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06.川流し

 酒場から通りへ椅子が投げ出され、怒号が聞こえた。通りを歩いていた町人は、「またやってやがる」と椅子を避けつつ歩く。声を上げた男は室通りの右蔵だ。

 この日、右蔵は一杯ひっかけようと店へ立ち寄ったのだが、店主に断られて腹を立てた。

「俺に出す酒がねえってなあ、どういうことでい!」

 酒場の店主は困り顔で答えた。

「ツケがたまってるんだ。これ以上は勘弁しておくれよ」

「今度払う。今日までツケてくれ」

「いやねえ、そうしてやりたいのは山々なんだが——こっちも商売だ。利益が出なけりゃ仕入れもままならない。払いが終わるまで無理だよ」

 すると右蔵はそばにいた客の胸ぐらをつかんだ。

「ああ言ってるぜ? ちゃんと払えよ」

「ええ!? オレあ、ちゃんと払ってるぜ?」

「うっせー! 俺の分を払えってんだよ!」

「んな横暴な」

 そこへ、扇屋楽座が駆けつけた。

「いい加減にしろ!」

 客の胸ぐらをつかむ右蔵の頬に一発お見舞いする。その拳は瞬きする間もないほど速い。

 床に尻もちついた右蔵は、近くにあった椅子の足を握り、楽座めがけて思い切り投げつけた。それを楽座が避けて、通りに飛び出たという具合である。

「てめえにゃ関係ねえだろ!」

「うるせえ! 店ん中で堂々とカツアゲしやがって! やってねえって言い張っても通用しねえぞ!」

「だったらどうだってんだ! 俺ぁ言い訳なんかしねえ!」

「しろよ! 何回目だと思ってんだ! テメエこのままだと川流しだぞ!」

 楽座は厳しく言い、右蔵の襟首をつかんで通りへ引きずり出した。しかし右蔵は応えたふうもなく、腕を回して楽座の手を振り解いた。

「はっ、そんななあハッタリだ。今までだって言われてきたが、そうなったこたあねえだろうがよ?」

「そりゃあ御用聞きの林田が大目に見てくれてるからじゃねえか。奴が面倒見きれねえって言っちまったらおしまいなんだぜ?」

「なんで奴ぁ、大目にみてくれてんだ?」

「知るかよ。昔、葵さんに世話にでもなったんじゃねえか?」

「誰だそりゃあ」

 楽座は拳を握り直して、右蔵の頭を小突いた。

「いって! なにしやがんだ」

「テメエのお袋だろうが!」

 右蔵は顎をつまむように撫でた。

「へえ。あの女、そんな名前だったのか」

 右蔵は言って立ち上がり、着物を軽くはたいた。

「まあ、なんにしても関係ねえ。俺のことはよ、もう放っとけや。オメエもとばっちり食らいたくねえだろ。もちろん喧嘩してえ時は付き合ってもらうけどよ」

 楽座は手を袖におさめるように腕組みした。

「もう喧嘩してていい歳じゃねえよ、お互い」

「へっ、大人になれってか」

「おう」

「オメエがそれ言うのか」

「俺はずっと前からそう思ってた」

 右蔵は顔を背け、うつむき加減に視線で地面をなぞり、背を向けて空を見上げた。

「とうとうオメエも、俺には愛想が尽きたか」

「そんなこたあ言ってねえだろ。おまえが暴れるかぎり、俺はすっとんでくぜ。でも迷惑なことにゃ変わりねえから、やめろっつってんだ」

「なんでだ?」

「あ?」

「オメエにゃはなから関係ねえ。いちいち関わるのは損じゃねえか」

「見ちゃいられねえんだよ」

 楽座は即答した。右蔵は意外に思って振り向いた。夜の闇には明るすぎる髪を風に揺らして、楽座はまっすぐ立っていた。

「テメエが駄目になってくのを、見ちゃいられねえ。葵さんが可哀想だ」

「あん?」

「俺は葵さんが泣くのを見たくねえ」

「なに言ってんだ。あの女はもう死んだんだぜ?」

「あの世で泣いてるっつってんだ」

「けっ、なに言い出すかと思やあよお」

 右蔵は口元をゆがめ、再び背を向けた。

「オメエのせいで酒代損したぜ」

「働け」

「やだね」

「川流し免れても、のたれ死ぬぜ」

「へへっ、上等だ」

 そう言って闇の中に消えていく右蔵の後ろ姿を見送り、楽座はため息ついて髪をクシャクシャとかき分けた。このたびの不始末を林田にどう言い訳しようかと悩むのだ。

「あーあ、どうにもならねえ野郎だなあ、ちくしょう」


 そんなことがあってから幾晩か過ぎたある日のことだった。

 夜の帳に赤い炎が立ち上った。半鐘が鳴り響き、町がにわかに騒がしくなる。

 楽座は火消したちが駆け抜ける道の端に寄って、事の成り行きを見守っていた。そこへ林田が慌ただしくやって来て、腕を引いた。

「おいっ! 右蔵の奴、見なかったか?」

「いや? どうかしたのか」

「どうしたもこうしたもねえ! 奴の仕業だ」

 楽座は目を見開いた。

「なんだって? そりゃ本当か」

「見た奴がいる」

「見た奴って、どこのどいつだ」

「そりゃあ言えねえ。右蔵の仲間の報復食らいたくねえだろうからな」

「確かなのか?」

「ああ。ま、見たってぇ以外に証拠はねえが、十中八九そうだろう。とにかく見かけたらとっ捕まえておいてくれ」

「お、おう」

 楽座が返事をすると、林田はすぐに駆け出して行ってしまった。楽座もすぐさま気になって裏路地へ回った。右蔵が身を隠しそうな場所へ行って探してみようと思ったのだ。

 しかし、しばらくすると火事場から走って来た女が楽座を見かけて寄ってきた。

「楽さん! 大変だよ!」

「どうした」

「火元の隣の家の婆さんが見当たらないっていうんだよ」

 楽座の顔から血の気が引いた。そして次の瞬間には地を蹴って駆け出していた。


***


 鎮火したのは出火から約三刻後である。火元から左右十棟を巻き込む大火事だった。

 林田は、焼け落ちた家屋の前に全身ずぶ濡れで立っている楽座の肩を叩いた。

「よくやったな」

 楽座は水桶の水をかぶって火事場に飛び込み、逃げ遅れていた婆さんを助け出したのである。

「それより右蔵は?」

 林田は硬い表情で口を真一文字に結んだ。楽座は視線を戸惑わせ、林田の両腕をつかんだ。

「捕まったんだろ? どうなるんだ?」

「楽座」

 林田は気落ちした声で呼びながら、楽座の手をそっと解いた。

「もう口は聞いてやれねえ。満場一致で決まったことだ」

 楽座の目の前が真っ暗になった。夜はしらじらと明けているというのに、深い闇に閉ざされているように思えた。

〝右蔵……〟

 最期に呟いた葵の声が耳元に蘇る。楽座はそのひと言のために右蔵と闘ってきたと言っても過言ではない。どんなに他人の世話を焼いても葵の子は右蔵ただ一人。どんなにひねくれようと右蔵の母は葵。そんな切っても切れない関係を楽座は誰よりも羨ましく思い、大切にしてきたのだ。こんな形で裏切られたことは無念としか言いようがなかった。

「今度は、首に縄ぁつけて連れ歩く。二度と悪さはさせねえ」

 楽座が言っても、林田は頭を横へ振った。

「おめえの気持ちは分かるがな、今度ばっかりは無理だ」

 うなだれる楽座を残し、林田はその場を離れた。向かうのは留置所だ。

 頑丈な木の格子の向こうにあっても縄で拘束されたままの右蔵は、皮肉げに口の端を上げて林田を見た。

「俺の処分は決まったのか」

「川流しだ」

 ためらいもなく答えられて、右蔵は顔を強張らせた。

「今までさんざん野放しだったのが、いきなりそれかい」

「馬鹿野郎。今までは楽座が頭を下げて頼むから見逃してやってたんじゃねえか。それを——」

 言葉に詰まった林田を見つめたまま、右蔵は目を丸めた。あの楽座が自分のために頭を下げていたと聞かされて、相応の衝撃を受けたのだ。

「あいつが?」

「おうよ。それを、裏切りやがって」

「なんであいつが? 人の顔見りゃ殴りかかってくる奴が」

 林田は舌打ちした。

「てめえが悪さばっかりすっからだろう! けど楽座が懲らしめるから世間から許されてきたんじゃねえか! そんなことも分からねえでいやがったのかよ!」

 右蔵は唖然としたまま、ゆっくりとうつむいた。

「そんなこと、いまさら聞かされてもよ」

「ったく、呆れて物も言えねえな。おめえが楽座なしじゃ駄目だってこたあ世間様のほうがようく分かってたぜ。とにかく、楽座にゃ一回会わせてやる。死ぬ前に詫びろ」

 右蔵は口を閉ざし、床の一点を見つめた。

「何のために」と自問し、「分かりきったことだ」と自答する。

 楽座は葵のために右蔵を追いかけ回していたのだ。恩も義理もあったかもしれない。だがそれ以上の情に突き動かされて、楽座は走っていた。

 葵の死に目に立ち会ったのは楽座だ。楽座の行動こそ葵の遺志なのだ。

 右蔵は、死後も息子の身を案じる母の心を感じ、初めて目に涙をにじませた。

 しかしもう、すべてが後の祭り。気が付いた時には手遅れなのである。


 翌日、神妙な顔をした楽座が林田に連れられて牢の前に現れた。林田は楽座を置いて下がり、右蔵は一対一で向かい合った。

 楽座は言った。

「本当にテメエがやったのか」

 右蔵はフッと笑った。

「やってねえって言ったところで、誰が信じるんだよ」

 楽座は目を見開き、格子をつかんだ。

「やってねえんだな!?」

 今度は右蔵が驚いて、やや引いた。

「ああ。けどよ、今までさんざん悪さした。信じてもらえるなんざあ虫のいいことは、微塵も思っちゃいねえ」

「なに言ってやがる。テメエがやってねえってことは、ほかにやった奴がいるってことだろうが。そいつ野放しにする気かよ」

「俺がやってねえって証拠はねえんだぜ」

「やったっていう証拠もねえ」

「どいつもこいつも俺がやったって信じてる。それが証拠だ」

「俺は信じてねえ」

 右蔵は瞬きした。楽座が人のことをまっすぐに見据えるのはいつものことだが、今日ほど胸に刺さったことはなかったからだ。だが、

「それでもどうにもならねえ。言っただろう。遅えんだ。やり直しはきかねえ」

「やり直せ。誰だって真人間になれる。俺がどうにかしてやるから、最後まで諦めるんじゃねえ」

 楽座は強く言い置き、早々に立ち去った。右蔵は「大した策なんかねえんだろう」と思いつつも、これまで他人の問題をなんだかんだ言いながら解決してきた楽座のことだ。どうにかなるのかも知れないと、一縷の望みを託した。


***


 処刑は川の流れの激しい日に執行される。昨夜は大雨だったので、水量も速さも充分だ。

 縄で両腕を拘束されたまま川岸に立った右蔵は、息を飲んだ。

 つい先日まで絵空事であった川流しが今、現実のものとなっている。恐怖が実感として湧き上がるのは止めようもない。溺死するのが先か、谷へ落ちて死ぬまで苦しむのか。

 そんなことを考えていると、見物人を分け入って、楽座が姿を現した。楽座は林田に何か言い、右蔵へ向かった。すると監視役の男達がいっとき退いた。 

 楽座は異様に近く身を寄せ、小声で右蔵に言った。

「わりぃな、まだ糸口がつかめてねえんだ。けど真犯人は必ずとっ捕まえる。だからテメエはどんなことをしてでも生きろ。生き延びれば文字通り全部水に流される。無罪放免だ。汚名返上はそれからでも充分だろう」

「気安く言いやがって。そんなこたあ不可能だろう」

「不可能に近えから、できりゃあ許されるんだろうが」

「テメエ、他人事だと思って」

「他人事じゃねえ。俺は川下で待ってる。それまで絶対生きてろよ」

「おい、何する気だ」

「俺も飛び込むんだよ」

「はあ!?」

「しっ、声が大きい。とにかく待ってる。滝に落ちる寸前で助かりゃ晴れて自由だ」

 右蔵は開いた口が塞がらないといった顔で楽座を見つめた。楽座はやる気である。

「ちっ。テメエがそういう顔をするときゃあ引かねえからな。分かったよ。生きてりゃいいんだろ、生きてりゃ」

「おう」


 川の中程で止まった船上から身ひとつで激流へ放り込まれた右蔵は、必死に足掻いた。所々に突き出る岩を避け、沈んでも這い上がり、体力の続く限りもがく。川上から川下まで直線距離にして約四里。流れの速さからみて滝までは四半刻から半刻ほど要するだろう。果たしてそれまで息があるのか否か。

 不安と絶望とが支配する死の苦しみの中、右蔵は川下で待ち構える楽座に期待しながら、流されて行った。

 正直、川下まで生きている自信はなかった。が、日頃から楽座に追い回されているだけに、鍛えられてはいたようだ。右蔵の体力は奇跡的に続き、生きたまま川下へ差し掛かった。

 川岸には楽座が構えていた。右蔵を目にとめるやいなや、勢いつけて飛び込む。右蔵は疲労困憊した身体を奮い立たせつつも、半ば呆れていた。楽座が腰に縄を一本繋いだだけの状態で身を投じ、右蔵のところまで泳いできたからだ。

 そんなもんで助かるのかと怒鳴りたい気分だが、声を出す気力も体力も残っていない。そして楽座は、右蔵をつかまえたのはいいが、大人の男一人を抱えたまま激流の中を泳ぐには難があることを思い知った。

「くそっ! 重いな!」

 言わんこっちゃない、と右蔵は思いつつ、前方に迫る滝の音に身も心も凍らせた。

 苦しみもがき、死の恐怖を知って、初めて己の罪を知る。

 右蔵は楽座まで死なせてはならないと、腕を突っ張った。

「馬鹿野郎! しっかりつかまってろ!」

「……おまえっ、だけなら」

「この期に及んでくだらねえこと言ってんじゃねえ! 泳げ!」

 だがその時、楽座と川岸を繋ぐ縄が切れた。否。切られた。

 右蔵と共に激流に飲まれる瞬間、楽座は斧を持って川岸に立つ男を見た。楽座は直感的に「奴だ!」と悟った。

 しかし楽座と右蔵はあっという間に滝の方へ流されていった。

 もう助からねえ——二人はそう確信し、激しい流れに巻かれて谷へと落ちた。

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