別にいいけどね
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ボクも住んでいる街の人とは、友人以外、ほとんど交流がない。だが、別にそれでいい。昔から何かといろんな環境に不適応だったからだ。ましてや物などを書く人間――特殊なのである。
確かに相手に分かってもらいたいと思うことがある。でも、それって不可能じゃない?ボクだって、名前も知らなければ、顔すらよく覚えてないし、話をしたりしたこともない人を理解するのは難しいな。土台、無理な話なのだ。出来ないことである。
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三十六年とちょっと生きてきて、まだ他人に理解してもらいたいと思うことも間々ある。もちろん、それが叶えば大喜びするのだが、そうは行かない。おまけに降りかかる災難というものもあるだろう。実際、人間が一番苦しむのは何より対人関係。上手く出来てる人と出来てない人という分け方だけじゃないのだし、そもそも人間が相手と完全に意見を一致させられることはない。
とどのつまり、感情があるからだ。感情の司令塔である脳が働いている以上、そういったものから決して逃れられない。もちろん、無理やり気を張って雑念を捨て去ろうとする人もいるだろう。でも、それは現実問題、無謀だ。
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やはり自然体、あるがままの姿で生きていくしかないのである。それが人だろう。いろんなことを気にしていいのだ。と言うよりも、必然的に気に掛かるのである。だから人間は雑念を気にしながら、歩んでいくしかない。
簡単なことである。結論から言えば、自分の弱点を素直に認めること。それさえ出来れば、人間はだいぶ変わってくるだろう。完全に自分を守りきることは不可能。無菌室じゃないんだから。この世の中、澱みだらけである。それを自覚しておかないと、とんでもないことになる。
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まあ、ボクもサラリーマンや勤めの経験がないので、人馴れしてない。だから、こんなな極当たり前のことを未だに体得しかねているのである。だが、逆に言えば、社会経験というものがないから、物など書けるのだと思う。なまじ経験があると、面白いものは書けない。文学作品や文芸作品のリアリティーというものは、決して経験則から来るものじゃないからだ。そう思える。
最後に一言言っておくが、相手を許すということも必要。どんなにひどい輩にも一定の言い分はあるからだ。それは万人共通。別にボクのケースだけじゃない。誰にでも当てはまることだ。相手の立場に立つ必要もある。自分本位では、どうしようもない。ただ、一定の楔は打っておきたいね。自我を全く喪失させてしまうわけじゃないのだから……。
ひとまず一筆書かせていただきました。
ではまた。
(了)




