070.六月二十九日 水曜日
「あ、一之瀬くん!」
教室に来るなり、覚醒した乙女マコちゃんが駆け寄ってきた。
「大丈夫?」
不安げに僕の顔を覗き込み、そう言った。
「何が?」
「え?」
僕は笑った。
「僕は全然大丈夫だけど、どうかした?」
マコちゃんはたじろいだ。
「……な、なんてさわやかな笑顔……でもさわやかなのにどこか虚ろ……」
「はは、おかしなマコちゃんだ。そんなのいつもの僕じゃないか」
「ち、違うよぉ。いつもの一之瀬くんは、もっとくすんだ感じで……心の闇がいつだってちょっとだけ滲み出てるよぉ……今なんか百パーさわやかだよぉ」
はは、ちょっと何言ってるかわからないね。変なマコちゃんだ。
「マコちゃん」
僕は軽く拳を握り、すっと右手を突き出し――手首を返して拳を開くと、そこにポンと一輪の花を取り出した。
「さ、これを……花言葉は『愛よ蘇れ』。可憐な君には可憐な花がよく似合う」
「し、しっかりしてよ一之瀬くん! そんな場末のバーで過去の栄光にしがみつく元ホストのおじさんみたいな手品しないでよ!」
はは。マコちゃんはツッコミがうまいなぁ。
「よう」
心なしか顔を青ざめ、一輪のツワブキ(造花)を手にたじろぐマコちゃんと僕の隣に、柳君がやってきた。
「おはよう柳君」
「ああ……あ?」
柳君が、僕を見て、止まった。
「…………どうした一之瀬?」
「何が?」
「いつもの薄皮一枚下に隠した下心はどうした。どこにおいてきた」
「はは、ちょっと何言ってるかわからないけど」
柳君もおかしなことを言うものだ。
「柳君」
僕は軽く拳を握り、すっと右手を突き出し――手首を返して拳を開くと、そこにポンと一輪の花を取り出した。
「さ、これを……花言葉は『ミステリーサークルの謎を追え』。君にピッタリの花さ」
「なんでTV版ルパ●の題名みたいな花言葉になってるの!? コスモスの花言葉は『乙女の真心、調和』でしょ!?」
「詳しいな坂出」
「あ、うん。まあこれくらいは女のたしなみだから。……柳君は花って好き?」
「どうかな。意識したことない」
「あん、ダメよ。モテる男は有名な花言葉くらい知っておかないと」
「……まあそれよりだ」
一輪のコスモス(造花)を手に、柳君は遠目をしている僕を見つつマコちゃんに言う。
「坂出、一之瀬はどうした? 何かあったのか? こいつはこんなに穢れのない晴れやかな表情ができる奴じゃない」
「何気にひどいわね。その……たぶん失恋したんだと思う、けど……」
「失恋?」
失恋。
そう――確かに僕は、昨日失恋したのかもしれない。大好きなあの人に恋人がいると聞いて、思いっきり絶望の底に叩き落されたかもしれない。実際帰りにちょっと泣いたしね。ちょっとだけね。
だがどうだろう。この開放感。
思い煩っていた悩みともすっぱりお別れし、今僕を縛るものなど一つもない。今なら空だって飛べるんじゃないだろうか。それくらい心も身体も軽い軽い。
世界は明るいのだ。
僕がこれまで見ていた世界はどこか薄暗く、目を凝らすだけで誰かの明け透けな野望や欲望や……いわゆる黒い感情が見え隠れしていたように思う。
しかし、本当は違う。
世界は明るいのだ。
汚い感情にまみれていると思っていたこの世のくすみは、全て自分の心の表れである。猜疑心と欲望と野望にまみれた目で周囲を見ていたから、周囲も同じような目で僕を見ているのである。
それに気付いた時、僕の世界は変わったのだ。
世界はこんなにも明るく、暖かで、優しいのに。
そのことに気付いた時、失恋なんて小さなことでうじうじしている自分の小ささなんてどうでもよくなった。
はは、地球はデカいんだぜ。力いっぱい叫んだって世界の果てには届かない。
地球のデカさに比べれば、僕の心なんてちっぽけなものさ。
「つまりこれが一之瀬の傷心状態?」
「たぶん」
「大丈夫か?」
「大丈夫じゃないと思う……なんか空だって飛べるとかブツブツ言ってるし……」
世界の素晴らしさを確認し、確信した僕は、何やらひそひそ話している友人二人に顔を向けた。
「何を話しているんだいキミタチ」
「こっち見るな」
「や、柳君! 言い方!」
「だが今の一之瀬の顔は気持ち悪い。いつもより気持ち悪い」
「え、そう? ……わたしわりとアリなんだけど。見慣れると、普段と違う魅力のギャップが」
「そうか? 俺はいつもより気持ち悪いだけだな」
はは、柳君は冗談がキツイなぁ。……冗談じゃなかったらぼっこぼこにしてやっからな。イケメンが。はは。今の僕に失うもんなんて何一つねえぞ。
「……ちょっと待て。あいつを呼ぶ」
「あいつ?」
柳君は携帯を出し、なにやら操作した。
その後すぐに、彼はやってきた。
「柳くん?」
隣のクラスからやってきたC組のアイドルしーちゃんを、柳君は席についたまま呼び込んだ。たぶんメールを出したのだろう。
「どうしたの? 緊急事態って何?」
「一之瀬が失恋した」
「えっ!?」
しーちゃんが僕を見た。
「しーちゃん」
「え? あ、はい」
僕は軽く拳を握り、すっと右手を突き出し――手首を返して拳を開くと、そこにポンと一輪の花を取り出した。
「さ、これを……花言葉は『パンツじゃないから恥ずかしくないもん』。水着なんだから恥ずかしがる必要はないのさ。むしろ男用より隠している表面積は大きいのだから」
「……逆に無用に隠してるから恥ずかしいんだけどね」
「それにキンギョソウの花言葉は『推測ではやはりノーです』だけどね」
「え? これってそんな花言葉なの?」
「もっと女子力磨きなさいよ! 何がアイドルよ! やんの!?」
「ご、ごめん。やんない……」
一輪のキンギョソウ(造花)を手に、しーちゃんは鮮血舞うリアルファイトを求めるマコちゃんを恐れたじろぐ。
「それより島牧、一之瀬をどうにかしろ」
「どうにかって……僕には何もできないよ」
「なぜだ。おまえがフッたんだろ」
「え? いや、フッてないよ」
「おまえじゃないのか?」
「違うよ」
「そうか……俺はてっきりおまえだと思ったんだが」
「一之瀬くんもその子もノーマルでしょ。柳君もだいぶズレてるわね」
はは。柳君は面白いなぁ。
「柳君――」
「それはもういい」
僕の突き出した手を、柳君は押し留めた。
「坂出、失恋とはどういうことだ? 誰かにフラれたのか?」
「フラれたっていうか……先週からおかしかったでしょ? その頃に九ヶ姫の女子を好きになったらしくてね」
「告白したのか?」
「ううん。昨日になって彼氏持ちってわかった」
「それで?」
「それで? ……話はそれで終わりだけど」
柳君は首を傾げた。
「それだけで失恋なのか? 告白していない、彼氏がいる、それだけで?」
「え、充分じゃない?」
柳君は首を横に振った。「足りないな。全然足りない」と。
「中学の時、一日一回告白してきた女を知っている。最初は鬱陶しいだけだったが、想いが募り、重なり、卒業が近付くにつれて人を好きになること、想いを伝えることの尊さを教えてもらった気がする。――一之瀬は足りない。想いも、それを伝える努力も」
「でも付きまとうのって迷惑じゃない?」
「本人に言われたら諦めればいい。だが本人が言わないのになぜ迷惑だとわかる? そもそも男女関係は水面下で状況が変わっていることが多い。俺が一之瀬の恋愛を知らなかったように、誰が誰を好きになって、誰と誰が別れたかなんてわからないものだ」
……フン。
「今日はよくしゃべるね。それに随分偉そうに語るね」
「一応経験談だからな。ちゃんとフラれて来たらどうだ?」
「そしたら号泣するぞ」
「号泣すればいい。今みたいにいつもより気持ち悪い顔して現実逃避してるよりよっぽどマシだ」
気持ち悪くねえよバカ野郎。……つかいつもよりってなんだよ。
「しーちゃん、もしフラれたら慰めてくれる?」
「え!? 僕が!?」
「さ、これを」
差し出す手を、柳君が「それはもういい」と止めた。
「――わかった。その時は俺が島牧を説得してやる」
「柳くん!?」
「こいつはいくつかおまえに貸してるだろう。少しでいいから返せ」
「う…………わ、わかったよ」
マジで!?
霞がかっていた視界が一気に開けた。それはもうプリーツスカートをまくりあげる神風が吹いたかのように。
マジか……マジでか!? マジでしーちゃんが僕を慰めてくれるってか!?
「ほんとだな!? ほんとだなしーちゃん!? 嘘じゃないよな!?」
「う、うん……」
「マジで嘘じゃないよな!? 嘘だったら絶対号泣するよ!? 一週間ぐらい寝込むよ!? マジだよね!?」
「う、うん……その、必死すぎて怖いんだけど……」
「君の水着姿の盗み撮りみたいに背景に殺したいほどのまりも●こりが写りこむなんてガッカリないよね!?」
「う、うん……え、今のなんの話!?」
「スク水で黒ニーソで膝枕して慰めてくれるんだな!? ほんとだな!?」
「いやさっきの……え!? そんなことさせる気なの!?」
僕は俄然元気になった。
俄然テンション上がっちゃったね。
なんという確約!
告白してフラれなければ天塩川さんと上手くいき、仮にフラれてもしーちゃんとドキドキタイムがあるってか! なんという……なんという神展開!
「ちょっと」
「え?」
「一之瀬くんがアブノーマルの世界にハマッたら、責任取りなさいよね」
「え、僕が!? 僕のせいなの!?」
――マコちゃんしーちゃんがそんなことを話しているなど露知らず、僕は叫びだしたいほどの幸運に夢中になっていた。
こりゃー遠い目して花くばってる場合じゃねえ!
人生の確変期だ!
ぬるい世界に浸ってる場合じゃねえぜ、僕!