08.旅立ち
「へぇーっくしょん!」
楽座が豪快にクシャミをすると、隣で寝ていた右蔵がぼんやり目を開けた。
「うるせえな、目が覚めちまったじゃねえか」
「ここは俺の部屋だ。文句があるなら出て行け。だいだい誰のせいで風邪引いたと思ってやがる」
「はあっくしょん! うーっ……てめえが勝手に飛び込んだんじゃねえか」
「はなっから無実だってぇ主張してりゃあ、あんなことにゃならなかったんだよ」
楽座が布団から足を出して右蔵を蹴ると、
「なにしやがる!」
と右蔵も足を出して蹴り返した。
その時、勢いよくふすまが開いた。紅が看病のため冷水の入った水桶を持って来たのだ。紅は布団を並べて寝ている二人の枕元に膝を落とした。
「病人のくせに、うるさいねえ。おとなしく寝ていられないのかい?」
楽座はぼんやりとした眼差しで紅を見つめた。
「添い寝してくれ」
「なに子供みたいなこと言ってんだい」
「お前の匂いかぎながら寝てえ」
「バカだね。そんな鼻声で、どうせ分かりゃしないよ」
「つれねえなあ」
楽座は言って、紅の手首をつかんだ。紅は少し身をかがめながら、あいている方の手で楽座の頭をなでた。
「良くなるまで我慢しな」
見ていられないのは右蔵である。
「ちっ、でれでれしやがって」
「うらやましいだろ」
「くたばれ」
だが楽座がヘラヘラしたくなるのも分かる、と右蔵は胸の内で思った。
なにが欲しいのか知らないが、金のために花魁となって滅多に休むことのなかった紅が、もう三日もつきっきりで看病している。つまり丸三日休業だ。「大騒動の後だから」ということを念頭に置いたとしても、一日の稼ぎを思えばもったいない話だ。それだけ楽座に惚れているとも取れるが、花魁の身で一人の男に入れあげれば人気に影が差すこともある。そんな危険な橋を自分のために渡ってくれていると思えば嬉しくもなるだろう、と。
紅が部屋を出た後、名残惜しそうにしている楽座を眺め、右蔵は言った。
「てめえも意外と小心者だな」
楽座はむっとして右蔵を睨んだ。
「なにがだ」
「この三日、ひとっことも仕事のこたぁ聞かねえ。取られたくねえんだろ」
すると楽座はわずかに目を見開いて、顔を背けた。
「うるせえ」
右蔵は「けけけ」と笑って布団をかぶった。
***
「用事ってなんだい?」
三日前のことである。紅は長兵衛に呼ばれて屋敷を訪れた。長兵衛は紅を応接間に通し、正座して向かい合った。応接間の窓側は縁側になっていて、手入れされた小さな庭が見える。苔むした飾り石と、まだ青いもみじが揺れている。
長兵衛は地面に落ちる木漏れ日を眺めてから、紅に向いた。
「楽座はどうだい?」
「右蔵と仲良く熱出してぶっ倒れてるよ。これから様子でも見てこようと思っていたところさ」
「医者には診せたんだろうね?」
「しばらく寝てりゃ治るってさ」
「それならいいけどね」
長兵衛はひとつ息を吐いて、少しうつむいた。紅はそれを訝しげに見やった。
「まさか用事ってそれかい? わざわざ呼び出して聞くようなこととは思えないけど。心配なら自分で様子を見て来なよ」
長兵衛は顔を上げて紅を見据えた。
「渡して置きたいものがあるんだよ」
そして、腰を上げてしばらくどこかへ消えたと思ったら、風呂敷の包みを持って現れた。
「これを」
紅は差し出された包みを開け、目を見開いた。向こうが透けて見えるような薄く白い羽衣である。年月を経てもシミひとつなく美しい。
紅は指先でそっと触れ、長兵衛を見やった。
「まだ支払いは終わっちゃいないよ?」
「いいんだ」
「どうして」
「またあんなことがあったら、私は生きてゆけないよ。それに、お前さんの気持ちはよく分かった。こんな大金、一生かかっても払いきれるもんかと思っていたけどね、お前さんならきっと払っちまう。だから、もういいんだよ」
長兵衛は言いながら、震える瞼を閉じた。
「ああ、思い出すよ。これを肩にかけていたあの人を。本当に綺麗だった」
感慨深いため息がこぼれると、辺りが少し陰った。陽の光を雲が遮ったのだ。亡き人を惜しむのはこれが最後と告げるように——
長兵衛はゆっくり瞼を上げると、紅に頭を下げた。
「楽座を、よろしく頼む」
***
数日後、すっかり快復した楽座は右蔵を連れて方々へ挨拶回りした。
「心配かけて、すまなかったな」
「なに言ってんだい。無事に帰って来てくれただけで嬉しいよ。堅苦しい挨拶なんかなしだ」
楽座が詫びると町の者は大抵そう返し茶や菓子をもてなすので、結果的にあまり詫びにはなっていないのだが、誰一人として嫌な顔はしなかった。右蔵は「楽座の人徳だ」と思いつつ、一軒一軒きちんと詫びて回る姿を見て、意外とマメな奴だとも思った。
そうこうしていると日はあっという間に傾き、赤い夕日が道に長い影を作った。歩き疲れた右蔵は、
「たいがい全部回っただろう。もう帰るぜ?」
と言った。
「まだ建屋が残ってる。着物と草履を返さねえと」
「明日でいいじゃねえか」
「ダメだ。ちょっと取ってくるから、ここで待ってろ」
「帰る!」
「待ってなかったら張扇で殴る」
右蔵はぐっと奥歯を噛んで押し黙った。
それから建屋へ向かうと、借りたものを返しながら楽座が言った。
「あの話、考えてくれたか?」
城吉は渋い顔をして右蔵を見据えた。
「やる気はあるのか」
右蔵は「はあ?」と首をかしげた。
「なんの話でい」
「お前を雇うという話だ」
右蔵は思い切り目を丸め、ややのけぞった。
「んなっ、なんだそりゃあ!」
城吉は腕組みして楽座に顔を向けた。
「ちゃんと話していないのか」
「話したらここまで引っ張って来れねえかと思って」
「俺あ帰るぞ!」
「まあ待て」
楽座は右蔵の首根っこを捕まえた。
「ここで大工の修行でもして真っ当な道に進め」
「なんで大工なんだよ!」
「他にてめえを雇ってくれるところがねえからだよ」
楽座は右蔵の胸ぐらをつかんで引き寄せ、睨みを利かせた。
「仕事もしねえでブラブラしてっから、ロクでもねえことやらかすんだ。ちゃんと働いてりゃ悪さしてる暇も体力もなくなる。おまけに人から銭ふんだくらなくても食っていけるんだ。なんかあっても疑われなくて済む。いい機会だから性根叩き直せ」
右蔵は気迫に押されながらも、「けっ」と言って目をそらせた。
「余計なお世話だぜ」
すると楽座の手にいっそう力が込められた。
「てめえは一度死んだんだ! 出直すのは今しかねえ! しっかり前見やがれ!」
強く揺さぶられて、右蔵は思わず楽座を睨み返した。しかし楽座の眼光は鋭く、気負けしてしまった。
「……今更、俺がやり直せるなんて信じてんのはオメエだけだぜ」
「阿呆! 今日一日、町ん中回って気づかなかったのか! 誰か一人でもテメエを変な目で見た奴がいるかよ! 俺だけじゃねえ。みんなお前がやり直せるって信じてんじゃねえか!」
右蔵は大きく目を見開いた。
なんのために楽座が自分を連れ回して方々挨拶していたのか、やっと理解できたのだ。もちろん騒動の詫びもある。だがそれ以上に大事なことがあったのだ。
右蔵は楽座の手を振りほどいて、顔を伏せた。
「馬鹿野郎。ほんとに余計なことしやがって」
その肩を、城吉が叩いた。
「それじゃ、気が変わらないうちに始めるか」
***
右蔵を城吉に預けたその帰り道。
日もとっぷり暮れた薄暗がりの中を、提灯がボンヤリと揺れながらやって来た。楽座が足を止めて見ていると、ふっと提灯が持ち上がって主の顔を浮かび上がらせる。白く妖艶なその顔に、楽座は目を丸めた。
「紅」
楽座が足早に近づくと、紅は微笑をたたえた。
「ご苦労さん。話はついたみたいだね?」
楽座は照れくさそうに頭をかいた。
「おかげさんで」
「そうかい。一安心だね」
「ああ」
楽座がうなずくと、紅は横に並んで腕を組んだ。
「疲れてるだろうけど、ちょっとうちへ寄ってくかい?」
紅に身を寄せられた楽座は武者震いして、疲れをどこかへ吹き飛ばした。
「おめえの誘いを断る手はねえよ」
その夜、紅を抱いて満足した楽座は、朝遅くに起きた。紅はすでに身支度を整えていて、起きて来た楽座の気配に振り返った。
「やっと起きたね。顔洗っておいでよ」
「ああ」
顔を洗って戻って来ると、朝食が用意してあった。紅は料理など滅多にしないと知っていた楽座は「珍しいこともあるもんだ」と思いつつ、平らげた。
「うまかった。ごちそうさん」
紅は嬉しそうに微笑んで、そそくさと膳を片付けた。
「ねえ、これから用がないなら、ちょっと国の端へ行ってみないかい?」
「え? ……別に構わねえけど」
そうして訪れた谷は、強い風が吹いていた。青空には、ほうきで掃いたような薄い雲があり、遠くは霞んで見える。
紅は、腕組みをして景色を眺めている楽座の首に、そっと羽衣をかけた。
「ん?」
楽座が小首をかしげると、紅は羽衣を押さえるようにして楽座の胸に手を当てた。
「あんたのおっかさんの形見だよ」
楽座は目を見開いた。一瞬なにを言われたか分からなかったくらい意外な言葉だったのだ。
「なんだって?」
「お静さんの形見さ。これがあれば、あんたは向こうへ飛んでゆける」
「は?」
「あんたの夢が叶うんだよ」
楽座は唖然として紅を見つめた。紅の瞳は輝いていた。
「あたいは小さい時からあんたを見てた。いつかここから飛び立たせてやりたいと思っていたんだよ」
紅は言うと、楽座から離れて谷へ背を向けた。
「行っておいでよ」
「……お、おい」
楽座が紅の肩に手を伸ばそうとすると、足が宙に浮いた。
「うわっ! な、なんだ?」
上へ引っ張られるような感覚と、少しずつ離れていく紅の後ろ姿に、楽座は焦った。
「おい! これ、どうなってやがんだ!? 紅!」
楽座は精一杯叫んだが、紅は振り返らなかった。だが白いうなじと細い肩が震えているのを見て、すべてを悟った。
「馬鹿野郎……俺なんかのために」
楽座は羽衣を握りしめ、力の限り叫んだ。
「紅! 俺の女房はおめえしかいねえ! だから必ず帰って来る!」
紅は背を向けたまま、こくりとうなずいた。