01.生業
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黄土の大地に抱かれるその国は、仙界や桃源郷などと呼ばれる。が、実のところ名前はない。住人も気にしたことがないので、つかずじまいだ。自由気ままに生きるのが常。何者も束縛されることはなく、何者も支配しない。
しかし、いかに自由気ままとはいえ、何もしないでは生きられない。住人はひとつだけ品物を選んで商いし、身を立てねばならなかった。まあ、それだけをしていれば普通に暮らせるのだから、楽こそあれ苦ではないだろう。
たとえばイチョウ屋の長兵衛。その名のとおりイチョウの木を栽培し、葉や銀杏を卸している。結構な金持ちだ。黄金に染まるイチョウ山をいくつも所有し、黄色い漆喰で塗り固めた大きな屋敷を建てている。五十も近い歳であるが結婚もせず、使い切れない金を持てあましている。
織物屋のあやめは、おもに機を織っている。二十歳とうら若い娘で可愛らしい。今はまだ親の手伝い程度だが、いずれ織物屋の看板を背負うつもりらしい。今日は使いで染料屋に出向いた。染料を買って染物屋へ持って行き、糸を染めてもらうのだ。
「藍色くださいな」
染料屋の息子、蘇芳が対応に出てきた。二十六歳の好青年だ。彼は染料の入った小壷を渡しながら言った。
「あやめちゃん、今度ひまな時に芝居小屋へ行こうよ」
「ええ、ひまな時にね」
「本当かい!? 約束だよ?」
「うふふ。お芝居なんて久しぶり。あ、そうだわ。楽さんも誘ってみていいかしら」
「楽さん? 扇屋の?」
蘇芳はとたんに浮かない顔をした。
「あやめちゃん。楽さんはいけないよ。遊郭に入り浸ってる野郎だよ?」
「紅の姉さんに話があるだけでしょ? 足を運ぶからといって、みんながソレ目当てじゃないわ」
「その姉さんと、デキてるって噂だけどな?」
「噂でしょ!?」
あやめは財布からお金を取り出し、やや乱暴に蘇芳へ渡した。
「お芝居だけど、お約束はできないわ。しばらく忙しいの。またこんど誘ってちょうだい」
「あ、あやめちゃん!」
不機嫌そうに踵を返し去って行くあやめの姿を、蘇芳は溜め息ついて見送った。
この染料屋の五軒先に遊郭がある。紅は花魁だ。二十七になるが身請けを断り続け、あいもかわらぬ美貌で客寄せをしている。
遊郭で働く女はたいてい決まった商いを選ばなかったせいで借金がある。だが紅は違った。彼女は商いとして遊郭を選んだのだ。借金などはなく、辞めたければいつでも辞められる身分である。彼女を身請けしようというのは、そんな事情を知らない者だ。ゆえに、
「姉さんはなんでこんな商売を選んだんだい?」
と質問されれば、こう答える。
「儲かるからさ。借金がないからねぇ。客が落とす金は全部あたいのものさ」
「そんなに金を貯めてどうするんだい」
「いやねえ。それは秘密さ。ちょいと買いたいものがあるんだよ」
「ほお。ずいぶん高い買い物だねえ」
「ふふふ。けど大枚はたいても惜しくない買い物なんだよ」
紅は妖艶な笑みを美しい扇子で覆い隠した。
その扇子は、扇屋の跡取りである楽座がこしらえたものだ。扇屋楽座は才あるくせに道楽者で、喧嘩が強く、愛想がいい。お調子者だと言われることもある。
一般に二十五歳といえば立派な大人だが、楽座はガキだ。同年代の男は「にやけた面した遊び人だ」と言い、女は「純情で可愛げのある男前だ」と言う。話に聞くだけではつかみどころのない男である。
片手には四尺もある銀色の張扇。藍染めの着流しに草履という出で立ち。亜麻色の髪に栗色の瞳は、黒髪黒目が主流のこの国では珍しく、やたら目を惹くが、楽座は気にしない。張扇を肩で担ぐように持ちながら、町の通りをブラブラ歩く。そんな楽座へ、町人らは決まって声をかけるのだ。
「よお、楽座! 景気はどうだい?」
「楽さん! ちょっと寄って行きなよ」
「親父さんは元気かい、楽ちゃん」
「楽! 今夜飲まねえか?」
三者三様に楽座を呼び止める。「そろそろ落ち着け」と言う者や、「飯を食っていけ」と言う者。遊びに誘う者や世間話をする者。楽座は軽く手をあげて答えながら過ぎた。
本日の楽座は下駄屋の源助に用がある。先日お膳立てした見合いの結果を聞くためだ。
「源」
店先へ下駄を並べている最中の背に声をかけると、源助は折っていた腰を伸ばして振り向いた。
「楽さん」
十九の源助はまだ少年の面差しを残している。少し悲しげな表情なのは、見合いがうまくいかなかったせいだ。
「しけた顔してんなあ」
「そう言わないでくれよ。おいらは楽さんみたいにモテないんだからさ」
「面は悪くないんだ。貫禄さえつけりゃ、女のほうから寄ってくる」
「貫禄ってどうやってつけるのさ」
「自信を持つんだ。今やってる仕事でもいいし、武道をたしなんでもいい」
「無理無理。下駄作りは見習いだし、痛いのは勘弁さ」
楽座は溜め息ついた。
「面倒見きれねえぜ。何人紹介したと思ってやがる」
「それなんだけどさ。楽さんのこと知ってる女じゃ駄目だよ。比べられて、おいらが敵うわけない」
「紹介する女に手なんかつけてねえぞ」
「わかってる。見た目で駄目だって言ってるんだよ、おいらは」
楽座は眉根を寄せて、首をかしげた。
「そうか?」
「そうさ。楽さんは格好いい。粋だよ」
「男は見た目じゃないぜ」
「説得力ないよ」
「ちっ。まあいいや。優しいだけの野郎でもいいって女がいたら、紹介してやるよ」
「なんだ。結局めんどう見てくれるんだ? じゃあよろしく」
源助は軽く手を振り、立ち去る楽座を見送った。
楽座にこの後の予定はない。そんな時は決まって行く場所がある。
国の端——とでも言うべき場所だ。黄土の地の切れ目。そんなふうに言う者もいる。断崖絶壁で底が見えないほど深く、橋をかけることもかなわないほど大きな谷だ。向こう側に陸地があるのかどうかさえも分からない。
楽座たちが生活する土地はこの深い谷に囲まれ、孤立している。窮屈ではないが、決して広いとは言えない。だが物作りに欠かせない資源は豊富にあるし、再利用の技術も発達している。飢えも貧困もない。ゆえに不満を持つ者はいないし、不思議に思うこともない。
だが楽座は疑問を抱いた。自分たちが暮らす世界のことを知るため、数ヶ月かけ、崖の縁にそって歩いたこともある。どこかに浅い谷はないか、形はどんなふうなのか。
ところが谷はどこも深く、行けども行けども対岸が見える場所はなかった。形は正円に近く、ひたすらに混じりけのない黄土が続いているのだ。
「空が飛べたらなあ」
楽座は国の端にあぐらをかいて、溜め息ついた。
国の端から町へ戻る頃にはとっぷり日が暮れ、真夜中を知らせる月が天井に大きく輝いていた。人通りはなく、猫の子一匹現れない寝静まった町並みである。その一画——鳴物屋通りと呼ばれるところを通ると、軒に吊るされた風鈴がひとつ、チリンチリンと音を立てた。
鈴や鐘、楽器類の販売を生業とする店が軒を連ねる通りである。鳴った風鈴は、しまい忘れたのか、宣伝のため故意に置いているのか分からない。ただ青い光の中で物悲しさを感じさせる風情である。
楽座は横目に見て過ぎながら、夜中の道をブラブラ歩いた。月明かりの町を眺めて楽しむのも習慣なのだ。寝るのは明け方五時から八時まで。気の向くままに生きているのである。
夜がしらじら明けて来ると、楽座は扇屋の勝手口から二階へ上がり、部屋へ入って布団にもぐり込んだ。そして父親が店を開けて商いを始める頃、また勝手口から外へと出て行く。
こうした生活習慣のズレから、ほとんど顔を合わせない親子だが、別に仲が悪いわけではない。むしろ父親は息子を目に入れても痛くないほど、かわいがっている。そうでなければいい大人が一日中、遊び歩いていられるはずはないのだ。
「いつまでもスネをかじらせてちゃあいけないよ、旦那」
楽座の父親は客に説教されるたび、笑ってごまかした。
楽座の顔は母親似で、父親にはちっとも似ていない。物心つくまえに他界した母のことを言われても楽座はピンとこないのだが、年配連中が口をそろえて言うので、そうなんだろうと思っている程度だ。
「きれいな人だった。亜麻色の髪に栗色の瞳でねえ。おまえさんにそっくりだ」
「俺は女顔じゃねえと思うけどなあ」
「そりゃあね。だけど似てるもんは似てるんだ」
そんなこんなで、父親が楽座を甘やかしているのは他界した女房を想っているからだと囁かれることもある。しかしまあ、甘やかしているのは楽座の父親だけではない。町の者全員がなんとなく甘やかしているし、イチョウ屋の長兵衛などは実の父親以上に甘やかしている。たまに扇子を届けに行けば、そのたびに小遣いをやる。町で暴れて閉め出しをくらえば、かくまってやる。するとそのうちほとぼりも冷め、父親が迎えにきて円満解決だ。
こんな具合なので、楽座は少しも反省しなかった。
「よお、楽座。このあいだも暴れたんだって?」
話しかけて来たのは米屋の飯田だ。楽座より三つ上で、ひょろっと背が高い。
「このあいだって、いつのことだ?」
「とぼけやがって。そんないくつも前の話はしねえよ。室通りの右蔵がカツアゲしてんのを、とっちめたって聞いたぜ?」
「ああ、あれか。でもやり過ぎだって御用聞きにコッテリしぼられたぜ」
「ガハハ! 確かにオメエはやり過ぎだ! だが助かった。室通りにゃ、うちの蔵もあるからよ。あんな奴に荒らされちゃあ、たまらねえ」
「その荒くれ者を取り締まんのが御用聞きの仕事だって釘さされたんだよ」
「けっ、御用聞きなんざ何の役に立ってんだか」
「そう言うなって。あれもいなけりゃ困る。きっと右蔵だけじゃすまねえ」
いたずら小僧のように笑う楽座を見て、飯田は少しバツが悪そうに笑い返した。手のつけられない正義感のせいで時に迷惑をふりまくが、他人という存在を最も尊重しているのもこの男なのだと、改めて知らされたからだ。
「これから用がねえなら、一杯つき合わねえか」
「わりいな。これから建屋だ」
建屋というのは古くから大工をしている家の名だ。飯田は表情を曇らせた。
「あんまり深入りしねえほうがいいぜ?」
「偏見か?」
「い、いや、そんなんじゃねえけど」
「じゃ、つまらねえ忠告はなしだ。ほかのことなら素直に聞いてやるけどよ」
楽座は言ってニッと笑い、背を向けて腕を上げ、手を振った。
「またな」