061.六月二十一日 火曜日
雨音が心地よい。
まるで風に撫でられた草原のように軽やかな音が、喧騒響く校舎を優しく包みこんでいる。……まあ実際は気温も湿度も高くてじめじめしているが。
「で、どうした?」
昼休みに入ってすぐ、僕は自称情報通の渋川君を捕まえ、屋上へ続く四階踊り場まで引きずってきた。そこにある重い鉄扉を開ければ屋上だが、雨音が聞こえる通り今日はずっと雨である。降っていなければ屋上に出ていたと思うが。
「渋川君、単刀直入に聞くけど」
「ああ」
「女の子の情報は扱ってる?」
「……フッ」
渋川君は笑う。
「むっつり大王なおまえのことだ、いつか必ず聞いてくると思っていたぜ」
こうして、男の内緒話が始まった。
「ほう? 九ヶ姫の生徒のことを聞きたい、と」
「わかる?」
「あそこは可愛い女子が多すぎて、さすがに全員はカバーしきれていない。でも有名どころならわかるぜ。誰だ? 天城山飛鳥か? 佐多岬華遠か? おまえまさか月山稟じゃないだろうな?」
お? おぉ……全員知らないな。だがさっと名前が出てくる辺り、かなり有名なんだろうな。これは要チェックや! えーと、あまぎ――
「メモはあとにしろよ」
いつかの「新人狩り」で折り曲げてしまった生徒手帳にメモを取ろうとしたら、渋川君は呆れたような顔をした。
「有名な奴なら、鳥羽たちに言えば写真付きで教えてくれるからよ」
「え? そうなの?」
「あいつらのネットワークを甘く見るなよ。こと女に関しては俺より耳が早い」
へえ……伊達に四人いないってことなのかもしれないな。きっとチームワークが良いのだろう。
「それに確か、九ヶ姫出身のエビメンバーがいるとかなんとかで盛り上がってたしな。公式発表されてない情報らしいぜ」
「マジで!?」
公式発表されていないという言葉通り、僕は思いっきり初耳だった。――ちなみにエビというのは、某●KBに対抗して作られたアイドルユニットEBIのことである。通称「エビ」。
「今はもう転校していないらしいがな。ま、俺はアイドル関係はさっぱりだから詳しくはわからないけどよ」
へえー! 九ヶ姫ってすごいんだなぁ。芸能人まで輩出したのかよ。うん、さすがは僕が夢にまで見たお嬢様学校だ。大好きだ。
「で、一之瀬が知りたいってのは誰のことだ?」
「あ、うん。高等部で陸上部の天塩川さんっていう人なんだけど」
「天塩川……」
渋川君は虚空を睨む。
「……聞いたことあるな。なんかの大会で表彰された短距離選手に、そんな名前の女子がいたと思うが」
たぶんそれだ。天塩川なんて苗字、そう多くないだろうし。
「だが残念ながら詳しくは知らないな」
「そっか……」
柳君の妹みたいな、誰もが注目するようなものすごい美少女って感じじゃなかったからなぁ。親しみやすい庶民派って感じで。藍ちゃんがあやしく艶めくキャビアなら、天塩川さんは確実に飾り気の少ない和食って感じだもんなぁ。
「ところで、その天塩川の何が知りたかったんだ? 家か? さすがにストーキングはどうかと思うぞ」
「そんなことしないよ」
それに掛かる労力もしんどいし、バレたら相手が怖がって迷惑をかけるだけだろう。そんなの本意じゃない。女性を故意に傷つける男なんて本当に滅びろ!
「でも会いたいとは思ってるから……やっぱり校門前で待つしかないかな」
先週金曜以来、早朝には会えていない。今日なんて朝から雨だから走ることもできなかった。……会いたいな、天塩川さん……本当に想いだけが募っていく。
でも会うだけなら、何も早朝にこだわる必要はない。かなり恥ずかしいしさらし者になりそうだが、校門付近で待っているのも一つの手だ。
……と、思っていたのだが。
「一之瀬、よく聞け」
「ん?」
「この八十一高校はバカが多い。おまえのようなむっつりも多いし、オープンスケベも山のようにいる。女に飢えすぎて同性でもアイドルなんて存在を作り上げたりもする」
「……うん。で?」
僕には渋川君が何を言いたいのかわからなかった。
「――今までここの生徒が九ヶ姫に対して何もしなかったと思うか?」
「…っ!」
言われた瞬間、息を飲んだ。
そうだ……そうだった! 僕が夢にまで見た九ヶ姫女学園が近くにあるというのに、バカとヘンタイしかいないこの八十一高校男子諸君が何もしないはずがない! しなかったはずがないじゃないか!
「わかったか? そうなんだ……いつの代と抜粋するまでもなく、ほぼ毎年うちの生徒が何かしらの形で九ヶ姫女学園の生徒に迷惑を掛けているのが現状なんだ。
ひとけのない場所で待ち伏せして無駄に怖がらせる配慮のない者、公衆の面前で臆面なく告白する者、遠くから寮を見詰めるストーカーみたいな者、わざとハンカチを落として拾わせその親切に付け込んでナンパする者、発展型として生徒手帳や携帯を落として拾わせる者、財布を落とすも目当ての子が拾ってくれず本当に紛失して後から泣く者……小さな事件から大きな事件まで、俺の頭では想像も付かないような問題がたくさん起こった。
その結果、俺たち八十一高校の生徒は、大部分の九ヶ姫女子と向こうの教員に嫌われた。ぶっちゃけ学校の近くをうろつくだけで補導されたり通報されたりするくらいにな」
マジかよ……!
じゃあつまり、何か?
もし僕が八十一高校の生徒だとわかっていれば、天塩川さんはあの日陸上部の練習に僕を混ぜることもなかったし、野獣候補でしかない八十一校生である僕にドリンク(エサ)を与えるという愚行も行わなかったということか!?
そう……か。
しょせん何の取り得のない男子高校生と、片やお嬢様校に通う清廉潔白なスポーツ少女。釣り合わないよな、とは漠然と思っていたが。
しかし、僕が考えていたより、ずっとずっと天塩川さんと僕の距離は遠かったらしい。
「どうしても行くっつーなら止めないが、クラスメイトとして忠告しとく。捕まりたくなければ私服で行け」
いや。
「ありがとう。助かった」
本当に、話を聞けてよかったと思った。
渋川君と別れ、僕はその場に残って考えていた。
とりあえず、会いに行くのはNGだと思った方がいいだろう。
僕としてはあの殺戮マシーン・沢渡夏波さんが何か言い出す前に「偶然会えちゃえましたーだからもうお礼済ませちゃいましたー」みたいな流れが望ましいと思っていたのだが。……仮にまだ終わってないのに「もうお礼済ませた」なんて嘘をついたとして、もしあの人が疑いを持ったら隠し切れる自信がないので、騙すのはやめておこうと思う。バレたら絶対教育ものだ。
となると、やはり早朝、あの八十三町の二上一番坂で会うしかないのか。もしくは女性に頼んで待ち伏せして返してもらうとか。
でも、僕が頼める女性なんて、夏波さんか妹か…………ギリギリでしーちゃんとマコちゃんもいけるか? うん、黒タイツを履いてもらえば楽勝だな。これは積極的に考えていこう。
……色々と希望はあったんだけどなぁ。でも半分くらい瓦解しちゃったなぁ。
生憎僕はイケメンでもないしルックスも並だ。おまけに「お嬢様受けしない顔」というお墨付きも貰っている。だから、いきなり告白して付き合うことになりました、なんて夢は見ていなかった。贅沢は言わないから、そう、一年ぐらい時間をかけてゆっくり親睦を深めていって、いつかは……そんな風に思っていた。
でも、まずい。
八十一高校在籍ってことがバレると、ただでさえ一度会っただけの遠い関係が、更に遠ざかるという。いや、むしろ断絶と言ってもいいかもしれない。
もう手に取るようにわかる。
たとえ八十一高校の生徒であることを隠し通すことができて、その上恋人同士になれたとしても、いつか必ず偶然街で出会う八十一高校の連中が、必死の思いで隠し通していた事実を無遠慮に突きつけるのだ。そう、もはや僕らの仲をぶっ壊すくらいのつもりで。だって僕ならやるからね。
あの九ヶ姫女学園と近いから選んだ八十一高校だったのに、こんな落とし穴があるとは思わなかった。完全に誤算だった。お互い学校帰りの放課後制服デートを夢見ていた僕なのに、それは絶対に叶わないことがわかってしまった。
とりあえず、決めねばなるまい。
八十一高校の生徒であることを早めにバラして、その上で仲良くなるか。
それとも、何も知られないうちにボトルとお礼を渡して、この出会いに終止符を打つか。
前者は、その事実を伝えるだけで、天塩川さんに不快な思いをさせてしまうかもしれない。天塩川さんが八十一高校に対して良い印象を持っていないなら、確実に不愉快だろう。僕の身勝手でそんなことをしていいのだろうか? 親切を仇で返すような真似になるような気がするが、本当にいいのだろうか?
後者の方が、ただの日常の些細な一事として、綺麗に完結はするだろう。お互い悪い印象なんてなく、むしろすっきり終わらせることができるだろう。
最近増えた溜息が、また漏れた。
昨日、柳君を犠牲にしてまで手に入れたストラップまで、渡すべきかどうか迷い始めていた。
そんな思案をしていると、僕の携帯が鳴った。どうやらメールを受信したようだ。何気なく取り出し見てみると、夏波さんからだった。彼女なりのベストアンサーが出たのだろう。
案外早かったな、と思いつつメールを開く。……画像つき?
『これにしろ。女子高生の間で流行ってるから。』と、そんなごく短い一文とともに、問題の「これ」が写っていた。
これは……何?
わかるところから言うなら、夏波さんのベストアンサーも携帯ストラップだった。……たぶん女子力の高い友達にでも相談したんだろうと思う。なんかかわいそうだからそこに触れるつもりはないが。
だが、問題は写真に堂々鎮座している、この奇妙なマスコットだ。
歪曲したモンキーバナナのような身体は上下半分で区切られ、上は赤、下は白のコントラスト。取ってつけたような紐状の手足がひょろんと伸び、上半身に当たるのだろう赤い胴体にはギョロギョロ動く大きな目玉が二つ。
どっかで見たことがあるマスコットだ。
どこだったか?
どこだった?
どこ――あっ!
「コ、コン●ック!?」
薬のテレビCMでお馴染みの、長~く効くあいつだ! ……でもこれたぶんパチモンだな。似ているがどこか違うし。
それに、それより先に確認せねばなるまい。
『本当に流行っているんですか?』と。
なんつーか、本家の方はどこか愛嬌があるのに、こいつはちょっと……目付きが悪いせいだろうか、それとも目の位置が悪いせいだろうか、もしくは本家より微妙に細長いシルエットが問題なのか、どこかキモイ。全体的にどこかキモイ。
我知らず顔をしかめてパクリマスコットを睨んでいると、メールが返ってきた。
『キモカワイイと評判のカプセルくんだ。キモカワイイだろ?』
僕が真っ先に思ったことは、存在パクるんなら名前ももじってほしかった、ということだ。ショーヘイくんとか。コントラストくん、とか。
あと、僕はかわいいとは思わない。キモイだけである。こんなの貰ったところで嫌がらせとしか思えない。こんなキモイのなんで携帯に付けたがるんだよ。というか身近なモノに付けたくないぞ。人目の触れないところにそっとしまっておきたいわ。
…………あれ?
ふと気付いたが、夏波さんから「これにしろ」って連絡があったってことは、選択の余地なくこれにしろってこと? 数ある候補の中から選べってことではなく、強制的にこれにしろってこと? これ一択ってこと?
……こんなもん渡したら、うまくいくもんも失敗するわ。色気がなさすぎわ。
夏波さんの女子力のなさに絶望しつつ、僕はまた溜息をついた。
前途多難だ。
もはや身内に邪魔されてるんじゃないか、ってくらいに。