そんな! あたし、自分が望んだなんて、忘れたわ! 記憶なんて取り戻さなくていい。このままここに居たい! ――
―― きっとそれは、大切な人が居るからさ。
ぼくもそう思った。ぼくは弟が大事だ。弟の傍に居たい。でも考えたんだ。例えここに居て成長したとしても、弟とずっと一緒に居られるわけじゃないんだ。今の今だけ、一緒に居たいのは弟だと思ってるんだ。ぼくが世界を見続けてきた長い長い時間の中では、瞬き一つの間でもない ――
―― だったら、このまま大きくなって年を取って行っても、同じことでしょ? ――
―― 同じことだよ。でもぼくたちの力が必要なのは今なんだよ。
それに大きくなればなるほど、離れたくない理由がたくさん出来てしまう。離れたくない人にたくさん出会ってしまう。弟のような存在がたくさん出来てしまったら、その方がぼくは辛いかもしれないって ――
離れたくない存在と聞いて、エストレーヤの脳裏に真っ先に浮かんだのはユタだ。家族には、アクリャになった時に、もう会えないということをどこかで分かっていた。今はただ、ユタのことだけが気になる。
けれどパリャックの言う通り、ユタと居られる時間は限られている。
王子である彼は、あと少しすれば気軽に市民と触れ合うことなど出来なくなるだろう。ましてや『アクリャであるピウラ』と会うことなど決してない。
エストレーヤが一瞬の辛さを我慢しさえすれば、多くの人を救うことが出来るというのに……。
―― ぼくは考えたんだ。ぼくにとって一番気になるのはオマの将来だ。
これから全ての記憶が蘇ったとき、望めば未来を見通すことも出来るだろう。そのとき、ぼくはオマの将来の姿も見ようと思う。オマの立派に成長した姿さえ見られれば、安心してここを離れることが出来る ――
エストレーヤは、それを心の中で自分の願いに置き換えてみた。
ユタの将来の姿。それを見たら安心して別れられるのだろうか。
「おまたせ! と、いっても随分遅くなっちゃった。お昼のスープが残っていなくて、ぼく母さんの真似をして作ってみたんだよ」
オマが縁にスープのこぼれた跡をたくさん付けた器を手にして戻ってきた。エストレーヤの前にそれを置いて再びかまどの方へ消え、何度も往復してやっと三人の前に自前のスープを並べた。
多少見た目は悪いが、良い匂いがする。
「ありがとう、オマ。いただきます!」
エストレーヤは美味しそうにそれを啜った。
スープをご馳走になってすっかり長居してしまったオマの家を出てから、倉庫に戻る道のりで、エストレーヤはずっと考え事をしていた。
いくら瞬き一つの間でもない出来事であっても、エストレーヤにはかけがえのない時間だった。けれどもうすぐそれが終わる。ユタの将来を願ってその姿を知ったとしても、そう簡単に納得できるものではない。
ならいっそ、今すぐにでも、何も感情を持たない存在に戻ってしまいたい。
「ピウラ!」
呼び止められて、エストレーヤは我に返った。
ユタが慌ててこちらへ駆け寄ってきた。
「ピウラ、ごめんね。約束の時間はとっくに過ぎてしまった」
未だ呆けたような表情で、エストレーヤは呑気な返事をした。
「ああ、もうそんな時間だったのね。あたしのほうこそ、すっかり忘れちゃってたわ」
その時、オマがお説教のことをユタにも話すのではないかという不安が過った。それならおかしな誤解を招く前に、自分から上手く誤魔化しておいたほうがいいと思い付いた。
「今ね、オマの家に行っていたの。あたしがこんな恰好でうろうろしていたから、オマが心配してくれてね。いろいろ理由があってユタと服を交換していると言ったら、オマが家に呼んでくれたのよ。オマの家族はみんないい人で、楽しかったわ。
それにユタ、オマの兄さんはね……」
すると見る見るうちに、ユタの顔が真っ赤に上気していくのが分かった。それを見て、エストレーヤは自分がまずい事を言ってしまったと気付いたが、遅かった。
ユタが普段から、友だちの家に呼んでもらえないと嘆いていたのを知っていたはずなのに。
「ひどいよ! ぼくはピウラに悪いと思って、必死になって帰ってきたのに!
せっかくアクリャワシに行ったのに、お母さまらしい人には会えなかったし。大神官さまのお説教の時間に間に合わなくて、ピウラが叱られてしまったらどうしようと、気が気じゃなかったんだぞ!」
それを聞いて、今度はエストレーヤが顔を赤くする番だった。
「あんた、なんで大神官さまのお説教の時間だなんて知ってるの?」
途端にユタが口ごもり、しまったという顔をした。
エストレーヤの不安がこんな形で現実になってしまうとは思わなかった。その不安はユタへの怒りとなって現れた。
エストレーヤの表情で、すっかり弱腰になったユタは、もごもごと言い訳を始めた。
「ぼく、帰り道が分からなくなっちゃって、あちこち探し歩いていたら、クワンチャイっていう女の子の部屋の前に出たんだ。そしたらママコーナがやってきて、クワンチャイが部屋に隠れさせてくれたんだ。その時、ママコーナは大神官さまのお説教の時間だって言ってピウラを探してた。
でも、クワンチャイは誰にも言わないよ。ピウラのことも、ママコーナにはうまく誤魔化してくれたんだ」
お説教の時間のことを知っただけでなく、クワンチャイとも会っていたとは!
エストレーヤはもう、目の前が暗くなるほど絶望を感じていた。それは激しい言葉となって噴き出していた。
「そういうことじゃないのよ! ぜったい見つからないって約束したじゃないの! もうあんたのことなんか知らないわ! さっさと服を返してちょうだい!」
言いながらエストレーヤはユタの服を脱ぎ捨て、ユタを威嚇するように仁王立ちになった。ユタは真っ青な顔でエストレーヤの服を脱ぎ、震える手で差し出す。それを乱暴に掴んで頭から被ると、乱れた服のまま走り出した。
何故、ユタをアクリャワシに行かせてしまったのだろう。
何故、ユタを救ってあげたいなどと思ったんだろう。
そもそも何故、ユタに会ってしまったのだろう。
エストレーヤの中ですべてのことが後悔された。悔し涙が、あとからあとから溢れて出て、止まることはなかった。