083.七月十三日 水曜日
「一之瀬ちょっと!」
「やっぱり龍脈じゃない?」「いや、あれは素人には危険すぎる」と風水的なことを話していると、教室に飛び込んできた高井君が一直線にやってきた。
隣の柳君が「近頃、白虎の方位に大きな気の乱れを感じるが……」と何事か言いかけたのを遮るように、高井君が僕の前に立った。……今日も直視を避けたいシースルーである。
「おはよう。どうしたの?」
大した話はしていなかったので、あまり余裕がなさそうな高井君の用件を促してみた。
そして高井君は率直にそれを話し始めた。
まあ、話し始めたというより、勅命が来たというべきか。
「カナさんがおまえに頼みがあるんだってよ」
……ああ、そう……頼みがねぇ。夏波さんから僕に頼みがねぇ……拒否権のない頼みって、それはもう命令っていうんだと思うんだけどね。まあ、今更もういいけどね。
これで断ったり聞いてないことにしたりすると、高井君が大変な目に遭うのだろう。そりゃ余裕もないはずである。
あんまり聞きたくないけど……逃げられないよなぁ……仕方ない、か。
「頼みって何? こっちから連絡取った方がいい?」
「たぶん取った方がいい。大雑把に言うとだ――」
僕は高井君から大雑把な事情を聞くと、席を立った。
刺すような日差しがじりじりと肌を焦がす。
今日も容赦なく暑い。
僕は雑音の少ない屋上までやってくると、夏波さんの携帯に電話を掛けてみた。メールだと時間が掛かりそうな用件なので直で話した方がきっと早い。
数コールの後、相手が出た。
「あいよ」
――お? お、男……!? 男の声……!?
予想だにしなかった受話器からの野太い声に、僕は固まった。
あれ? 掛け間違えたか?
僕は夏波さんに掛けたつもりだけど……え? ま、まさか、夏波さんの彼氏……!? あんな絶望的な、っていうかすでにマイナスの女子力なのに彼氏ができたのか……!? バカなっ……!!
しばらく……たぶん五秒ほど何も言えずにいると、向こうの男が口を開いた。
「……ああわりい。君、一之瀬君だろ?」
「え?」
「俺は秋雨の兄貴だよ」
あ……ああっ! 高井君のお兄さんか!
「今、洋子とカナと他数名で朝メシ食ってんだ。で、あいつら今化粧室。君のことは一方的に知ってたから電話に出ちまった」
驚かせて悪かったな、と高井兄。声が低いせいかぶっきらぼうな印象はあるが、あまり荒っぽい感じはしない。
「どうも初めまして。一之瀬です。弟さんにはいつもお世話になっています」
「はは、逆だろ。テスト勉強とか見てやったって聞いてるよ」
「いや、本当にお世話になってます。荒事方面で」
「……ほう? そりゃなかなか興味深いな。八十一高校はマジで荒事多いんだろ?」
ええまあ、と答えたところで、向こうで「先輩それ私の携帯!」と、本来聞くはずだった荒ぶる女子大生の声が聞こえた。
「今度ゆっくり話そうや。じゃあな」
高井兄は僕の返事を聞くことなく切り上げ、たぶん携帯を持ち主に返した。かすかに「悪い悪い」と聞こえたような気がした。
「友晴か?」
今度こそ出た。荒ぶる女子大生・格闘戦士沢渡夏波さんだ。
「おはようございます。高井君のお兄さんが出てびっくりしました」
「ああ、悪かったな。あの人はあとで制裁しとくから」
いや制裁って。……何をするかとか、先輩にそんなことできるのかとか、色々疑問はあるけれど……触れるのはやめておこうと思う。夏波さんなら何をしても不思議じゃないし。アイアンクローでシメ落とすくらい平気でやりそうだし。
「高井君に聞いて連絡入れたんですが」
「ああ、うん。いきなりで悪いけど頼める?」
……拒否権がない頼みは、命令って言うんですよ。夏波さん。――よっぽど言いたかったが、命が惜しいのでこれもやめておこうと思う。
「要するに、バイトの代役ですよね?」
日程からして夏休みの一週間、朝から夕方まで時間をくれ、と。高井君から大雑把に聞いたのはそういった話である。
「そう。大学の合宿があってな、その間頼みたいんだけど」
「僕じゃないとダメなんですか? 高井君は?」
僕よりスペックは高いし、かつ僕より親しいであろう高井君にまず話が行くのではないだろうか。というかたぶん行ったはずだ。なのにこうして僕に話が回ってきている理由は――
「あいつはたぶん補習だってさ」
あ、そうですか。……赤点回避できなかったんだね、高井君。ご愁傷様。
「あんまりぶっちゃけたくないんだけど、この際ぶっちゃける」
「はい?」
「元々が親戚のツテで手伝ってるだけに、バイト代が安い。だからその辺の奴に頼んでも断られるんだ」
ああ、なるほど。わかりやすく言うなら、実家の手伝い的な感じだから正規のバイト扱いにはならないよ、ってことか。だからバイト代も安い、と。
うーん……まあ、面倒がない分だけ楽といえば楽だけど。
「履歴書書かなくていいし、学校の許可もいらない。年齢も不問だ。建前上は手伝いだからな」
そう、その辺の手間が省けるよね。履歴書とか書いたことないし。
そうだよなぁ。夏休みだからこそできることに、アルバイトって候補も考えていたし。でも僕はまだ十五歳なだけに、できるバイトもかなり限られるはずだ。選べるほど職種があるとも思えないし……
でもまあ、第一に、悩むだけ無駄か。
「どうだ?」
……はは、「どうだ?」という問いかけの中に「おまえやるよな? まさか断るわけないよな?」という無言の圧力を感じるのは気のせいですかね。
「夏波さんの話なら断れません」
抗いがたい圧力も確かに感じるが、夏波さんの頼みを断れない、というのも本音である。
譲ってもらったジャージ、日曜ごとのコーチ、喫茶店でのおごり、おまけに(今後二度とないだろうけど)恋愛の相談にも乗ってくれた。
なんだかんだで色々世話になっているのだ、顔を立てる意味でも承諾してもいいと思う。どうせ夏休みにしかできないことがしたいとも考えていたのだ。良い機会だと思えばいい。
「おおそうか! やってくれるか!」
「あ、でも」
たぶん大丈夫だとは思うが家の都合と予定が重なるかもしれないので正式な返事は夜に、ということで、この場の話をつけた。
「で、何のバイトなんですか?」
「喫茶店だよ。実は――あ」
あ?
「友晴か? 私だ」
女性の声が変わった。たぶん携帯を奪い取ったのだろう。
「おはようございます、洋子さん」
「おはよう」
先程電話に出た高井兄の彼女・上位格闘戦士遠野洋子さんである。
「この話、私の代役なんだわ」
あれ? そうなんだ。
「夏波さんのバイトの身代わりじゃなかったんですね」
「うん。私と話すより話が早いだろうってことでカナに頼んだんだけどね。今ちょうど一緒にいたから代わったわけ。悪いけど頼むわ」
「わかりました」
電話を切り、溜息をつく。
これで一応バイト決定か……やれやれ。




