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一週間前の朝、アオイが目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。妙に寒々しい照明に身体が芯まで冷えきってしまいそうになったことと、空調機の立てる音がやたらに耳についたことは、覚えている。
何がなんだか判らないままに体を起こすと、あわてた様子の医師と看護師、両親が部屋に駆けつけてきた。そのすべての人が笑顔で自分を迎えてくれたことも、覚えている。
しかし、それ以前の1か月間の記憶がすっぽり抜けていた。
思い出そうとすると胃が重たくなった。胃に何かが入っていれば、それを押し戻そうとし、入っていなければ黄色い胃液を吐き出そうとする。記憶を手繰るのを止めるまで、何度吐いても終わることのない吐き気に苛まされる。
どうして、自分が病院に運ばれる羽目になったのか。
どうして、記憶を失ってしまったのか。
どうして、周りの人がそれについて答えてくれないのか。
どの疑問も解決しないままに、アオイは退院させられて自分の部屋に戻ってきた。
初めに部屋に入った時に、ぞっとした。確かに戻ってきた場所は自分の部屋には違いない。無くなったものも増えたものもなかった――記憶が抜ける1か月前と比べて。1か月も暮らせば微妙に部屋の物が変わるものである。つまり1か月の間、何があったのか判らないようになっていたのだ。
親にそれとなく探りを入れたが、なんなくかわされてしまった。それで、友人に半分以上本気の泣き落としをかけて、やっと真実を手に入れた。
――よく聞いてね、アオイ。先月、私も初めてアオイから話を聞いた時は驚いたんだから。1か月前に私に話してくれたことを聞かせてあげる。本当はアオイの御両親にも、お医者さまにも黙っているように言われたんだけど、今のアオイには言わなきゃ駄目だと思うからね。
思わせぶりな前置きをした後に、アオイの親友はこう続けた。
――今までのアオイだったら、もしかすると笑っちゃうかもしれないけれど、アオイには佐倉ジュンヤさんという恋人がいたのよ。彼との間に何があったのかは知らないけれど、私が聞いたのはアオイが彼にふられちゃったってこと。それでアオイは精神的に不安定になって、倒れて、病院に運ばれて……1か月後に目を覚ました時には記憶がすっぽり抜けていたってことなのよ。
「おかしいんです。自分にそういう人がいたということは素直に信じられたんです。記憶じゃなくて、もっと心の底の方にそんな思い出が刻まれている気がするんです。それによく部屋を片づけたら、彼がくれた絵とか彼のアドレスとか、そういうものが出てきたから間違いはないんです。おかしいのは、ふられたなんていうことで、あたしが1か月も寝こんで、しかも記憶までなくしちゃったってことです」
すると、アオイは携帯端末ケースから分子シートを一枚取り出し、テーブルの上に静かに置いた。
「このシートを見てもらえば判ってもらえると思いますが……あたしの手術を担当した医者と、ジュンヤのことを調べてみたんです」
クロードはすぐさま分子シートを端末に差し込む。アオイが手術を受けた病院は、医療施設集中コロニー、コローネーにあった。カルテに不審な点は見当たらない。が、担当医をコローネーのドクターファイルに照会すると該当者無しというメッセージが出る。
一方、佐倉ジュンヤなる人物を、彼が住んでいたコロニー、タオースの住民ファイルやグラウクスにある彼の母校に照会すると、また該当者無しのメッセージが出る。そのくせ、彼が個展を開いたというパブリック・スペースには記録が残っているのだ。
「変だと思いませんか?」
「そうですね」
考えごとをしているクロードに代わってユイリがあいづちを打つ。
もし、佐倉氏自身が自分の存在を本当に抹消したいと思って記録を消すならば、むしろ、個展の記録だとか、そういう小さなものから手をつけるはずだ。官公庁や学校などといった大きな組織の記録は、その組織が大きければ大きいほど素人にとっては手がつけられなくなっていく。もっとも専門知識のある者ならば、大きな組織のネットワークほど脆く感じられるのだが。
アオイの手術にしても不審な点がある。詳しくは担当医師に事情聴取しなければならないが、アオイの話からして彼女は記憶操作された疑いがある。個人の財力やコネクションだけではとても、そんな大掛かりなことはできない。
佐倉氏は何か大きな組織の絡んだ事件に巻き込まれ、それを知っているアオイは記憶を操作された。そう考えるのが妥当のようだ。
「このことを、調査班では話しましたか?」
クロードの問いに、アオイは笑い顔と泣き顔が入りまじった表情で答える。
「まさか。公立の病院でそんな怪しげなことがあったなんて、普通は誰も信じてくれませんよ。せいぜい気が動転してるとか、そう思われるぐらいでしょう?
……でも、このままだとずっとジュンヤに会えそうもないし、それだったら、あたしが少しぐらい変な目で見られてもいいと思ったんです。
だから、話しました。
あたし、彼が会いたくないっていうのなら、会えなくてもいいんです。ただ、それすらも判らないでいるのが嫌なんです」
アオイが調べてきたことは、連盟市民としては法を犯さない最大限の線のところだ。自分の周りで起きた奇妙な事態の裏付けをするために、必至に調べたのだろうか。それとも、ここまでできるのは、やはり佐倉氏に対する想いの深さゆえなのだろうか。
――ひとまず、通常の手段を取ってみるか。
クロードは声を出さずに呟く。連盟市民としてはこれが限界だが、捜査特権を与えられたクロードたちにはまだできることがある。佐倉氏のことはさんざん調査班で調べてあるので、追加調査することはなさそうだが、アオイの手術担当医の方はまだ何かありそうだ。
「ユイリ、この担当医という人物を情報捜査してみてくれ」
「わかりました」
答えると、即、ユイリは端末に向かった。1分も立たないうちに結果が返ってくる。
「これは偽名です。名前からIDナンバーを検索したのですが該当者は見当たりません。それと、病院のデータベースにアクセスしてみたのですが、日向アオイさんのデータ周辺が一度破損して、修復されていることが判明しました。
しかも、彼女のデータのみバックアップがとられていなかったというミスがあり、情報技師が一人、職を失っています。それで、データ復元の際に担当医とは別の医師が残っていたカルテからもう一度、データを起こしています。カルテには厳密な記録は要求されませんから、何らかの手違いがあったとしても――それが偶然か故意かも、誰も真実を知ることはできませんね」
調査班から回される事件だけあって、一筋縄では行かない。予想はしていたとはいえ、こうもあっさりと捜査の糸が切れては、さすがに肩が落ちる思いがする。
やはり、非常手段を取るしかない。クロード自身はあまり使いたくない手だったのだが、やるしかあるまい。その手が使えるからこそ、クロードは生かされているといっても過言ではないし、そのために犠牲になっている命もあるのだ。
クロードはユイリにそっと目配せして、覚悟が決まったことを知らせた。それを受けて、ユイリはアオイに話し出す。
「佐倉氏から送られた、思い出の品のようなものはありますか? もし、お持ちでしたら借していただきたいのですが」
「持っていますけど」
アオイの表情にあからさまな嫌悪が浮上してくる。
「……思念追尾、ですか」
「はい」
アオイに動揺を押し隠して、短くそう答えるのがユイリにはやっとだった。どこまで広がっているのだろう、この調査班別室に類い稀なる賜物を持つ被提供者がいるという噂は。
絶句してしまったユイリに代わってクロードが言葉を継ぐ。
「ご存じのようだが、我が市民課調査班別室には優秀な思念追尾能力者がいる。それに任せておけばいい」
クロードはあえて「それ」という語を用いた。メモリーシークエンサーが男性であるか女性であるか知られずに済むからだ。
「でもあたしは……」
言いよどんでアオイは、胸に乗っているペンダントのヘッドを握る。それが思い出の品なのだろう。
「できれば、吸血鬼の力は借りたくないんです」
アオイが口にしたヴァンプというのは、レシピエントの蔑称だ。その言葉を聞いただけでユイリなどはめまいが起こるほど憤って紅潮してしまう。しかし、クロードはこういうことに慣れていたのと生来の性格とが幸いして、よほどのことがない限り、どんなに心の内面が揺れようとも表に出すことはしない。
たとえ、それが今回のように自分のことを指していたとしても。
メテオリック・カラミティ(M.C)の保因者の中に、一昔前なら超能力と呼ばれたであろう、E.S.P(超知覚)を持つ者がいると報告されたのは、5つの衛星都市が機能し始めて15年経った時だった。
彼らは普通の人間には知覚できないものを知覚することができる。たとえば、未来とか他人の感情の動きとかいったものである。その能力は神からの賜物――ギフトと命名された。
メモリーシークエントもそのひとつで、簡単に言えば、物や場所に込められた強い思いを、時間を越えて知覚できるというものだ。科学的には仮想粒子を用いた量子学的な仮説が成されているが、実証はされていない。
人の感情に関するギフトには、再現性の低い不安定なものが多い。メモリーシークエントは、その中で群を抜いて安定した能力である。
そして、ギフトを持つ者にはそれを公表できない理由があった。ギフトを持つ者が、例外なくレシピエントだからだ。レシピエントはM.C保因者の中でも症状が重く、メディスンと呼ばれる薬なしでは生きていけない人々のことである。
レシピエントはM.Cウイルスによって、運動神経を構成するアミノ酸生成に関わるDNAに欠損が起きている。薬の投与がなければDNAは途端に異常なアミノ酸を生成し、やがて運動神経に異常が生じて身体が麻痺してしまうのだ。それは最悪の場合、死を意味する。
問題はその薬、メディスンの原料が非常に特殊なもので、提供してもらうより他、供給されないということにあった。それが被提供者の語源である。そして、その蔑称である吸血鬼からは原料そのものが容易に想像される。
メディスンの原料は、人間の血液である。
その成分は他のいかなる物質からも合成されることなく、他のあらゆる生物の、あらゆる部位から抽出されることもない。人の血だけが唯一メディスンに精製できるのだ。その血液を持つ者、提供者も、誰でもよいというわけではない。直接血液検査をすること以外にドナーを特定する術はない。ただ判っているのは、ドナーは必ずM.C保因者であり、M.C保因者10万人に対し1人の割合で現れる。レシピエントはM.C保因者1万人に1人の割合で現れる。
1人のドナーは10人のレシピエントの命を支えている。よって、10人の命を救う必要量を1人から得るために、ドナーは血を採り続けられるだけの半ば軟禁状態といった過酷な生活を強いられる。
それでも、メディスンは常に不足しており、とても値がつけられるものではないため、汎衛星都市連盟が製造・流通を管理している。
レシピエントにヴァンプという蔑称があるほど、人に憎まれている理由はここにある。
レシピエントは、生きるために確実にドナーの生活を犠牲にしている。
この、自分が生きていくために他の人間を犠牲にしている、ということがどうしても受け入れられない、許せないと考える者が存在するのは確かであり、決して少なくないことをレシピエントは知っているので、自分の身の上を明かすことはない。
ギフトを持つ者がレシピエントであり、彼らがこうして世間から白眼視される限り、ギフトを持つ者は公表されないのだ。