閑話・柿木さんと最終話
朝一のオフィスには期待と倦怠の入り混じった、ふんわりとした空気が漂っているとグローリアは思っている。色づかない、靄のレベルでのグレーな雰囲気。
「っはよーーー」
「ヨーク。おはよう」
寝ぼけ眼でふらふらと近づいてくるのはグローリアの同僚にして愛しい相棒、庄野京子だ。いつまでたっても自分の顔を覚えない仕事上のパートナーに捻った愛称をつけることでようやく認識してもらえた歓びはまだ記憶に新しいのに。
恋は落ちるものじゃない。いつの間にか嵌まってるモノだ。
どことなく庄野の顔が輝いているように見え、グローリアは注意深く観察してみた。目蓋が腫れてるわけでもない、化粧を変えた様子もない。ただ。
「…………ヨーク。昨日の夜は遅かったの?」
「なんだ藪から棒に。うん? お、そかったっていうか」
ぱぁっと耳どころか鎖骨に近い位置まで赤くなった庄野が、くるりと後ろを向く。一歩近づいたころで見える、ギリギリの位置にある赤い印。実に巧妙に、計算された位置にある所有印。
「ヨーク」
「大丈夫。今日の会議には関係させない。や、マジで平気だ。眠ってるっちゃあ眠ってるんだ。ちょっと細切れ過ぎてよく私にも睡眠時間がわかんなくなって」
自分じゃ付けられないキスマーク。今朝からの違和感に全ての筋を通す最悪な結論が導かれそうで、断固として拒否したい。なんだその腫れぼったい唇。心底嬉しいことがあった時にだけ星がでる不思議な虹彩が出てるのはどうしてだ。くそったれ、意味不明なことを言う恋しい同僚のケツを蹴り飛ばしてやりたい。僕は君が好きなんだと、君の言う意味じゃなく欲情してるんだと本人の胸倉をつかんで締め上げてやりたい。
苦しい。ちくしょう、恋なんてするものじゃない。
「京子さん、おはよう。デスクにつきもせずに私語なんてめずらし…………あ」
「あ? あってなんですか正木部長。おはようございます」
「うーん。……うーーん。残念だよ京子さん。ほんとうに、残念だ」
「二回言われた?!」
愕然とした顔の庄野を促し、机の並ぶ島の隅に誘導する。何も理解していない態の庄野に説明しようとは二人とも思わなかった。この超絶に鈍い女はまっったく悟らない。どうして周囲からウザい女性を排除してきたような男たちが庄野だけには自分から近寄っていっているのかの理由。
どうして昼飯に必ず付き添いがいるような社会人生活をしているのかの、その遠因。迷子になるからなんて後付けだ。顔が良すぎて女性というものに少々うんざりしていた彼らに、当たり前のような顔をして接してくる貴重性。切実な男心を常に無邪気に木っ端みじんにしていくくせに人間として温かい裏表のない態度。
なにも深い意味のない、純粋な食べさせ合いっこ。
兄妹じゃない、家族じゃない。だからこそ、この女を手元に置きたかったのに。
「キミのことだから、きちんとしたお付き合いするんだよね? うーん。おめでとう京子さん。初めての彼氏は、いつかに昼を一緒した木本さんかな?」
「うっわぁっ?! まるっとすべっと?!」
「お見通しだよヨーク。今日の昼もあの男と一緒なの? 後木も呼ぶから」
「は? あぁ?!」
「混乱してるとこ悪いけど京子さん。仕事の開始時間」
「ヨーク。じゃあ昨日の続きから始めようか」
正木とグローリアはきっと間違った。後から出てきた階下の住人とやらの距離の詰め方を見誤った。ぎりっと歯を鳴らしたいところを長めの瞬きで押し止める。
苛つく態度を見せる権利なぞない。
アプローチを長く取りすぎた、自分たちのせいなのだから。
「この間の案件、あれでオッケーみたいだよ。台湾の方のゴーサインが来てた」
「あ、じゃあ韓国の方にオッケーメール出す」
「うん。10時からのラボ会議はねぇ、新案件だって」
「は? グロウ、よくそんな情報、事前にもらえるなぁお前。トップシークレットだろ」
「僕にかかればね」
「うわ、ふふってガチで使いやがった!」
正木が去り際にグローリアにアイコンタクトする。中身はと言えば『何発イっていいと思う?』だろう。指で三本を立てて甲を向けた。にやりと笑った正木が自分の机に向かう。そのついでに後木を捕まえたようだ。はぁ?! という素っ頓狂な声があがり、即座に羽交い絞めされているあたり後木はグローリアの予想範囲を超えてこない。
越えてくるのはいつだって。
「そういやさぁ、私、ドイツの方の翻訳してたけどアレさぁ、一個だけ意味わかんなくて」
「え?! いつ読んだのヨーコ」
「一昨日もらって昨日の昼?」
「それでわかんない単語が一つ?」
「ん」
目をぐるりと回して無言のまま『呆れた』のサインを送る。ドイツの、ということは専門用語がふんだんに入った技術系の半論文だ。語句の言い回しに慣れないうちは半月ほどかかってもおかしくない。なのに。
あぁ、かなわない。
グローリアは庄野のマグカップに茶渋がぺたりと染みついているのを見て嘆息する。昨日と一昨日、庄野はマグを下げずに帰宅してしまったのだろう。朝一で気がつかないあたり、そうして自分に付けられたキスマークにも気がつない、うっかりさん。
腋の甘すぎる激鈍女。
有能な社員にして自分の同僚。
「キミが好きだ。ヨーク」
「んー? 私も好きだよグロウ」
「僕が引き出しに隠してる『恋♡チョコレート♡抹茶味』より?」
「なんだそれ面白すぎる! 新製品?」
向かいにある自分のデスクの引き出しからスティック状の顆粒コーヒーを取り出して振ってみる。チョコレート味なのか抹茶味なのか、すでにして味の想像がつかないが甘そうだ。グローリアにとってはそれだけの意味しかない。
「開発からの横流し。感想よろしく」
「おっけー。よし、早速で飲むか。グロウも一口いるだろ?」
「いる」
だが庄野にとっては『面白い』という意味を持つのだろう。何味だ、どこから回ってきたとグローリアに問うてくるキラキラした眼が眩しい。好奇心多大な彼女が、かわいくてイライラする。
自分のモノにならないなら……せめて幸せになってるかいつでも傍で見てたいじゃないか。
立ち上がった二人を視線が追いかける。正木と後木だけに甲を見せた状態で3本の指を立てると、まったく同じサインが返ってきた。横目でニンマリしているところまで一緒だ。
ふふんと鼻で笑った3人は、けれどその日の昼食に。
腰が抜けるほど甘ったるい庄野のデレ顔を見て、ああこれは恋敵を殴るとかそんな、マイナスな行動を取るのではなく速やかに。
「ヨーク、結婚だけがゴールでもスタートってわけじゃないよね?」
「シオノギさん、デレた顔すっげぇ、かわいいです。次はおれにしてみせてくださいね?」
「京子さん、彼のことで何か問題が発生したらすぐに聞くよ。安心して、どーんって頼ってきていいから」
密やかに。
奪還の闘志を燃やした。
はい、そういう話でした。大丈夫でしょうか。意味は通りましたでしょうか。
誰が誰やんという突っ込み、結局、あれ、どうなって終わったの?という問いには感想欄でお答えします(笑)。
申し訳ないのですが、誤字脱字だけは拍手にてお願いいたします。