091.――夏休みスペシャル 一年生一学期のお兄ちゃん ~前借したお小遣いは兄のお小遣いで補填した~
「初めまして、一之瀬友歌です」
一週間遅れでスタートした六永館中学校の学生生活。
私は一切の心配をしていなかった。
私には自信があった。
容姿も学力も運動神経も、平均より高いと自負している。トップには立てないかもしれないが、常にいいところをマークし続ける。
悪目立ちするほど目立ちすぎず、軽視に繋がるミスもしない。
それが私のスタンスだ。
それに中学三年という、進路を大きく左右する大事な時期である。こんな時期にわざわざ必要以上に転校生に構ったりしないだろう。
兄が何の疑問も抱かず、また抗うこともせず上がった普通の公立中学ではなく、ここ六永館はそれなりにいい私立中だったから。
いわゆるエリート連中が、この時期に無駄な時間を費やすものか、と。
私の予想は、まあだいたい当たっていた。
小学生の頃から磨き上げてきた必殺スマイルで、転校初日に鶴見奈緒さんという友人を得た。ちょっと気が弱そうなかわいい子だ。
そして二週間後には、六永館で「わりと気になる女子生徒」として名を上げ、告白してきた同じクラスの男子を軽妙にフッた。
一週間の予期せぬ出遅れというハンデはあったものの、学校生活は順調と言えるだろう。
だが、問題は別のところにあった。
私は兄を反面教師としている。
兄、一之瀬友晴。
どこにでもいるような普通の男の子で、特筆すべき点など一つもない。
キツイからスポーツは嫌と言い、じゃあ勉強するのかと問えば「しんどいから嫌だ」と言う。大方「保健体育の勉強だけは自発的にするけどね」とでも考えているだろう怪しげな笑顔がすでにセクハラだ。
そんなこんなで小・中学と何もしなかった兄は、ぐーたらゴロゴロして漫画読んでゲームして女性を見る目は鋭いという兄は、身体も貧弱なもやしっ子の兄は、当時小学生だった私の反面教師となっていた。
普通ではダメだ。それでは兄と一緒だ。
だから私は運動も勉強もがんばって、己の平均を上げた。そしてそれをキープする努力もしている。
特に、あのセクハラっぽい笑顔を真似しないよう、さわやかな笑顔を練習した。
兄の笑顔……というか表情全般、なんかくすんでるんだよね。内なる闇がにじみ出ているというか、胡散臭いというか。
だが、別に兄のことは嫌いじゃない。
常に「こんな奴に似たくねえな」とか「兄妹だと思われたくねえな」とか「もう一緒に外を歩くことはねえだろうな」とか「友達呼ぶ時は部屋から出てこないように言い聞かせよう。あと靴も部屋に持っていけと言おう」とか。そういう想いで観察はしているが、別段嫌っているわけではない。
まあ「好きか?」と問われると答えに窮しはするけれども。でもそれは仕方ないだろう。その……そう、思春期だから。嫌いなわけじゃなく思春期の難しい年頃の女の子だから。
兄の数少ない美点として、女性に優しいというところが上げられる。
女性に接する時は八割方下心が見え見えで見ている方が恥ずかしい時は多々あるが、さすがに私を下心丸出しで見たことはない。だからこそ、私に優しいのは、単純に兄の優しさだと思う。……まあ色々弱味は握っているが、妹のささやかなお願いに弱味云々など関係あるはずがないだろう。
そんな優しい兄に、私はだいぶキツイお願いをした。
それが、新学期一週間の出遅れである。
私たち一之瀬一家がこの八十一町に引っ越してくる直前。
私が足を怪我したせいで、自分の部屋の引越しの準備が終わらず、色々悩んだ末に結局兄に私の代行を頼んでしまった。自分のツケを擦り付けてしまった。
いくら学校では兄の存在を抹殺している私でも、「友歌ちゃんって兄弟いるの?」の問いに「いないよ。一人っ子だよ」と返していた私でも、自分の大ポカに付き合わせてしまったのはすごく悪いと思っていた。
いよいよ引越しの日が迫り、まるっと準備が終わっていない切羽詰った私は、「準備は兄にやらせる」と家族に言い放った。
前触れもなく、兄に打ち合わせもしていなった。
そんな急に指定された兄は「マジかよ……」と一言呟いただけで、あとは何も言わずに了承した。私を責めもせず、抗議もせず、説教もせず。
仲が良かった友達との別れ。好きには遠いが気になっていた男の子もいた。小さな頃から住み慣れていた町とお別れし、知り合いがいない新天地での生活への不安。そして気持ちと一緒に遅々として進まない引越しの準備と、段々痛みが増していく足の怪我。
たぶん兄がごねたり何か言い出していたら、私はたぶん泣いただろう。傍目には平静を装っていたが、内心かなりテンパっていた。気持ちも身体も一切準備なんてできていなかったから。
そうして捻出された最後の、本当なら存在しない最後の一週間で、気持ちと身体の準備を整えたのだ。
関係ない兄を道連れにして。
新生活に不安はあったが、うまくやる自信はあった。
そして実際うまくやって、うまいこと馴染みつつある中、私の問題は別のところ――つまり兄にあった。
一週間遅れで転校初日を過ごした私と。
一週間遅れで入学初日を過ごした兄と。
すぐにできた友達の鶴見さんと一時間ほど話し込んで、夕方頃家に帰ってきた私は、リビングのソファに浅く腰掛け俯き身動き一つ取らない兄に迎えられた。
「……どうしたのお兄ちゃん」
ぶっちゃけ「誘い受けかようざいな」と思ったものの、兄が背負っている絶望的な何かは、さすがに演技だとか「構ってオーラ出してます」だとは思えなかったので訊いてみた。
すると兄は、死んだ目で私を見た。
「……あの高校は……」
どうやら初日から学校で何かあったらしい。だが兄はそれ以上何も言わず、立ち上がってふらふらと自室へ引っ込んでしまった。
――翌日、鶴見さんに「八十一高校ってどんな学校なの?」と兄の存在を隠しつつ問うと、鶴見さんは気が弱そうなのにはっきりと「あの高校はバカばっかりらしいよ」と答えた。
バカばっかり。
まあ別に兄の高校生活に興味はないので、あえて追求するまでもない。
だが、私が不当に一週間もの時間を使わせたせいで兄に何かがあったのであれば、それはさすがに看過できない。
「ちょっと高いわね」
「だったらお兄ちゃんの分はいいんじゃない? これやめて、これ買って」
「うーん……そうね。友晴ももうアルバイトできるものね」
駅前にある八十一HON-JOというショッピングセンターのブティックで。
カゴに入っていた兄の上着を棚に戻して、母にちょっと高いカーディガンをねだったりしつつ、私は兄の心配をして心を痛めるのだった。
まあそれはそれとして、このカーディガンは掘り出し物だわー。