090.七月二十日 水曜日 終業式
終わった。
終わったのである。
なんだろう、この気持ち。
達成感?
それとも一時的にここから離れられるという安心感だろうか?
初登校時から何度絶望したか知れない。
いったい何度この異常な環境に苦しめられ、精神的苦痛と肉体的苦痛を味わったことか……
いろんなことがあった。
たった三ヶ月程度なのに色々あった。
こうしてまぶたを閉じるだけで、それこそ走馬灯のように思い出がフラッシュバックする――が、あえて思い出すまでもないか。卒業するわけじゃあるまいし。ただ一学期が終わっただけだ。
本当に事件の絶えない毎日だったと思う。
この先、二学期、三学期もこんな毎日が続くかと思うと、本当に胃が痛くなりそうだ。
「おまえらみたいなモンが夏休みとか片腹痛いんだよ! わしの毛返せコラァ!!」
全校生徒が集まっている体育館に、大人の、いい大人の、人生の折り返し地点を順調に通り過ぎたのだろう中年男性の魂の叫びがこだました。
悲痛にして強気で、殺気めいているのにどこか哀愁がある。
そんな聞く者の魂を揺さぶる叫びで僕らの一学期終業を祝福したのは、校長先生である。
――後に聞いた話によると、武闘派ではない校長は昨日の「神々の黄昏」に巻き込まれて、ただでさえその大地に少なくなった人生の長い友を失ってしまったらしい。ぶっちゃけ軽くむしられたのだそうな。
「はい校長先生ありがとうございました」
冷静どころか冷徹ささえ感じさせる進行役の空手部顧問バーコード頭の教頭先生が、ツルッツルの校長の挨拶を打ち切った。……まあ正しい判断だろう。校長は少々錯乱している。
だが校長はその声が聞こえておらず、まだまだ祝福の言葉を言い足りないらしい。「クソガキどもが無事卒業できると思うなよてめえら全員ボーズだボーズボーズにしなかったら退学にしてやんよああ職権乱用だよ文句あんのかよクソックソッようやく長年の努力が実ってかわいい産毛が生まれてきていたのにおまえらみんな鬼だ鬼だー」とマイクを離さない彼の元に、体育教師を筆頭にした数名の教師が壇上から引き摺り下ろそうとするも校長は抵抗を続け、下半身は引っ張られて宙を泳ぎ上半身は教壇にかじりつくという脅威の駄々っ子ぶりを――あ、弥生たんの蹴りがボディに入った。
……途端、校長は眠くなったアルパカのようにぐったりして、そのまま引きずられて舞台の袖に退場となった。ちなみにモフモフの動物をたとえに使ったのは偏に僕の思いやりである。校長、日進月歩で進化している今の植毛技術はすばらしいですよ! 育ててないで植えようぜ!
初っ端から熱い終業式はつつがなく終わり、僕らは教室へ戻ってきた。
これからホームルームがあって、大掃除があって、本当に一学期終了である。
「え? ほんと?」
「ああ。妹の中学も今日が終業式だから、昼食は一緒に外食する予定だ」
「そっか」
隣の柳君を「どこか寄って帰ろう」と誘うと、そんな返事が返ってきた。そっか、藍ちゃんと一緒に食べるのか。藍ちゃんか……久しぶりに会いたいな。
「じゃあどこで食べようか?」
「じゃあの意味がわからない。なぜ一之瀬が一緒に来ることが決定している?」
「人が多い方が楽しいからだよ」
「……」
「人が多い方が楽しいからだよ」
「……」
「人が多い方が楽しいからだよ」
「……」
「人が多い方が楽しいからだよ」
「……」
「人が」
「わかったから黙れ」
フッ、やったぜ! 柳君の心をへし折ってやったぞ!
「いい機会だし、藍ちゃんと『7th』来てみない? 確かに料理は美味しかったし、場所教えておきたいし。それともどこで食べるかもう決まってる?」
「いや……そうだな。相談してみるか」
柳君は携帯を出し操作する。
唯一の話し相手がいなくなって……僕はふと、クラス中を眺めた。
これが本当に一学期終了の終業式の日なのか。
夏休み直前で浮かれてはしゃいでいる連中が騒がしい、そんな光景が容易に想像できるのに、現実は違う。
半数が夏休みを目前に泣いているか、昨日の聖戦で身体と心に傷を負って欠席という、お通夜か学級閉鎖かってくらいに活気のないひどい状態である。
このクラスだけに限らず、どこも似たようなものだった。
まあ僕が今言えることは、昨日、聖戦の引き金を容赦なく遠慮なく考えなく引いた、もはや戦犯とでも言いたくなる近年希に見るお調子者の田沢君が今マンガ読みながらノーテンキに笑っているのが引っかかるってことくらいだ。彼は昨日の大惨事なんてもう忘れたらしい。忘れるなよっ。君すげーことやらかしたんだぞっ。
他に言うことはない。だって自業自得としか言いようがないから。
……高井君も泣いてるしなぁ。そりゃ補習が一週間からほぼ三週間に増えたのだから、そりゃ泣くしかないよね。言えることがない、慰めの言葉さえ見つからない現状、今日は一度も彼と話していない。……話しかけないのも優しさだろうと思う。
そんな惨状を眺めていると、担任・三宅弥生たんがやってきた。
「おーし席に着けー。鼻噛んだティッシュしまえー。地球を守るのもやめろー」
EDFである。
そもそも席を立っている奴が少ないという静か過ぎる終業式当日の有様は、やはり異常ではなかろうか。
でも弥生たんはまったく気にせずさっさと話を進める。暑いから早く職員室に帰りたいのだろう。
「夏休みの注意事項からな。補習は明日から、九時から十二時までだ。忘れるなよ。一日でもサボッたら家まで行くからな。絶対に逃げられないと思え。いざという時は応援団が行くからな」
おお、応援団が教師側につくのか。まあこの年代だと、教師より先輩の方が強制力っていうか、脅威的ではなかろうか。武闘派で有名な応援団なら特に。
「……はぁ。私の夏休みも短そうだな……」
あ、溜息と一緒に本音がポロリした。昨日のアレで本来なら補習は最長十四日だったのに、二十日に増えたんだよね。ほんっとマジで先生方には頭下がるわ。もう全て放り出したくなるようなバカばっかなのに、それでも投げ出さないのだから。面倒見ようというのだから。……バイト代出たら差し入れでもしようかな。
それから「警察の世話にはなるな」や「無茶なナンパして通報されるな」や「犬に噛まれても泣くな」とか、言うまでもない注意事項が続く。あえて言うくらいには毎年発生件数が多いのだろう。ほんとご苦労なことである。
諸々の注意が終わると、弥生たんは僕らを見回した。
「以上だ。で、このホームルーム終わったら大掃除だけど、これにテコ入れがあったから説明するぞ」
ん?
「大掃除は昨日のバカ騒ぎに関わったバカだけでやることになった。昨日のアレに参加してない奴は帰っていいからな」
――弥生たんが言うには、参加した人数が人数だったせいで、職員室とその周辺がとんでもない有様になっているのだとか。
職員室と近辺の廊下の窓ガラスは一つ残らず全壊し、先生方のデスクはめちゃくちゃにされプリントや資料や小テストは散らばりクリップや画鋲は広がり、どこぞのバカがあの大きいデスクを数人掛かりで投げたりもしたらしい。その一事だけでもめちゃくちゃである。
一番悲惨なのは、ボーナスでローン組んで買ったばかりの高いノートパソコンを壊された先生もいたらしい。
そんなこんなで、まさに嵐が直撃し全てをなぎ倒した痕のような、手の付けようのない荒れっぷりなのだそうだ。
「私のPSPも動作がおかしいから、昨日のうちに修理に出したよ。おまえらほんと何やってんの。私にガンパレー●マーチ歌わせないつもりか」
……先生こそ何やってんの。学校でもゲームか。学校でもEDFか。
「さすがに人災の処理を、関係ない連中にやらせるわけにはいかないからな」
とのことらしい。参加していない僕らからすれば嬉しい話だ。……というか、弥生たんの言う通り、関係ないのに後始末を任されても確かに困るわ。納得できないわ。
「それじゃこれで一学期を終わる。――クラス委員、号令」
竹田君の号令の下、僕たちは立ち上がった。
こうして、僕らの一学期が終了した。
いろんなことがあった。
たった三ヶ月程度なのに色々あった。
こうしてまぶたを閉じるだけで、それこそ走馬灯のように思い出がフラッシュバックする――
が、あえて思い出すまでもない。
「じゃあね高井君」
「……」
ゾンビもかくや、という生気のない思いっきり死んだ目で僕らを見ている、二割ほど身体が小さく(というか筋肉の張りとツヤがなく)なったかのように見える高井君に挨拶し、僕と柳君、ついでにマコちゃんは一緒に教室を出た。
今の高井君には、これ以上の言葉は不要だろう。下手なことを言うと傷つけるだけである。
さあ、夏休みだ!
天塩川さんのこととか、しーちゃんの膝枕とか、コスプレ喫茶での新たな出会いとか、色々解消してやるぞ!