096.夏休みバイト編 二日目 前編
「おはようございます」
勝手知ったるなんとやら。僕はとっとと制服に着替えて無人の事務室を通過し、厨房へと入った。
そこには、昨日と変わらないナイスミドルな店長と、目付きが完全殺し屋のパティシエの後姿があった。
「おはよう。早速だが手伝いを頼むよ」
「はい。仕込みでしたよね?」
――喫茶店「7th」の僕の仕事二日目が普通に始まる。
昨日はレジとショーケース周りの研修みたいな午前を過ごしたが、今日からが僕にとっての通常業務となる。
時間で割るとすれば、流れはこうだ。
八時半から十時半くらいまでが、朝の仕込みの手伝い。
それからランチタイムが落ち着くまでレジとショーケース担当。
少し休憩を挟んで昼食を取り、僕の上がり時間である三時半まで夕食の仕込みと皿洗いになる。ちなみに昨日店長と食事した後、僕は皿洗いをして過ごした。
そして、今日である。
店長・遠野崇さんの隣に立ち、僕はピューラーを持たされた。えっと、ピューラーっていうのは野菜の皮を剥く器具なんだとか。なんか髭剃りみたいなT字のやつだ。たぶん原理と理屈も似たようなものなのだろう。
で、目の前のボウルにはじゃがいもとにんじんの山がある。
……なるほど仕込みの手伝いか。まあ素人にやらせることなんてこんなもんだよな。
料理経験のない僕である。店長からしたら包丁を持たせるのも不安なのだろう。僕も不安だったし。……だって包丁って逆上した妻か愛人が男をよく刺す刃物じゃないか。恐ろしい。
包丁や鍋を慣れた手つきで扱う店長の隣で、僕はひたすら野菜の皮を剥く。
その間に、店長といろんな話をした。
やれ「ホワイトジェムのユミちゃんかわいいですよね」とか。
やれ「あれは九十あるだろう」とか。
やれ「マジっすか!? 九十ってそんな……ちょっと背伸びしたら三桁じゃないですか!」とか。
やれ「三桁……フッ。まさに夢の世界の数字と言わざるを得ないね」とか。
なんと有意義な時間だったことか。
あっと言う間に時間は過ぎ、すっかり仕込みが終わって手が止まった店長と、僕の手元には野菜の皮が山積みになっていた。
でも後から思えば、なんの実もないものすごーくつまらない話を延々としていたような気がする。
目付きの怖いパティシエ・十和田さんのケーキが焼きあがるのは、十時過ぎからである。それに併せて僕も店内に移動し、ケーキをショーケースに移していく。
「……」
「……おはようございます」
カウンターに乗せられた大量のケーキの甘い匂いを挟んで、もはや出生辺りの両親からの遺恨で根深い恨みがあるとしか思えないほど鬼気迫る目付きの女性と目が合う。
うん、今日も十和田さんは……その、絶好調のようだ。腰が引けるのだけは勘弁してほしい。
「……あの、僕のこと嫌いですか?」
そして思わずこんな質問をしてしまったことも許して欲しい。
「……」
十和田さんは何も言わず、厨房に引っ込んだ。……なんか言ってくれよー。なんか言ってくれー。怖いよー。
「ダメだよ」
クスクス笑う声に僕は振り返る。
「十和田さん、すっごい人見知りなんだから」
「私だってまともに会話できたの、知り合って一ヶ月してからなんだから」と、派手さのない白と黒のシンプルな制服に身を包んだ、しかしそれでも華やかな容姿のウェイトレスが、笑いながら十和田さんの背中を見送る。
――彼女は生駒湊さん。二つ隣の駅の三十三町にある短大に通う人で、かなりの美人だ。スケベ店長め!
光を反射するサラサラの黒髪ショートカットを前髪だけゆるく七三に分け、卵型の顔立ちに映える理知的な、それでいて優しそうな相貌。淡い色に輝くピンク色の唇が男としてとても気になるので、あまり見ないようにしたい。
そう、この人は美人だ。
それもすごい美人だ。
しかも笑うと美人じゃなくてかわいい。
それもそのはずで……僕は本当に驚いた。
――この人、しーちゃんに似てるんだ。あのC組のアイドルに。
さっき初対面して、一目見て美人云々より「どこかで会ったような」という違和感を覚え、すぐに思い当たった。ちょうどしーちゃんがあのまま二、三年ほど歳を重ねたら、きっとこんな感じの美人になると思う。……ほんとにしーちゃんは生まれる性を間違えたとしか思えない。
今日のシフトは、この生駒さんと、僕の教育係である熊野さんが入っている。今時の女子高生・新島さんは熊野さんと入れ替わりで午後から入るらしい。
ちなみに十和田さんのお菓子職人としての腕はかなりのもので、パティシエ志望の生駒さんは十和田さんに師事を仰いでいるのだとか。
生駒さんと一緒にショーケースにケーキを移す作業をしつつ、小声で話す。
「あの、僕、十和田さんに嫌われてるわけじゃないですよね?」
「嫌われるようなことしたの?」
「昨日入ったばかりなので記憶にはありませんが……ほら、なんか臭かったからとか。僕が厨房に入ると異臭がしたとか」
「…?」
あ、やだ! しーちゃん似の美人が顔をよせて匂いを嗅っ……うわなんだこれ恥ずかしい! なにこれすげえ恥ずかしい! 美人の急接近よりにおい嗅がれるのが恥ずかしい!
反射的に跳んで逃げた僕を見て、アイドルに似た美人は気にした様子もなく首を傾げる。そういうかわいい仕草やめろ好きになっちゃうだろ! あなたはしーちゃんと違って越えられるけど越えたくない絶対(性)の壁とかないんだから!
「臭くはないと思うよ。むしろ良い匂いがしたよ」
……まあ、そりゃ、朝のジョギングの後はシャワーを浴びて髪も身体も洗って汗を流しているから、その辺の野郎よりは清潔にしている自信はあるが。
でも「ちょっと臭いね」とか、あからさまに「気を遣ってます」って体で遠慮がちに言われたら、マジで立ち直れないぞ……
消臭スプレーだか制汗スプレーでも探してみようかな、と本気で悩み出した頃、生駒さんはじーっと僕を見詰める。だから好きになるからやめろよ! なんだこれ!? 年下の男を弄んで楽しんでるのか!? や、優しそうな顔して小悪魔な……顔に似合わず肉食系なっ…………でもそういうの嫌いじゃない!
「……一之瀬くんってさ、前にどこかで会った?」
「え?」
何この一昔前のナンパみたいなセリフ。男から女に言うと陳腐なのに、美人から冴えない年下に言われるとトキメキしかないんですが。
「たぶんないと思いますよ。だって僕、今年の春に八十一町に引っ越してきたんで」
「あ、そう。じゃあたぶん会ってないね」
「というかなぜそう思ったんですか? 前世の記憶ですか? 前世では僕らは戦士仲間で一緒に地球を守っていたとか?」
そうじゃなくて、と生駒さんは苦笑する。
「一之瀬くんが私を見る顔が、時々なんか初対面って感じじゃないんだよね。うまく言えないけどなんか違う」
僕はいつか何度か思い知らされた「女の勘」というフレーズを思い出した。鋭いなぁ……超能力の類なんじゃないか? 女はみんな超能力者か?
「それは……」
「それは? やっぱりどこかで出会ってた?」
いや、それは……ああ、うん。まあ別に隠すようなことじゃないか。
「生駒さんにそっくりな友達がいるんですよ。そのせいだと思います」
「え? ほんと?」
僕は意味なく生駒さんに近付くと、おどろおどろしい声で囁いた。
「もしかしたらドッペルゲンガーかも」
「あはは。私、怪談強いよ?」
笑い飛ばされてしまった。年上の余裕を感じる。
「じゃあ中身はあんまり似てないかもしれませんね。僕の友達は怖い話と痛い話は弱いので」
「へー。かわいいね」
そう、かわいいんだよね……禁忌に触れるかわいらしさなんだよね。しーちゃんはマジで反則だわ。
「で、一之瀬くんはその子が好きなの?」
「怖いこと言わないでください」
しーちゃんに限っては冗談になってないっつーの。……じょ、冗談になってないっつーの! 僕としーちゃんのデート風景とかその後のドキドキタイムまで明確に想像できるところとか冗談じゃ済まないっつーの!
「え? ごめん、なんか気に障った?」
「いえ……ほんと好きとか嫌いとか勘弁してください。最初に言い出したのは誰なんでしょうね。こんな人を狂わせる罪深いこと」
ほんとにもう……しーちゃん絡むと心が安定しないわー。僕には天塩川さんがいるのに……フラれるの前提になっちゃってるけど……
「……ごめん。なんか傷に触っちゃったみたいね」
――ピンと来た。
生駒さんのこの微妙な顔、僕が過去しーちゃんに告白してフラれたとか、そういう苦い過去を連想したのだろう。
……もう否定するのも面倒だったので、それでいいや。
だがそれより、もう一つピンと来たことがある。こちらはちょっと好都合かもしれない。
詳しい事情は話すつもりはないし、その時間もないが。
でも、この勘違いは使えそうだ。
「生駒さん、ちょっとお願いしていいですか?」
「おう。ちょっとくらいならおねえさんが慰めてやってもいいぞ」
なぜか男言葉になって凛々しく胸を張る(結構大きいかも!)生駒さんは、惚れちゃいそうになるくらい魅惑的な言葉を与えてくれたが、あいにく彼女が考えるような傷はないので甘えられない。
……というか彼女の好意に甘えたら、僕は彼女を好きになりそうだ。そうなったら今後しーちゃんを見る目がワンランク変わりそうなので、いろんな意味で要注意である。
だいたい生駒さん、完璧に僕のこと年下で対象外の男の子としか見てないからね。脈なしすぎるんだよ。
まあ、それよりだ。
僕の立てたプランは、今日から動き出している。
一学期間でやり残したことを消化するため、色々と考えたのだ。その一つを今日処理するつもりだった。
そこで、女の勘鋭い生駒さんに、手伝いを頼もうと思い立った。
幸い生駒さんも、興味くらいは持ってくれたみたいだし、聞き入れてくれそうだ。
「生駒さん、実はですね」
「うん?」
「生駒さんに似てる友達、ランチタイムに呼んでるんです。そこで――」
僕の相談に、生駒さんは快く……というか興味津々という感じで瞳を輝かせて了承した。
完全に面白おかしく楽しんでいる様子だが、まあ、嫌なことをしてもらうんじゃないのなら、むしろ幸いである。