07.有罪
斧を持った男が振り返り、川岸の土手を上ろうとした時。その土手の向こうから林田を筆頭とした御用聞きが八名現れた。
「左官の弥平。ずいぶん物騒なもん持ってるじゃねえか」
林田が言うと、男はジリッと後ずさった。
「そんなもん持って何してやがる」
林田は言いながらにじり寄った。しかし弥平は無言のまま得物を放り出して素早く身を翻し、逃走した。林田は声を張り上げた。
「追え! ぜってぇ逃すんじゃねえぞ!」
御用聞きの男衆は一斉に走り出し、弥平を追った。後に残った林田は、弥平が捨てた得物を証拠品として拾い上げ、辺りを見回した。すると、得物で切られたとおぼしき縄が、大木にくくりつけられてあった。林田は近寄って切り口を確認し、再び周囲を見渡して、叫んだ。
「楽座! おい、どこにいる! 楽座!」
しかし激しい滝の音が聞こえるばかりで、楽座の返事はない。
林田らが川下にやって来たのは右蔵の最期を見届ける目的もあったが、一番は楽座の言葉を信用したからだ。
「右蔵はやってねえ。だから俺が必ず川から引っ張り上げる」
楽座の言うことが本当なら、真犯人は右蔵が谷へ落ちるのを見届けに来るはずだと期待したのだ。万が一にも生き延びて無実だと訴えられたら、調べ直されるかもしれない。そんな不安を取り除くためにも……
林田は嫌な予感がして、懸命に周囲の草をかき分けた。
「楽座! おめえの言う通りだった! 奴は必ずひっ捕まえる! だから出て来い! 楽座ぁ!」
ゴウゴウと流れる水の音。岩に打ちつけられて激しく散る水しぶき。大木に括られた縄。斧。切り口。
辺りの風景が脳裏を一周した時、林田は滝のそばまで猛然と駆けた。
「楽座あ!!!」
***
弥平はまもなく御用聞きに取り押さえられた。二十三という若さである。そんな前途ある青年がなぜ放火などしたのか、林田には分からなかった。
「真面目に仕事して、裕福じゃねえにしても、普通に食っていけてたじゃねえか。どうしてこんなことやらかした」
牢の格子越しに質問すると、弥平は顔を背けた。
「オレじゃない」
「おめえ、あの時いの一番に火事場ぁ駆けつけて、右蔵が火ぃつけるとこ見たって言ってたが、おめえは何してたんだ?」
「覚えてない」
「じゃあなんだって今日のような日に斧持って滝の近くにいやがった」
弥平は黙った。うまい言い訳がなく、やましいからである。
林田は目を細くして弥平の仕草や目の動きに注意した。嘘をついているかどうかはそれらを観察すれば、長年の経験から分かるのだ。
「おめえが持ってた斧と縄の切り口が一致した。何か言うこたぁあるかい」
「関係ない」
「関係ねえかどうかはこっちが判断する。おめえがやったのかやってねえのか、それだけ答えな」
「やってねえ」
「じゃあ火事があった日、あのあたりで何してたかも答えられねえはざぁねえよな?」
「忘れたって言っただろう」
「実はな、ついさっき裏が取れたんだ。右蔵はやってねえ」
林田が言うと、弥平はピクリと肩を揺らした。
「あの晩、右蔵は室通りで仲間と一杯ひっかけてたんだよ」
「あんな連中の言うこと信じるのか」
林田は眉をつり上げた。
「ほお? 連中に詳しいのか」
すると弥平はまた黙った。林田はますます怪しいと睨んで肩に力を入れた。
「おめえは初犯だ。さいわい死人も怪我人も出てねえ。白状すれば重い刑は免れる」
弥平はやや顔を上げた。林田は手応えを感じて目を光らせた。
「冤罪なんてことになりゃ、俺らもやってけねえ。こんな狭い国で汚ねえことはしちゃいけねえ。みんな関わりあって生きてんだ。相手が悪党だからって濡れ衣着せていいってことにゃあならねえ。誰に着せてもオメエの罪はオメエのもんだ。素直に認めちゃどうだ」
林田の説得が功を奏したか、それから一時ほどして、知らぬ存ぜぬを通していた弥平がようやく口を割った。
仕事で失敗してむしゃくしゃしてやった。ついでに右蔵が目障りだったから奴のせいにすればいいと思った、と言うのである。
林田は格子越しに弥平を睨んだ。
「で? 楽座はどうした」
弥平は唇を噛んだ。
「右蔵を助けようとしていたから、縄を切った。一緒に流れていった」
林田は途端に目を血走らせ、顔を真っ赤にして地面を叩いた。
「てめえっ……なんてことしやがったんだ! この町に住んでりゃ一度くれえ奴の世話にゃあなっただろう! それをっ!」
「右蔵なんかに構うのが悪いんだ! あんな奴、放っておけばよかったんだ!」
「楽座が無実だってぇ信じてる奴を見捨てるわきゃねえだろ! ちくしょう!」
林田は殴り飛ばしたい衝動を壁にぶつけ、立ち去った。扇屋に頭を下げに行くのだ。
「扇屋の旦那ぁ、申し訳ねえ! この通りだ!」
楽座の父、作次郎は一瞬なんのことやら分からずに困惑した。扇屋の周りには人が集まった。
「なんでえなんでえ、一体なにがあったんでい」
町人が横槍を入れるが、林田は土下座したまま動かなかった。
「楽座は右蔵が無実だってぇ信じてた。だから奴を助けようとした。けど一緒に流されちまったんだ。もっと早くに真犯人を捕まえられてりゃあ、こんなことにはならなかったのによお。本当にすまねえ!」
事情を聞いて、作次郎は真っ青になった。人だかりに寄って聞き耳立てていたあやめも、あまりのことに気を失った。
「あ、あやめちゃん、大丈夫かい!?」
倒れたあやめを抱き起こす蘇芳の姿が、作次郎の視界の端に映った。作次郎は半分正気に戻り、次にのろのろと動き始めた。
「長兵衛に知らせなければ」
ポソリと呟き、暖簾を下ろして店を閉じる。それから人だかりを分けて歩き出した。
「すまないが通しておくれ」
ふらふらとおぼつかない足取りで、作次郎は長兵衛の屋敷の門をくぐった。事情を聞いた長兵衛は落ち着きなく、部屋の中を右往左往した。
「楽座はそう簡単に死にゃしないよ」
と口では言うが、長兵衛の気は完全に動転している。草履を履いて土間に下りたり、草履を脱いで座に上がったりするうち、座で草履を履いて、土間で脱いだりするようになった。
「少し落ち着いたほうがいい」
作次郎が言ってみたものの、長兵衛の様子は発狂寸前である。
作次郎は、自分が長兵衛の立場なら、やはりこんな具合になったのだろうかと思った。楽座が心配なのは己も同じである。正直、生きた心地もない。しかし慌ててもどうにもならないのなら、落ち着くしかないと思う冷静さがある。この違いが示すものは何か。答えを知っている作次郎は、沈黙するしかなかった。
若かりし頃、親友という間柄だった作次郎と長兵衛は、川岸に流れ着いた一人の女に恋をした。楽座の母、静である。
長い亜麻色の髪は絹糸のようで、栗色の瞳は澄んで美しかった。「天女ではないか」と人々は噂した。確かに静は、縫い目のない着物を身にまとい、不思議な羽衣を持っていた。
しかし何者であろうと関係ない。物静かで優しく微笑む静に、二人は夢中になった。毎日のように芝居小屋へ誘い、明けても暮れても静のことを考え、事あるごとに花やかんざしを贈った。
やがて月日が経ち、静の心は一人の男に傾いた。
勝ったのは作次郎、敗れたのは長兵衛だった。しかし——
作次郎は拳を握った。
子が欲しいという女に授けてやれない悔しさと、父親の顔をして楽座を心配する長兵衛への嫉妬である。だが、ほかに方法はなかったという諦めもある。作次郎も静の子が欲しかったし、跡取りが欲しかったからだ。
作次郎は長兵衛に頭を下げた。
「静とはよく話し合った。お前なら俺も許せる。扇屋の跡目を作ってくれ」
長兵衛にしてみれば相手は惚れた女だ。悪い話ではない。しかし静の心はあくまでも作次郎のもので、生まれ来る子は自分の子であって自分の子ではない。のちの苦しみを思うと返事がためらわれた。だが子を授かれない二人の悲しみも応える。悩みに悩んだ末、長兵衛は首を縦に振った。
後悔はなかった。生まれた子への愛しさは筆舌に尽くしがたいものだったからだ。たとえ父と名乗れなくても、遠くより末長く見守れるなら幸福であった。
しかし結局、事あるごとに面倒を見なければならない具合で、ほとんど実の親同然となってしまったのは運命のいたずらなのかもしれない。
その楽座が谷へ落ちた、などと聞かされて、長兵衛が冷静でいられるはずはなかった。息の仕方も忘れるほど胸が痛み、何も考えられず、身が震える。まさに地獄と言うべき心境だ。
ついに土間に座り込んで動かなくなった長兵衛を、作次郎はなすすべもなく見つめた。そこへ紅がやって来た。
「町の連中が言ってること、本当なのかい?」
いつも綺麗に結い上げられている髪が乱れているのは、心の表れだろう。作次郎は力なくうなずいた。すると紅もまた、脱力してその場にへたり込んだ。
***
誰もが楽座の死を信じ、悼んでいる頃。
岩肌から伸びる木の枝に縄が引っかかったおかげで、宙ぶらりんになりながらも一命をとりとめた楽座は辺りを調べていた。右蔵は楽座に抱えられるようにしてしがみついている。
「おい、助かるんだろうな?」
「黙ってろ」
「でもよお」
弱気な右蔵はとりあえず無視して、楽座は上を見た。細い枝が何本か折れているのは自分たちが突っ込んだ痕だ。おかげで大した衝撃もなく無事である。その横には途中で切れた縄梯子がぶら下がっている。断崖絶壁に開いた洞穴から出ているようだ。ここからなら枝を伝って行けそうである。疑問なのは、どうしてそんなところに縄梯子がぶら下がっているかだ。
楽座はふと、建屋の話を思い出した。
もしかするとあの洞穴から縄梯子を下ろし、谷へ降りたのかもしれない、と。上からなら相当な運がなければ厳しいが、谷の中腹とおぼしきこの位置からなら、危険は危険だが不可能ではない。
「あの穴、地上へ繋がってんのかもしれねえ」
「え!?」
「とりあえず梯子つかむぞ。おい、先に行け」
「い、いいのか?」
「おめえは縄に繋がれてねえし、こっちもしがみつかれてちゃあ登れねえ」
「そ、そうだな」
右蔵は楽座に繋がっている縄を伝い、枝を伝って縄梯子をつかむと、体勢を整えた。
「待ってろ。この縄、しっかり固定する」
縄はうまい具合に巻きついていて、楽座に伸びる側と巻きついている端が容易に結えそうだ。右蔵は手も腕もクタクタだったが、残った力を振り絞るようにして結んだ。
「いいぜ」
「おう」
右蔵に続いて楽座も縄梯子までたどり着くと、腰に巻かれた縄を解いて、洞穴まで登った。中はひんやりとしていて、ずっと奥まで続いている。
「とりあえず休むか」
「ああ」
楽座の提案に右蔵はか細い声で答えた。相当に疲れているのだ。冷たい岩の上に横たわると、あっと言う間に寝息を立て始めた。楽座もつられるように眠った。
それから何刻ほど寝ていたのか覚えがない。
楽座は寒気を感じて目を覚ました。晒しに猿股という格好でずぶ濡れのまま眠ったのが悪かったのだろう。ずいぶんと身体が冷えていた。楽座は未だ睡眠をむさぼる右蔵を揺り起こした。
「おい、これ以上ここで寝てたら風邪引くぜ」
右蔵はぼんやりと目を覚ました。
「うう、確かに寒いな」
「とっとと出よう」
「ああ」
楽座と右蔵は洞穴の中をひたすら進み、一刻ほどで地上へ出た。出口は小山の裾である。天気は良く、太陽が真上に上がっているので暖かい。
「こりゃあ流されてから一日経ってるな」
楽座が空を仰ぎながら言うと、右蔵はうなずいた。
「ああ」
そして楽座は小山を振り返った。
「桜山の裏だ。建屋が近い。着物を借りよう」
すると右蔵は怪訝そうな顔をした。
「建屋だと?」
「なんでい」
「ありゃあ人間じゃねえだろ」
「生まれつき髪が白くて年の割に若く見えるってえこと以外、俺たちと変わらねえ」
「けどよ」
「建屋の大叔父が縄梯子つるしてなかったら俺たちゃ助からなかったんだぜ?」
「そ、そうなのか?」
「そうだ。さあ、つまらねえこと言ってねえで行くぞ」
町の噂話など一切拾わない建屋の城吉は、下着姿で現れた楽座と右蔵に驚いた。所々に擦り傷や切り傷があることから、事故に遭ったのかもしれないということくらいは想像したが、どうすればそんなことになるのか、皆目見当もつかなかった。
「わりいな、着物貸してくれねえか」
「構わないが、何があった」
「滝から落ちた」
「なんだと?」
「落ちたんだ」
「滝から?」
「ああ」
城吉はしばらく奇妙そうに二人を眺めたが、とくに詮索はせず家の中へ招き入れ、着物を取り出して渡した。
「つんつるてんかも知れないが」
「ねえよりゃマシだ」
二人はささっと着流し、ついでに草履も借りた。
「助かった。あとで返しにくるぜ」
「ゆっくりで構わない」
「おう」
***
「旦那、気を落とすなって言っても無理だろうが、力になれることがあったらいくらでも手え貸すからよ」
下駄屋のおやじはそう言って、作次郎の肩を叩いた。
町の一箇所に喪服姿の人だかりがある。通りは昼間だというのに暖簾ものぼりもなく、閑散としている。みな扇屋に集まり、深刻な表情で囁きあっているからだ。
「扇屋の旦那、気の毒になあ」
「あたしらだって気の毒だよ。このさき楽さんなしなんて。火が消えちまったみたいだよ」
「おれらの痛手なんてしれてらあ。子に先立たれた親の苦しみなんざあ言い表せねえだろう」
時おり作次郎を励ます者もあったが、声は頭上をかすめるように聞こえてはいないようだ。そばにいる長兵衛も紅も、そして林田も、一点を見つめて茫然としている。
紅などはいつもより地味な着物を着ているというだけで、喪服ではない。袖を通したら死を認めるようで恐ろしいのだ。少し離れたところでは、あやめがひっきりなしに泣いている。蘇芳はどうすることもできないまま、その背をさすっていた。
「こんなことになるなんて」
呟いて、すすり泣く者もいた。しかしどんなに泣いても喚いても、谷へ落ちた者は帰ってこない。それは誰もが承知していた。
一方、腹を減らしながら帰って来た楽座は、額に手をかざし、乾いた風が吹き抜ける商店の通りを眺めた。
「なんだ、誰もいねえじゃねえか。どうなってんだ?」
「馬鹿野郎、決まってんじゃねえか」
楽座より体力を激しく消耗している右蔵は、いまいち力のこもらない声で吐き捨てた。
「今頃てめえの葬式だ。ざまあみろ」
楽座は目を丸め、右蔵を置いて慌てて駆け出した。確かに、喪服姿の町人が扇屋の前に集まっている。楽座は総毛立って怒鳴った。
「てめえら! 縁起でもねえことしてんじゃねえ!」
町人らは驚いた。すっかり死んだと思っていた人間が現れたものだから、中には腰を抜かす者もいた。
「ゆ、ゆゆゆ、幽霊だ!」
「ばば、ばっきゃろう、足があるじゃねえか!」
連中のやりとりを横目に、楽座は人だかりを分けて店の奥へ進んだ。そこには泣き腫らした目の長兵衛と、血色の悪い父親がいて、化粧気のない紅が目を丸めている。そして林田は顎を外さんばかりに口を開けた。みなたったの一日でゲッソリしている。死ぬほど悲しませたことを察した楽座は、顔を真っ赤にして舌打ちした。
「ちっ、俺がそんな簡単にくたばると思うなよ」
紅はよろけながらそばに寄り、楽座に抱きついた。もう泣き疲れて声も出ないというふうで言葉はないままだったが、想いは充分に伝わる。
楽座は申し訳ない気持ちでいっぱいになり、頭をかいた。
「悪かった。こんな無茶は金輪際しねえ」
林田は楽座の肩に手を置いた。
「いや、生きてたんなら文句はねえ。右蔵は?」
「大丈夫だ」
「そうか。それにしても驚れえたな。一体どうやって」
「腰につけてた縄が枝にひっかかってな。あとは建屋のおかげだ」
「建屋?」
「ああ、まあその話はちっと長くなるからよ。それよりこの湿っぽい空気なんとかしやがれ」
「ちぇっ、まったく……呆れた野郎だ」
林田は言いながら手の甲で涙をぬぐった。