071.六月三十日 木曜日
確変期突入を確信して一日が過ぎ去り。
不安定極まりなかった僕の精神状態は、今非常に落ち着いていた。
昨日はあれからが大変だったのだ。
正常にない精神状態のため、あまりにも周囲を見なかった僕。隣の柳君は元々あまり気にしないが、覚醒した乙女マコちゃんも僕の状態を見て周囲に気を遣っている場合ではなかった。
一度懲りていたから、二度はないと思っていた。
人は学習する生き物なのだ。
失敗し、反省し、改善し、同じミスを繰り返さないからこそ、今の文明を築き上げることができたと言っても過言ではない。
あんなに大声でしーちゃんとの約束(スク水黒ニーソで膝枕ヒャッハー!)をわめき散らせば、当然聞く気がないクラスメイトにも、聞く気があるクラスメイトにも聞こえてしまう。
来たのだ。
ええ、来ましたよ。
ヤンキー久慈君主催の、二度目の裸正座祭りが。
まあそんな一騒動があったりなかったりして、僕自身はだいぶ落ち着いたように思う。
そうだ。合コンで女の子受けを狙うためにマスターした手品とかやってる場合じゃないのだ。同じく合コンで女の子受けを狙うために憶えた花言葉とか披露している場合じゃないのだ。
しーちゃんとの約束……いや、あの天塩川さんへ告白するタイミングを考えなければならない。
「どうしよう?」
思わず呟く。
タイミングを見て天塩川さんと接触、のちにフラれるとして。僕の精神状態やほか諸々のタイミングを合わせないと、しーちゃんの膝枕がヤンキー久慈君主導で潰されかねない事態になってしまった。
いや、むしろ昨日の様子では、潰すどころか久慈君はしーちゃんの膝枕を横取りする気になっていたように思う! アイドル大好き四人組が心底裏ましそうな顔をしていた横で、久慈君は僕からしーちゃんの膝枕をカツアゲする気になっていたように思う!
僕の目を甘く見るなよ。たぶん自分が欲望まみれなだけに、他人の欲望にもわりと敏感なのだ。……特にエロスが関わると超人的なほどにね。
六月最終日である本日木曜日、早朝。
いろんなことに頭を悩ませる僕は、家の前から走り出せずにいた。
これから八十三町にある二上一番坂へ行き、坂道ダッシュがてら九ヶ姫の陸上部を待つのもいいが、やはりタイミングを逸すると「フラれたばかりかしーちゃんまで奪われる」という、泣くくらいでは済まされない墓穴を掘りそうだ。
理想を言うなら、休日に事を済ませたい。クラスメイトに悟られないよう、休日の内にフラれて膝枕の流れを得たい。……だがその前にスク水と黒ニーソを準備しておくべきだろうか……準備不足は予定の遅延と直結である。
……ってちょっと待て。
僕はどうやってスク水を手に入れればいいんだ? 黒ニーソってどこで売ってるんだ?
しばらく考え込み、僕はそろそろと故障したランナーのように走り出した。
考えることが残っていた。
特に準備を整える必要がある以上、まだフラれるわけにはいかない。どうやら今日は、あの坂道まで行く必要はなさそうだ。
考えねばならない。
次に天塩川さんに会う時は、スク水と黒ニーソというご褒美アイテムを揃えた上で、かつしーちゃんのアポを取って帰らなくてもいい日を確保してからということだな! あとカメラも必要だ! 記念撮影なんて当たり前だ! 撮り損じてもすぐ確認できるようデジカメが望ましいか!? ……まあしーちゃんのためにも「顔は隠していいよ」と優しさを見せておかねばなるまいが。
夢は膨らむ。
妄想は広がる。
空は曇っているのに、僕の心は晴天だ。
そう――確かに天塩川さんに対する恋心は、成就する可能性は薄い。というより皆無だ。告白するだけ無駄なことである。
だが万が一、本当に万が一ということがある。
柳君の言う通り、男女関係とは、何があるかわからない。もし天塩川さんが彼氏と別れていたりすれば、もしかしたらほんの少しでも可能性が――いや、これ以上考えるのはやめよう。期待すればするだけ、待っているのは絶望だ。
そんな成功率底辺な告白より、その後の「しーちゃんのスク水姿の撮影しかも黒ニーソで膝枕付き」という確定事項の方が、考える価値がある。何せこっちは誰かに潰されない限りは確実に実現するからだ。
あのしーちゃんの、あのアイドルのスク水姿だぜ?
フラれた傷心状態を埋め合わせして、なおお釣りが出るわ。
自然とニヤけるのは許して欲しい。浮かれるのも許して欲しい。
だが、目の前の事象は、僕にそれを許さなかった。
自然と目が見開く。
頭のスイッチが切り替わり、身体の芯が強く脈打ち、心の底から熱いものがこみ上げてくる。
――赤ジャージだ。僕の前方を、あの赤ジャージが走っている。
後ろから追い抜かれることが常で、僕が後ろから見かけるのは始めてだった。今日は家の前で考え事をしていたので、いつもの時間がズレたせいだろう。
八十三町の坂道に行ったり雨で走れなかったりと、あいつを見かけるのは本当に久しぶりだった。
やはりあの屈辱の背中は忘れられない。
僕がもっとも見たくないものの一つだと再確認させてくれた。
……いや、まあ、うん。
短パンから生えた足と、その奥に隠された桃源郷は、本人の性格に関係なくなかなかイイ形だと思うがね。
――そう思った途端、赤ジャージは弾かれたように後方を、つまり僕を振り返った。
最近、本当につくづく思う。
女の勘ってもはや超能力レベルなんじゃないか、と。
…………まさか魅惑の桃源郷に注ぐさりげなくも熱い僕の視線に気付いたわけじゃないよね?
ここのところ色々ありすぎてすっかり忘れていたが、僕が今走り続けているのはあいつのせいだ。
荒ぶる女子大生にシメられたり、トレーニングとして隣町まで走りに行って天塩川さんと出会ったりしたのも、あいつがいたからだ。
あいつとの出会いが、僕が今抱えている問題の元凶だ。
望むことや望まないことを含めて、本当にいろんなことの元凶だ。
――出会ってしまった以上、奴に礼をせねばなるまい。
赤ジャージもそのつもりらしく、僕を確認してから前を向いて走り出すも、先ほどまでの速度とは段違いに遅い足取りだ。
僕に、早く追いつけと。そう言っている。
安心しろ……やってやる!
僕は速度を上げた。
足の腱を力強く利かせ、獣のように大腿筋をみなぎらせ、足の回転を少しでも上げるよう連動する両腕を振る。
ほぼ毎日やっているだけに身体が軽い。雨で走れない日も、全力で走る形での足踏みなど、まあ手を抜いたり気を入れたりしつつも努力はしていた。
始めて赤ジャージと出会った時とは比べ物にならないほど、走るための身体が出来上がっているように思う。
若干の余力を残しつつ疾走する僕は、赤ジャージと並び――勝負が始まった。
地面を蹴る足、はずむ息遣い、景色が後ろに飛んでいく。
まるでパートナー同士であるかのように、僕と赤ジャージはお互いわずかのリードも許さず、並んだまま走り続ける。
今日は、いつも出会う場所よりゴール地点に遠かった。ゴールである八十一大橋まで長く走らねばならない。
そしてそれ以上に、いつもは追い抜いてから出会うようないつもの顔……仲良く朝の散歩をしている老夫婦や、ミニチュアダックスを連れた大柄なおっさんという面々を、全力で追い抜いていく。
いつも擦れ違う金髪美人は僕らの全速力を見て避けながら「Oh!」と声を上げ、いつも狂ったように僕を吠え立てる小型犬は吠える間もなく過ぎ去った。
いつもより長い距離だが、あの頃より体力が付いている僕には、大した差ではない。そしてそれは同じように走っている赤ジャージも同じである。
幾分のペースダウンもなく、僕らは一進一退さえなく、並んだまま走り続ける。
大橋まで、あと少し。
――ラメ入りリップで武装した、エイリアンくらいなら素手でねじ伏せそうな五条坂先輩を想像し、僕は絶望という名のスパートを掛けた。
心臓が嫌な意味で騒ぎ出し、背筋に氷以上の悪寒が走る。
ほんのわずか、十センチほどリードしたかと思った時、若干遅れて赤ジャージもスパートに入った。
……速い!
わずかに奪ったリードなのに、もう追いつかれた。しかもじりじりとリードを奪われている。
僕は更なる絶望……五条坂先輩がついに裸で真後ろを走っているという危険すぎる薪を心に放り込み、更なるスピードアップを図り――
風を切って八十一大橋を駆け抜けた。
肩で息をする。……体力的な余裕はなくもないが、ほんとしんどい。
赤ジャージとここに来ると勝敗関係なくいつも思う。
なんでこんなどうでもいい勝負に躍起になるんだろう、と。
でも今はこんなことを考えていながら、やっぱり明日出会えばまた走るのである。無駄に。全力で。
それにしてもだ。
僕と、髪の乱れた赤ジャージは、少し離れたところで睨み合う――決着がわからなかったからだ。途中までは確かに赤ジャージが勝っていたが、終盤で僕は追いついた。だが「追い抜いたか?」と問われると答えようがない。
……ズルで勝つのは一番最初の一回だけでいい。たとえ負けでも、今は公正なジャッジが欲しい。たぶん赤ジャージも同じ気持ちなのだろう。
誰か見ていたかもしれない人はいないかと周囲を見ると……いた! いつも置物のようにベンチに座っているステテコ肌着で腹巻じーさんだ!
僕の視線を追い、赤ジャージもじーさんを見た。
……じーさんは、前は見ているが僕らを見ていない。果たして僕らが目の前を走り抜けるのを見ていただろうか。しかも見ていただけではなく、どちらが速いかを注意深く観察していただろうか。
いや……無理か。無理だろ。
僕がそう思った時、赤ジャージがスタスタとじーさんに近付き、
「――」
何を言ったかは聞こえなかったが、何かしら声を掛けた。
そして置物のようにピクリともしなかったじーさんが動いた!
ぷるぷる震える右手を上げ……、ぷるぷる震える指先を……、ぷるぷる僕に向けて……、ぷるぷる全身を震わせて震える声で言った。
「早い男ぁ嫌われるぞぃ……」
いや何の話だよバカ野郎! じじい! ――僕は瞬間的に思った。こいつ絶対下ネタとして言っている、と。
「マミ子さんや、飯はまだかい……?」
と、赤ジャージの手を握るじじい。――確信したね。こいつ絶対ボケたフリして女の子の手を握っているな、と。
しかも両手で行きやがった。いやらしく手を撫で回してやがる。……触り方に熟年の技を感じるな。
まあとにかく、たぶんじじいの判断では、僕の勝ちってことらしい。
ここで勝ち誇った笑い声でもあげて赤ジャージの悔しがる顔でも見てやろうかと思ったが、じじいのセクハラですでに困った顔をしているので、それで溜飲を下げることにした。別に暇じゃないしね。
ま、ひとまずこれで、夏波さんにいい報告ができそうだ。勝利の喜びよりなんだかすごくほっとした。
今日のところはそれでいいや。
さ、帰ろっと。
いつまでも赤ジャージなどに構っていられない。それよりスク水と黒ニーソの入手方法を考えなきゃ。