087.七月十六日 土曜日
「うわっ」
半ば予想はしていたが、嫌味なくらいに予想通りである。
「だ、だいじょうぶ?」
生意気盛りの妹でさえ真っ先に心配するほど、予想通り僕の顔は腫れに腫れ上がった。
妹よ、気持ちはわかるぞ。
洗面所で見た僕でさえ自分の顔に引いたわ。
もうなんというか……じゃがいも的な? もしこの顔が地面なら自転車で走ると確実に腰やるだろ、みたいな凶器的凹凸感というか? パンダもビビる(かもしれない)青痣とか?
一夜明けた翌日、まさに負け犬と言わざるを得ない、そんな顔になっていた。ちなみに昨日は妹とは会っていない。帰宅してからずっと部屋に引きこもっていたから。
「妹よ」
僕はニヤリと笑う。妹は「うわしゃべった」と失礼な反応を示す。なんでだよ。しゃべるよ。ボッコボコになってもしゃべるんだよ。
「僕はこれでもきゃったんだぜ?」
「……は? きゃ?」
妹は素で何を言っているのかわからなかったようである。
仕方ないのだ。口の中も腫れまくりで、すごくしゃべりづらいのだ。気合を入れてしゃべらないと「妹」なんて「いみょーと」とか「いもと」になるのだ。舌が上手いこと動いてくれないのだ。
僕は現時点でのコミュニケーションを諦め、ついでに食べられそうにないので朝食も諦めて冷蔵庫のミネラルウォーターだけ飲むと、とっとと学校に行くことにした。
――妹よ。僕はこんなボッコボコの負け犬の顔にされたけどさ。本当は勝ったんだぜ。
湿布を貼った顔が痛い。そして熱い。
そのせいか、どうも身体の熱も上がっているようで、結構ダルイ。
微熱のせいで今日は早朝ランニングも見送り、できれば学校を休んで寝ていたかったのだが、さすがにそういうわけにもいかないのだ。
昨日は朝イチでボコボコにされて、保健室に担ぎ込まれて、午後には早退してしまった。
担任の三宅弥生たんに「またかよ」と嫌な顔をされて車で送ってもらったのだ。球技大会から二度目の送迎である。
でも、あの人はやはり、僕らの気持ちがわかっているんだと思った。
弥生たんの車の中で交わした会話は、そんなに多くなかった。
「ケンカってことにしとくから、あとは自分で親に説明しろ。それで多少無茶でも明日は学校に来い。朝から保健室で寝ててもいいから」
弥生たんは多くを聞かない。
なぜ僕が殴られるに至ったのか。
加害者は誰か。
いったい何があったのか。
さすがに何も聞かないってのは、放任主義の度を過ぎているだろう。
「何も聞かないんですか?」
逆に僕が聞くくらいに無関心なのだから。つつかれて説明に困るのがわかっているのに。
「一之瀬の目が負けてたら聞いたかな。でもおまえ、納得づくでその顔なんだろ? なら私の出番はないな」
ほんとにすげえな、と思った。
「私は今地球を守るので忙しいんだから、あんまり手間かけさせるなよ」
……それはEDFですね。地球守るより生徒見守ってほしいんですけどね。そう言いたくなったが、口の中が痛かったからやめた。
弥生たんの言う通り、今日は少し無理して登校した。
というのも、弥生たんの指示もそうだが、もう一つやるべきことが……というか片付けなければならない用事があったからだ。
コンビニで朝食代わりの野菜ジュースと、必要になるだろう菓子パンを買い、僕は我らが一年B組の教室へと踏み込んだ。
「うわ、一之瀬だ!」
「ぶはははは! マジでボッコボコじゃねえか!」
「ありがとう一之瀬!」
「おまえの犠牲は無駄じゃないぞ!」
「一之瀬昨日逃げてごめ――ぐふっ」
教室に着くと、昨日の噂くらいは聞いていたのだろうクラスメイトたちがわらわら集まってくる。
武勇伝を聞かせろ、とばかりに。
あと壁役おつかれ、と。
写真ゲットしたよ、と。
あと敵前逃亡した裏切り者の城ヶ島君はぜひ制裁を下してくれ、と。ええ下しましたよ。万感の念を込めて。
色々話したい……というよりダルイから早く座りたいところだが、僕は「用事を済ませてくる」と、鞄だけ置いてすぐに教室を出た。
向かう先は、二年の教室である。
「すんまへんしたっ!」
上手く口が回らないものの、きっちり頭を下げたおかげで、決してふざけているわけではないという気持ちは通じたらしい。
廊下に呼び出した僕の目の前には、昨日、あられもない姿で僕らの前に現れた女神・守山のおねえさ……アニキがいた。見ている方も暑苦しい長ランで。だが今日も美人である。掛け値なしに美人である。
暑いせいか、それとも僕自身に怒り心頭なのか、アニキの表情はやや険しかった。
「……おまえなんで来たの?」
「え?」
顔を上げると、やはりアニキの顔は険しい。
「基本、応援団は負けっぱなしは許されてねえ。昨日のはうやむやにしたから、あれで決着でよかったんだよ」
なのにわざわざツラ出しやがって、とアニキは舌打ちした。
えっと……察するに、僕が詫びを入れに来たせいで、アニキの中で解決していた問題をほじくり返してしまったとか、そういうことになるのだろうか。
いや、でも、だ。
「さすがに謝りに来ないっていうのは、ちょっと……」
さすがに重いだろう。昨日僕がやってしまったことは。いくら正気を失っていたとはいえ。
「ポロリさせちゃったし」
「おい!」
ポロリに反応して、アニキは僕の胸倉を掴んだ。……あ、近い。ときめいちゃうからやめて!
「そんな情けねえ表現やめろ! 堂々出したっつーの! むしろ自分からモロ出ししたっつーの!」
あ、ポロリ表現がダメでしたか。そうっすね。「つい出ちゃった感」丸出しですもんね。なんか男らしくはないっすよね。あとなんか小さそうっすよね。かわいいものがポロッて感じっすよね。いえ何がとは言いませんが。
「ボローンさせちゃったじゃないですか」
アニキも納得のクオリティで言い直すと、彼は僕の胸倉を離した。
「…………それもなんか微妙だけど、まあ、それで我慢してやる」
ボローン表現はOKらしい。よかった。なんかすごくデカそうなのがボロンこぼれ出る感じですもんね。いえ何がとは言いませんが。
――まあとにかく、僕はこの時点で確信していた。守山先輩もやはり八十一高校の生徒なんだな、と。パン争奪戦の時も思ったような気はするが、……うん、まあ、やはりって感じである。
「それに先輩のやわ……たくましい身体にすがりつくなんて赤裸々なこともしちゃって……」
ちなみに僕はおぼろげにしか憶えていないし、柔肌……とは言いがたい肌の感触なんて全然記憶にない。やったような気がする、くらいのものである。
「つかさ、おまえらなんなの?」
アニキは怒ってるんだか困ってるんだか、という感じで強い目のまま眉を八の字に下ろす。
「男が女物の水着着てるってだけで恥ずかしいのに、なんで撮影すんの? そんなに俺の恥が嬉しいの?」
嬉しいですけど! 嬉しいですけど何か!?――って言ったら僕は昨日の二の舞になるだろう。これ以上は勘弁である。
「恥とかなんとかは……その、僕が言えることでもないれすけど、気にしなくていいっすよ」
「気にするっつーの」
「いやほんとに。マジです。アリはもう、アレれすよ」
「あれってなんだよ?」
「――僕らは憧れの先輩の写真が欲しいらけです。それ以上の理由なんてありません」
…………
「もう一回言ってみろ」
妙な間を挟んで、アニキは繰り返しを要求した。
「それ以上の理由はありますん」
「どっちだよ。てゆーかそこじゃねえ。ナニがれのナニがなんだって?」
あ、そこ? どうやら守山先輩の琴線にボロンと触れたらしい。……つかナニがれって。
「憧れの先輩の写真が欲しかっただけだす」
「あんな格好の?」
「憧れの先輩の写真がふぉしかったらけるす」
「マジで? なんか俺地味にいじめられてんじゃねえかって思ってたんだけど、マジでか? 入学してからやたらしつこく狙ってくるしよ」
「マジれふ」
「てゆーかおまえ口の中だいじょうぶ?」
「いたいれふ」
会話の間に休みが取れなかったせいで、どんどん口調があやしくなっていく。今はポンポンいかれるとついていけないようだ。
「そうか……」
守山先輩は腕を組み、何度かうなずく。
「別に舐められてるわけでもないのか」
それこそなんでだ。むしろあるのは尊敬と羨望と感謝です。
この八十一高校において応援団っていうのは、いざという時の切り札のようなものである。運動部の応援は当然として、他校とモメたと聞けば仲裁に入り、文化部からの力仕事の要請には快く応じる。個人的な相談にも乗ってくれるらしいし、心が動けば聖戦にも助っ人してくれる。
もはやこの高校の縁の下の力持ちと言っていいだろう。だからこそ、きっと僕らは疑うことも眉を寄せることもなく、彼らの古臭い格好ごと自然と存在を認められるんだと思う。
「もしにゃめてるなら、こうして詫びなんて入えに来まへん」
「ああ。口調は舐めてるとか思えねえけどな」
すんません。しゃべれないんです。……これ以上言葉がボロボロになる前に、さっさと切り上げた方がいいかもしれない。たぶん聞き苦しいだろうし、また逆鱗に触れたら大変だ。
僕はそう決めると、手に持っていたコンビニ袋を差し出す。
「時間がにゃかったのれこんにゃおんふかはれ」
「おい待て。さすがに何言ってんのか全然わかんねえ」
ふむ。どうやら僕のはやる(逃げる)気持ちに舌が付いて来ないようだ。
心持ちゆっくり丁寧に言い直してみる。
「時間が、なかったので、コンビニでしか、用意、できませんでしたが、よかったら受け取って、ください」
「別にいらねえよ」
「え? でも、バームクーヘンですよ?」
「…………おまえさ」
「はい?」
「俺ら応援団は、不良じゃねえんだよ。そりゃ見てくれは時代遅れのこんなんだし、遅刻もするしたまには授業もサボるし、ケンカは大好きだ。でも放課後の訓練は絶対に欠かさないし、タバコも酒も、サツの世話になるようなものは一切禁止だしな。
もう一度言うぞ。俺たちは不良ではないんだ」
守山先輩は二回ほど「不良じゃない」を強調し、そして言った。
「バームクーヘンっておまえ、不良の先輩に対する差し入れじゃねえか」
――発祥は知らない。なぜかもわからない。だがルールではそうなっている。
不良の先輩への差し入れはバームクーヘンと。古き良き昭和の時代から決まっているらしい。
「ダメですか? 一応僕の気持ちなんですけど」
というか、これでも気を遣ったつもりなんだけどな。バームクーヘン。
「……気持ちか。じゃあ貰っとくわ」
守山先輩は「これは受け取るけど、俺らは不良じゃねえからな」と今一度念を押すと、魅惑の尻尾を揺らしながら教室へ戻っていった。
これでとりあえず、昨日のMSTT作戦の後始末は全部済んだだろうか。
ボロンへの詫びも入れたし、あの様子なら守山先輩もきっと忘れてくれるだろう。
守山先輩の後姿を見送り、僕も踵を返した。
――憧れのおねえさ……アニキといっぱいしゃべっちゃった! 至近距離で!
顔と口の痛みなど忘れて、擦れ違う男どもが「うわっ」と小さく呟くようなこの上ない(たぶん不気味すぎたのだろう)笑顔で、教室へと向かう足取りはともすればスキップになりそうなくらいに軽かったのだった。