063.六月二十二日 水曜日 後半
どこから手を付けるべきか。
その場所は、僕には最初からわかっていた。
「一之瀬クン。お・ひ・さ★」
oh……久しぶりに見る五条坂先輩は、鳩尾にズンと響くぜ……!
「お、お久しぶりです……相変わらずムキムキですね」
半袖から覗く筋骨隆々のぶっとい二の腕は、恐らく虎の首さえ捻るほどの剛力を発するのだろう。……まあとにかく元気そうで何よりだ。
朝の内に携帯でアポを取り、二時間目の休み時間には無事会うことができた。教室の前で待っていた五条坂先輩と合流し、階段を挟んだひとけの少ない特別教室が並ぶ棟に移動した。どうやら次に使うクラスがないようで、この辺はがらがらだ。もしくはまだ早いからかな?
「それで? 大事な話って?」
「実は」
「あ、先に言うわね。告白ならごめんなさい。私もう好きな人いるから」
「わーいそれは残念だ! イェー!」
「嬉しそうね」
嬉しいんです。純粋に。
「先輩、本当に真面目な話です」
「わかったわ。言ってごらんなさい」
僕は雨が続く窓の向こうを見詰める。
日曜日から梅雨に入り、恐らく今月一杯は明けないだろうとのことだ。
「――今は雨だから潰れてますけど、プールが始まるじゃないですか」
そう、しーちゃんの相談事とは、プールのことだった。
つまり、上半身裸を露に体育に参加するという悩みだった。
それが意味するところを正確に捉えた僕は、事の重大さを理解するまでにそう時間を必要としなかった。
別にしーちゃん自身は、男として上半身裸くらいどうでもいいらしいが、つい先日、「頼むからプールに参加しないでくれ」と、顔が赤かったり半泣きだったりするクラスメイトほぼ全員に懇願されたらしい。
僕は、C組の連中の気持ちがわかる。
というかわからないわけがない。
みんな頭ではちゃんと理解しているのだ。あれは男で、決して女ではないと。心ときめくような相手ではないと。
だが僕らの中のケダモノは、時々、本当に時々、「別に男でもいんじゃね?」と非常に無責任なことを言うのだ。こればっかりはもう、自分の意志ではどうしようもないものだと思ってほしい。本能には理性と理屈が通用しないのだ。
問題を明確化すると、こうだ。
――アイドル顔負けの女子が上半身裸のおっぱい丸出しで僕らの隣で体育に参加する。
思いっきり率直に、ストレートに言うと、これがもっとも近い表現となる。
それは懇願もするだろう。
そんなものを見せられたら、かろうじて「しーちゃんは男だ。好きになっちゃダメだ」という絶対に守らねばならない最後の一線が、最後の砦が、簡単に揺らいでしまう。「別に男でもいんじゃね?」って本能が理性という鎖を引きちぎって突っ走り始めるだろう。余裕で。
丸出しの光景を鼻血を吹いてでも見たいとも思う反面、そんなものを見せられたら正常でいられる自信がない、そうじゃなくても普段から危ないのだから……そんな相反する葛藤が、僕にはよくわかる。
だが、考えてほしい。
プールは体育の授業であって、単位習得のために必要なものである。プールを全部休んだくらいでは留年はしないかもしれないが、簡単にすっぽかせるものでもないだろう。しーちゃんがサボりたいならまだしも、そうでもないようだし。
そしてこの問題は、僕のクラスの覚醒した乙女マコちゃんにも同じことが言える。彼の場合はしーちゃんとは逆で「見せたくない」という気持ちがあるはずだ。理由は違えど、こちらも参加はしたいけれど参加できない、という状態になってしまうだろう。
「なるほどね」
かつてはその道を通ったであろう三年生ならば、この問題に対して何かしらの解決案を持っているはずだ。……まあサボり続けたって可能性もあるが。でもそれを確かめられるだけでも有益だ。サボッても進級できるのなら、それも一つの道だ。
それに、サボっていないのであれば、打開策がすでにあるということだ。
五条坂先輩の性格を考えるに、絶対に男のベーシックスタイルに乗っ取った海パン一丁で参加はしない。その鋼のように硬く分厚いアメコミヒーローみたいな胸板を死守したはずだ。
「聖戦ね」
「え? 聖戦?」
「あら、知らない? 聖戦って言うのはね――」
八十一高校においての聖戦とは、生徒が教師に対して反旗を翻し、生徒側の意見を通すことである。先にあった「マジでガチ」事件も、ある種これに相当する。
つまり――
「直談判するってこと?」
「えぇ……そんなの無理よ……」
昼休み、僕は屋上へ続く例の踊り場に、しーちゃんとマコちゃんを呼び出して解決案を説明した。
問題を持ってきたしーちゃんはともかく、マコちゃんは全然プールのことなど頭になかったらしく、上目遣いで「一之瀬くんのエッチ」と、男が言ったら無条件で張り倒しても許されるだろうことをほざいた。
「まあ聖戦のことは置いといて、まず解決策を話そうよ」
僕はしーちゃんを見た。
「しーちゃんはプールに出たいんだよね?」
「うん? うん……運動は得意じゃないけれど、苦手でもないから。でも運動するのは好きだよ」
「じゃあ、ちょっと妥協してもらうことになるかも」
「…?」
次に、僕はマコちゃんを見た。
「マコちゃんはどう?」
「参加すると周りに裸の男をはべらせられるのよね?」
「そういういやらしい目で僕らを見ないでくれるかな」
「いやらしい? 自然よ! 一之瀬くんだって海水浴に行ったら水着姿の女性を見るでしょう!? 必ず見るでしょう!? メリハリのあるボディラインに釘付けになるでしょう!? それでいいのよ! 私、むしろ見ない方が失礼だと思う! 見ない方が優しくないと思う!」
「……そう言われたら認めるしかないな。わかった、ふしだらな目で見ていいよ」
しーちゃんが小声で「見ていいんだ……」と呟いたが、僕は聞こえなかったふりをしてさらっと流した。
「つまり参加はしたいんだね」
「そうね。参加しないともったいないし」
よし、これで二人の意志は確認できた。
「解決策がある」
片やクラスメイトに「参加しないでくれ」と懇願されたしーちゃんと、絶対に上半身裸を死守したいマコちゃん。
二人に共通する問題は「上半身裸がNG」という点だ。……しーちゃんはちょっとわかっていないみたいだが。
まあ、要するに、そういうことである。
「許可を貰えばいいんだよ。女性用水着の使用許可を」
「「えっ!?」」
驚きの理由は違うが、二人は「そんなことが可能なのか」と僕に問う。
「前例があるからね」
かつて一年生で、二年生を経て、現在三年生である五条坂先輩は、中学の時からそうやってプールを乗り切ってきたらしい。あのボディビルダーはだしのゴリマッチョが女性用水着……いや考えるのはよそう。
「で、でも僕、男だよ!? 男なのに女性用の水着を着るの!?」
しーちゃんは恥ずかしさのあまり泣きそうな顔をしている。正直あまりのかわいらしさにグッと来た。二人きりだったらヤバかった。
「しーちゃん」
「何!?」
「プールに参加するなら、お願いだから着てほしい。それが君のためでもあるし、クラスメイトのためでもある。そうしてくれたら参加しないでくれとはきっと言わないと思う。むしろ参加してくれと言うと思う」
おっぱい丸出しはもう行き過ぎてアレだが、たぎるモノが抑えられなくなりそうだが、隠してさえもらえればきっといつも通り観賞用として楽しめる。クラスメイトも。僕も。
「マコちゃんは……まあ、特に言うことないけど」
こっちはそれを望んでいるから。興奮しているのか「ビキニか? それともあえてスク水?」などと真剣な顔でぶつぶつ呟いている。
……あとで僕は彼にこう言おうと思う――「爆とは言わない、並から貧の辺りでいいから底上げをしてくれ!」と。「僕らに魅惑の双丘という夢を与えてくれ!」と。
まあマコちゃんは全然OKとして、やはり問題はしーちゃんか。そりゃ抵抗感もあるだろう。僕だってイヤだわ。女性用水着でプール参加なんて。
「ほ、本気なの? 女性用水着なんて……」
「前例があるって言っただろ? 実際そうやってプールを過ごした先輩たちもいるんだよ。……やっぱり抵抗ある?」
「さすがにあるかな……」
そうか……ならば仕方ないな。
「しーちゃん、僕は今から君に、ちょっと耳に痛いことを言うかもしれない。でも言わないと説得できないというなら、言うしかないと思ってる。……聞いてくれる?」
「き、聞きたくない」
「体育教師の中野先生って知ってる? 三十三歳独身で」
「い、言わないでよ! 聞きたくないよ!」
「じゃあ着る?」
「……」
しーちゃんは頷かず、そしてもう僕の言葉を遮らなかった。
「三十三歳独身の女性教師で、でも見た目が二十歳前後の美女にしか見えないから魔女とも言われている人でね。美人なのに温和な笑顔が人気の先生なんだけど。でも昔からある疑惑があって――」
僕は、しーちゃんを強く後押しする情報を告げる。
「どうも十代の男の子しか愛することができないって噂があるらしいよ。好みの男の子がプールをサボッたら、補習とかこつけて呼び出して、プールに二人きりで…………過去にそんな事件もあったとかなかったとか」
「え、えぇぇぇ……そ、それって……」
「これ以上は確証がない。でも煙のないところに……っていうよね」
「…………」
「ところでしーちゃんってかわいいよね。……目を付けられないといいね」
しーちゃんは顔面蒼白だ。……男としてはある意味妄想広がる夢のある話だと思うんだけどなぁ。しーちゃんの反応はやはりピュアだ。
「しーちゃん、悪いことは言わない。女性用水着を着てくれ。もし理由が必要なら僕が無理にそれを着せたとか、そんな風に思っていいから」
「でも……」
「――ちょっと」
マコちゃんが珍しく険のある声を上げ、険のある目で僕を睨んだ。
「一之瀬くん、この子に甘すぎない?」
「え?」
「どうして一之瀬くんがこの子のために、わざわざ汚名をかぶるようなこと言って庇うわけ? なんで無理にそれを着せたとか、そんな大義名分をあげるわけ? 一之瀬くんにとってこの子なんなわけ?」
いや……なんなわけ、と言われても。
戸惑う僕を置いて、マコちゃんはもう片方の標的に的を絞る。
「あなたもあなたよ。一之瀬くんには関係ないことなのに、こんなに親身になって相談に乗ってくれてるのよ? なのに自分のことばかり考えてアレもイヤだコレもイヤだって。なんなの。イヤならさっさと話蹴ればいいじゃない。うじうじして男らしくない」
マ、マコちゃん……
「だいたいあなた、一之瀬くんのなんなわけ?」
しーちゃんに詰め寄るマコちゃん。
言葉もなく、戸惑うことしかできないマコちゃん。
そして何も言えない僕。
まさに修羅場である。
だが、まさか男三人集まって修羅場になるなんて思わなかった。
ちなみに魔女こと中野先生は、バツイチのシングルマザーであって、しっかりした人である。
ただ常々「かわいい男の子が好き」とか「良い体してるね」とか「最近息子が親離れし始めて寂しいのよね……誰か添い寝でもしてくれないかしら」などと、思春期男子の妄想を掻き立てる言動を多々しており、そのせいで色々な噂が生まれている、というのが真相である。正式な交際相手もいるらしいし。
五条坂先輩が「たぶん必要になるから」と教えてくれた知識だった。この流れを予想していたのであれば、ものすごい先見の明である。
ただ、あの五条坂先輩でも、この修羅場まではさすがに予想できなかっただろうが。
……それにしても、全っっっ然モテてる気がしないのに、妙な罪悪感だけ生まれているのはなぜだろう。本妻と愛人に挟まれてぎゅうぎゅうに絞られている夫のような気分になるのはなぜだろう。
はあ……なんか溜息しか出ない。