095.夏休みバイト編 一日目 後編
自己紹介を終えると、熊野さんに僕の業務内容を簡単に説明してもらった。
僕は一週間限りの手伝いなので、いつもは真っ先に覚えさせられるウェイター研修はやらないそうだ。そういうのは長期バイトに必要なことだからね。
僕の仕事は、具体的には三つだ。
一、朝夕の仕込み。
二、皿洗い。
三、ショーケースとレジ周り。
「仕込みと皿洗いについては厨房の人に聞いてね。だから私からの説明はほとんどショーケースとレジになるよ」
……うーん……
「僕バイト経験がないんですけど、いきなりレジとかお金扱うところに入れるんですか?」
かなり重要そうなポジションなのに、熊野さんは事も無げにうなずく。
「テーブルの場所とか注文とかメニューとか料理運んだりお冷くばったり、その辺の接客は何日か研修って形で憶えてもらうんだけどね。でも一之瀬くんは一週間限りだから、即戦力になりそうなことをやらせようってことで決まったんだよ」
「それがレジ?」
「そ。最初は苦労するかもしれないけど、慣れればウェイターより楽だからね」
そうなのか……ミスに気をつけないとな。こういうお店とか、一円でも合わないとあとで大変って言うしな。
「つーわけであとで直接レジに触ってもらうから。その時に基本的なところだけ憶えてね」
これで僕の業務内容の説明が終わった。結構ざっくりな印象だが、でもわかりやすかった。何より、今必要以上に詰め込まれても憶え切れないからね。
「そんじゃ他のスタッフに紹介するけどー」
熊野さんはゆるキャラらしからぬ真顔で僕を見詰めた。……なんだ?
「店長は調子に乗りやすいから、あの人が言うことより他のスタッフの言うことを優先してね」
…………おい店長! バイトにこんなこと言われてるぞ!
でもまあ、わかる気はするが。僕が店長でも同じことバイトに言われる自信があるわ。
逆に言うなら、それだけ周りのスタッフは優秀で、そんなことを言わせるくらい店長はフランクだってことだ。店長は嫌われているどころか、たぶん親しみやすいんだと思う。あの人、渋い見た目によらず軽いもんなぁ。ノリは違うが某五時からのテキトー男みたいだもんなぁ。
本気なのか冗談なのかいまいちわからないがとりあえずうなずいて、熊野さんの案内でさっき覗いた厨房へ移動する。
「店長、準備できました」
「ああ、ご苦労」
手元で何事か作業している店長は、返事から数秒遅れてこちらを見た。ナイスミドルは柔らかくナイスに微笑む。
「一之瀬君、今日からよろしくね。わからないことと困ったことがあったら遠慮なく誰かに聞くといい。基本は『焦らない』だ。まずそれさえ心がけてくれれば大きな失敗はしないよ」
「わかりました」
焦らない、か。そうだな、昼時は忙しそうだったし、だからこそ焦ったらミスしちゃいそうだもんな。
「十和田君」
呼びかけると、僕に背を向けていたもう一人の料理人が振り返る。
……おうっ!? め、目付きがすげぇこえぇ……!
「彼女は十和田冬。無口だが優秀なパティシエだよ。慣れたら彼女の手伝いもしてほしい」
年齢は、たぶん二十半ばから上だと思う。細身で僕より背が高く、百七十近くある。熊野さんと同じように首の後ろで結わえた茶色の髪は長く……そして衝撃を受けた、刺すような鋭い視線が僕に向けられている。つか、睨んでる。すげー睨んでる。めっちゃくちゃ睨んでる。
「……す、すみません、僕なんか早速悪いことしました……?」
あまりの眼力の圧に、しぼり出した声がかすれる。視線の危うさだけなら、狂戦士沢渡夏波さんと鬼人遠野洋子さんをはるかに凌駕している。お、恐ろしい……僕なんて貧弱な存在、息をするがごとく自然にヤラれてしまいそうだ……
「……」
彼女……十和田さんは首を左右に揺る。僕を睨みながら。……え? 察するに、僕のさっきのためらいの返事?
「はっはっはっ。十和田君は一之瀬君を気に入ったようだ」
え、うそ!? うそでしょ店長!? 睨まれてるけど!? 今もすげー睨まれてるけど!? マジで!?
……怒気や殺意さえ感じるんだけど、どうやら十和田さんとしてはそのつもりはないらしい。つまり僕の被害妄想ということか……あれが十和田さんの素の顔なんだろう。
はぁ、いかんいかん。
女性を見た目で判断するなんて、僕はまだまだ紳士には程遠いようだ。
店長と十和田さんに挨拶を済ませ、店内に移る。
客側と従業員側。単純な立ち位置の違いで、知っているはずの店内もちょっと違って見えた。
「うちは朝八時開店で、ランチは十一時から一時半まで。朝は十時くらいまでは余裕があるから、一之瀬くんは明日から店入ってすぐは仕込みの手伝いになるから」
なるほど。朝はそんなに忙しくないから厨房仕事をしろ、と。――ちなみに僕の勤務時間は、八時半から三時半までである。
そういえばレジの脇にあるショーケースも、まだケーキとか入ってない。完全に準備中の段階である。
店内を見回すと、新聞を広げたりノートパソコンをいじりつつ朝食を取るサラリーマン数名と、ビシッとスーツのやり手のキャリアウーマンみたいな人が四名ほどいるだけだ。
「弥子、ちょっと」
まだがらがらの店内で、テーブルを拭いていた店員さん――じゃなくて同僚のスタッフが、熊野さんの呼びかけに振り向き、こちらにやってきた。
「なんすか? あ、それが新入り?」
「うん。一之瀬くん、これが新島弥子」
「おっす」
紹介された弥子さんがフレンドリーに笑う。
――彼女はとにかく小さかった。背は百四十半ばで身体も細い。おかっぱのような黒髪のボブカットがより幼く見せていると思う。なんなら中学生でも通じるくらいの童顔で、笑うと尖った八重歯がかわいかった。
「新島弥子十七歳独身。よろしく」
歳はともかく独身はいらんだろ。……えー、十七ってことは、僕の一つか二つ上だな。……女子高生か! いいね女子高生って! 店長のスケベ野郎!
「一之瀬です。よろしくお願いします」
「おう。ところであんた、誰にボコボコにされたの?」
「え?」
「カナさんと来た時、私も店内にいたし。一度お冷入れに行ったんだけど。憶えてない?」
あ、そうなのか! 初来店で顔が梱包材のプチプチ張りにボッコボコだったあの時会ってたのか!
「すみません、あの時は色々余裕がなかったもので……全然憶えてません」
「そう。まあそれはいいや。誰にボコボコにされたの?」
えらい聞きたがるな。まあ、話のネタにはなるんだろうね。
「弥子。店内で物騒な話しない」
「へーい。休憩の時に聞かせろよな」
……うん、弥子さんは本当に今時の女子高生らしい。こう……やっぱり生命力というか、元気が目に見えて輝いている。もちろん嫌いじゃないね! 店長のスケベ中年!
――あとシフトが違うスタッフが数名いると聞かされ、いよいよ僕の業務場所となるレジとショーケースへと移動した。
出入り口正面に位置するレジと、その隣にあるショーケースの説明と使用方法を学び、……早速会計に来たキャリアウーマンをぎこちなくも普通にさばき、唐突に訪れた僕の初レジ仕事は無事達成。
自信がつくとかそういう暇もなく、作り物のケーキとトングでショーケース周りの仕事の練習をする。
えー、ケーキを扱う時はエプロン着用義務。つまりウェイター仕事がない僕の場合は、基本的にエプロン着けっぱなしでいいわけか。あと研修生のネームプレートをつけると。
ケーキは店で食べる場合と持ち帰りの場合がある。店で食べる場合は注文があってから皿に乗せ、持ち帰りはこの紙袋に詰める、と。
焼きあがったケーキは厨房と隣接した後ろのカウンターに用意されるので、下のトレイごと入れ替えて……と。このカウンターには料理も並ぶが、ウェイター仕事がない僕はこれはノータッチだ。
「憶え早いね」
「え? 普通だと思いますけど」
熊野さんの指導の下、みっちり一時間も繰り返せば、ケーキもレジも普通にできるようになった。けど……本当に普通だと思う。ああ、でも、レジはもう少し練習したいな。大事なところだから。
「そっか。普通か。私も弥子も憶えるの苦労したんだけどな」
基本私らバカだからなー、と熊野さんはのんびり言う。
「ウェイター仕事抜きだからっていうのは大きいと思います。単純に憶えることが少ないですし。あと熊野さんの教え方が良かったんですよ」
「お? なんだよー。褒め上手だなー」
いや、褒める言葉さえも普通でしたが。
そんな比較的のんびりしていた朝の時間から、少しずつ来客が増えてくる。
ランチに向けて一緒にケーキをショーケースに補充していた熊野さんも、新島さんと一緒になってウェイトレスへと歩き回るようになる。
僕はできることがない間、とことんレジ打ちと操作の自習に時間を費やした。
ランチが始まる昼時は二回目の来店時に見ているので、忙しくなるとレジ付近がかなり不安だったのだ。
それに、僕がちゃんとレジ打ちできれば、熊野さんも新島さんもきっと楽になる。洋子さんの代打として入った以上、あまり恥ずかしいミスは犯せない。僕の恥は、ここを紹介した洋子さんの恥になるから。
徐々に客が増え始めた。
最初の内は熊野さんと新島さんがちょくちょく隣に立ったり声を掛けたりしてくれたが、ランチタイムが始まって本格的に慌しくなる十一時半を過ぎると、ほとんど見向きもしなくなった。
たぶん傍目には、僕は案外危なげなくできているんだと思う。
内心ずっとミスしないかとひやひやしていたが。小銭出す時もたついたりして。
時計を見る暇もなく。
気がついたら昼を回り、一時が過ぎ、ランチタイムが終了していた。
ピークを過ぎたようだ。
たくさん並んでいたケーキもほとんどさばけたし、いつの間にか体感的にも見た目としても慌しさがなくなったように見える。
「一之瀬君」
真後ろからの渋い声に視線を向けると、焼き上がったケーキや料理を置くカウンターに両肘を付く店長がこちらを見ていた。
「お昼にしよう。事務室に来てくれ」
お、やった。やっと休憩だ。
時刻を確認すると、二時だった。もうこんな時間か……あっ。
「熊野さん」
通りかかった熊野さんを呼び止め、朝の注意に習って聞いてみた。
「休憩? いいよ。行けば?」
「いや、店長が言ったから……店長の言うことより他の人の言うことを優先するんですよね? 行っていいんですか?」
「ああそう。……まあ、それ聞く前にさ」
熊野さんは苦笑して、僕を……いや、僕の後ろを指差した。
「せめて店長が聞いてないところで言おうね」
「あ……」
振り返ると、店長が寂しそうな顔して笑っていた。
そして熊野さんがトドメを刺した。
「でもそれでいいからね。店長の言うことは基本的に話半分で」
「はは……熊野君も言うようになったねぇ」
――そんなくだけたやり取りを見て、僕は店長とスタッフの仲の良さを現しているんだと思った。
事務室に回ると、少し遅れて店長もやってきた。
「はい、どうぞ」
店長はトレイに乗った皿をテーブルに置く。おお……これが噂のまかない飯ってやつか。
ソファーに挟まれたテーブルに並ぶ二枚の平皿。立ち上る湯気と香りに刺激され、僕は腹が減っていることにようやく気付いた。
……やはり初日だし、未経験のことだし、ずっと緊張していたのだろう。ふと額に手をやれば汗に濡れていた。クーラーが利いているのに。練習の時と客がいる実践とじゃ心理的にも全然違ったしな。
まあ、それは今はいい。今は目の前の食事だ。
まかないはリゾットのようだ。肉や野菜の切れ端がたくさん入っていて具沢山である。
「おいしそうですね」
「おいしいよ。私が作ったんだから」
と、店長はバチンとウインク。……いや、不自然に見えなかったからシャレた仕草であることは認めるけれど、僕にする必要はないと思う。
……いや待てよ!?
もしやこれが店長の女の子にモテるテクニック……モテテクか!
ふむ、こいつぁ僕も練習しとかないとな。
そんなことを考えながら、店長と向かい合って座り、早速リゾットをいただく。
「あ、うっめえ!」
一口含んだだけで広がるブイヨンのうまみ。あー、久しぶりに食べたけど、記憶の中にあるリゾットよりこっちの方がうまいわー。さすがは料理のおいしい喫茶店のシェフだ、まかないもうまい。
「一之瀬君」
店長はニヤリと笑う。
「料理ができる男はモテるぞ」
「マジですか」
料理……料理か。そうか……僕はそれも練習しなければいけないわけか。全然やったことないけど、モテるためであるのなら僕は全力で努力しようと思う。
幸い今は夏休み、この代打バイトが終わればまた時間は捻出できる。
それまでに、僕はこの人から色々とテクを盗んでおこうと思う。
この人はモテるだろう。男の目から見てもわかる。ぜひともこんな中年男性に成長したいものだ。
「仕事はどうだった? トラブルはなさそうだったが」
「ああ、はい、大丈夫だったと思います。熊野さんの教育が良かったんでしょう」
「そうか。彼女は三ヶ月目なんだよ」
「…? 妊娠が?」
「減点だよ、君」
おお、店長の目が厳しい。
「女性の多い職場だからね。セクハラは絶対厳禁だ。一人に嫌われたら全員に嫌われると思いたまえ」
人生の大先輩の言葉は重かった。……うん、気をつけよう。セクハラのつもりなんて全然なかったんだけど、軽率な発言ではあった。
「大変だよ。……本当に大変だよ……」
「……店長?」
…………なぜか遠い目になった店長とぎこちなく雑談して十五分ほどゆっくり過ごし、「さて」と立ち上がる店長と一緒に、僕も仕事に戻ることにした。
「あ、店長」
厨房に入る前に、帽子をかぶりながら前を行く店長に呼びかけた。
「知り合いの割引って、ほんとにいいんですか?」
実は、初対面での面接の後、電話で細かい話を詰めたのだ。店長は単純に忙しいので、仕事が上がってからしかゆっくり話せる時間がなかった。
その中で、夏波さんから聞いていた通り「バイト代が若干安い」という話題が出た。どうやら店長は「7th」の支店を増やすために色々がんばっているのだとか。元々の手伝いの洋子さんのバイト代が安いのもその辺に理由があるらしい。……お金絡みだから、あまり突っ込んで聞くのは憚られるんだよね。
だがその代わり、友達や知り合いには、任意で全メニュー百円引きで提供して良いのだとか。
「露骨な言い方をすれば、少し安くするからこの店の宣伝をして客を連れてきてくれ、ってことさ」と、店長は冗談めかして言っていた。本心なのかどうかはわからないが、口コミ効果は狙っているんだろうと思う。
そう考えると、女性スタッフが多いのも、ちょっと納得できるのだ。女性の噂話に乗ればそれなりの宣伝効果が望めそうだから。……まあ友達いないスタッフはアレかもしれないけど。
で、僕はその割引を期待して、この一週間をどう過ごすか策を練った。
今更「あれは冗談だよ」だの「ああ、あれ? ナシね」とか言われたら困るので、確認しておきたかったのだ。
だが、店長の行動は僕の予想を超えた。
「ああそうだ。ちょうどいいから渡しておこうか」
と、店長はパソコンの乗っているデスクに向かい、ズボンのポケットに持っていたカギ束から一つ選び、引き出しのカギを開けた。
「はいこれね。自分で使ってもいいし、友達にあげてもいいよ」
そこから数枚、チケットを手渡された。何事かと見ると……おお、割引券だ! それも五百円券が五枚も!
「貰っていいんですか?」
「ああ。百円引きも構わない。ただしちゃんと記録に付けておくように。あと他のお客様に見つからないようにしてくれ」
「わかりました。ありがとうございます」
よし、これで準備はできた。
あとは僕のプラン通りに事を進めるだけだ!
……まあ、あの八十一高校がある八十一町の喫茶店である。
当然、僕などのプランがそのまま通るわけもなく、予定外の出来事が頻発することになるのだが、当然そんなことを今の僕が知るはずがなかった。