060.六月二十日 月曜日
「はあ……」
「おにいちゃん、溜息うるさい」
「……え? 溜息ついてた?」
「六回。聞いて欲しいのかってくらいしつこくね」
マジかよ。自覚がなかった。
リビングで朝食を取っている僕と妹の席は、並んでいる。すぐ隣にいる妹が冷たい眼差しを向けていた。いつからこんなかわいくない妹になったのだろうとふと考える。……まあ、妹なんてこんなもんか。僕と違ってできる奴だし。
しかし、そうか……溜息ついてたのか。
そんなことをぼんやり考えて、また溜息が漏れた。まあこれは溜息の原因ではなく、己の重症具合に対するものだが。
「なんなの。聞いてあげるからさっさと話せば?」
「いや、いい」
「はあ!? それだけ誘っておいて話さないとかなんなの!?」
「いや誘ってないし」
かなりウザかったことは認めるけど、そんな露骨に「困ってるんだよなぁ」みたいなウザいアピールされたら、僕だって「おまえから聞いてくださいってお願いしろ。話はそれからだ」と思うだろう。
でも本当に誘ってないんだよ。本当に無自覚だったんだよ。
僕は食べかけの食パンを持って立ち上がり、朝っぱらから不機嫌になった妹を置いて家を出た。
今日も会えなかった。ただそれだけのことだ。
今朝も八十三町の二上一番坂に走りに行ったのだが、九ヶ姫の陸上部とは会えなかった。時間帯だろうか? それとも僕が邪魔したから走る場所を変えたのだろうか? そんな気がかりが溜息の正体だ。
結構重症なのかもしれない。
たった一度しか会ったことのない女の子に、これほど惹かれるなんて。ここのところ一日の半分以上を彼女――天塩川さんのことを考えて過ごしているような気がする。
いや、反動かもしれない。
日常的に男子校なんて異常な野獣率高い環境に身を置いているせいで、余計に異性を求めているのかもしれない。
「はぁ……」
やや水流の速い八十一大河を横目に、僕は商店街へと差し掛かり――
「はおぅ!?」
前触れないケツへの外的接触を確認し、悲鳴を上げた。
「誰だ!?」
って、聞くまでもない。僕のケツを狙う奴は一人しかいない。
「おっす」
そいつは曇り空とは正反対の曇りのない笑顔で、やたら軽い口調で挨拶した。
覚醒した乙女、マコちゃんだ。朝会うのは結構珍しい。
マコちゃんと朝会うのは結構珍しい。
確か大まかな方向は同じだけど、登下校ルートがこっちじゃないからだ。いつだったか「商店街を通るとほんのちょっと遠回り」と言っていたはずだ。
「元気ないね。背中から哀愁が漂ってたよ。どうかしたの?」
どうもしない。何もないから元気がないのだ。僕は「月曜日だからじゃない?」と適当に答えた。実際月曜日だからかったるいというのもある。
小柄なマコちゃんと一緒に、僕らは歩き出した。
「別に今朝だけの話じゃないけどね。一之瀬くん、先週末からちょっとおかしいよ」
……おっと。どうやら僕の心境の変化はわかりやすいようだ。
いかんいかん。
別に隠すようなことでもないが……いや、あまり言いたいことではない。だってクラスの連中にバレたら、なんか本人そっちのけで騒ぎ立てそうだし。いやそれどころかいらないお節介だか嫌がらせだかでぐちゃぐちゃにされる危険もあるし。ただでさえ荒ぶる女子大生が関わって大変なことになってるんだ、これ以上厄介事の種を増やしてたまるか。ゴール地点への障害物を増やしてたまるか。
だが、言わないと決めたのであれば、周囲に心配させてはいけないだろう。前に切れちゃった時にそう思った。
――しかし未熟な僕は、心配のあまりマコちゃんにここで待ち伏せされていたことを知ることはない。
「全然おかしくないよ。あれ? 今日マコちゃんかわいくない?」
だから僕は、腹の底から元気を搾り出してみた。感情の機微に敏感なマコちゃんはたぶん僕の無理に気付くだろうが――
「失礼ね。いつもかわいいですけどー」
気付くからこそ、乗ってくれる。マコちゃんはそういう奴だ。
……あれ?
「マコちゃん、髪切った?」
「あ、わかる? ほんのちょっとだけ髪型変えたのよ」
マコちゃんは嬉しそうに笑い、前髪の毛先を指でいじった。
やっぱり切ったのか。……冗談のつもりだったが、よーく見ると今日は随分かわいいような気がする。目立たないナチュラルメイクに、かすかにまとう香水の甘い匂い。半袖のYシャツから覗く真っ白な腕の先に、透明マニキュアで輝く形の良い爪。それら全てが控えめな自己主張をしてマコちゃんを飾り立てている。……正直、夏波さんより女子力が高いと思う。
己を磨くとはこういうことか、と、なんとなく思った。
ん? 女子力が高い? 夏波さんより?
殺人マシーンと称しても何ら誤解のない荒ぶる女子大生・沢渡夏波さん、通称カナさんは、僕の悩みの一端……いや、半分くらいを抱えている。
……ぶっちゃけた話、夏波さんには期待できない。というより期待なんてすると夏波さんがかわいそうな気がする。人には得意なことと不得意なことがあるのだ。殺人マシーンに女子力を求めてどうする。
夏波さんは「話を預かる」とまで言ったが、前述の通り夏波さんに期待するのはかわいそうだ。こっちでも、あくまで建前は保険として考えておくべきだろう。
それに、遅くとも今週までにはボトルを返さないと、さすがに遅すぎる気がする。夏波さんのベストアンサーが出る前にタイムアップというのも最悪だ。
「マコちゃん」
「ん? なぁに?」
「マコちゃんって口は堅い方?」
「んー……軽くはないと思うけれど」
いや、軽そうだな。
忘れてはいけない。マコちゃんは身体は男でも、心は女性。女性は噂話が好きで、「絶対誰にも言うな」なんて言葉は逆効果にしかならない。
つまりだいぶオブラートに包む必要があるわけか……まあマコちゃんなら、オブラートの存在に気付きつつも、そのまま話を進めてくれそうだから大丈夫だろう。マコちゃんはこれでも人一倍気遣いはできる。
「実はさ――」
僕は先週金曜日の、天塩川さんとのことを話してみた。
もちろん九ヶ姫の名前と「好きになった」という事実は伏せて。ただ他校の女子にスポーツドリンクを貰ってそのお礼がしたいんだけど、とだけ。
「だから一之瀬くん、先週からおかしかったんだ」
「うん、まあ、ずっと悩んでて」
悩んでいたのは本当だ。広い意味で言えば先週末も今も天塩川さんのことを考えているので、広い意味ではまんざら嘘でもない。
「で、一之瀬くんはその子のこと好きなのね?」
「え?」
「バレバレ」
マコちゃんの顔は確信があるかのように自信に満ちていた。たぶん引っかけなんかじゃなくて、本当にわかっているんだ。
……マジかよ……まさかこんなに簡単にバレるとは思わなかった。どうやら僕はマコちゃんを舐めていたらしい。
「……なんでわかった?」
「そんな感じがしたから、としか言えないけれど。強いて言うなら女の勘?」
その「女の勘」を迷いなく自信満々に言えるのもすごいなぁ。やはり僕はマコちゃんの女子力を舐めていたというわけか。伊達に僕のケツが好きなわけじゃないってことか……侮れない奴だ。
「要するに、自分を強く印象付けるようなオシャレなお礼をしてお近づきになりたい、ってわけね?」
おお……おお、さすが覚醒した者! 僕の狙いをドンピシャだ!
「高価なものは受け取ってもらえないと思うんだ」
「そうね。普通の子なら受け取らないでしょうね。最高でも出して五百円までよね」
それもドンピシャだ。僕もそれが最高額だと思っていた。
「スポーツドリンクをあげるのがはずれがなくて無難だけれど、でもそれじゃ色気がないわよねぇ」
ですよね! でも昨日とある女子大生がドヤ顔でそれを推したんですよ!
「チョコレートとかは? お菓子は鉄板よ」
「でも減量中かもしれないから、カロリーが高いのはちょっと」
「あ、そうなの? ……なるほど、そこを省いたらそれは悩むわねぇ」
ああでもないこうでもないと話しつつ、僕らは八十一町商店街を抜ける。
「一押しはやっぱりストラップかしらねぇ」
「ストラップ? 携帯に付ける?」
「ええ」
マコちゃんは、ポケットに入れていた自分の携帯を出して見せた。オレンジ色のバンドのシンプルなストラップが付いた赤い携帯だ。某ケーキ屋のハロウィンイベントででも配られたらしき、舌を出した女の子のマスコットキャラクターがプリントされている。
「今時の高校生なら誰でも持っているし、仮に持っていないにしても鞄やポーチに付けてもいいし。かわいいストラップなら喜んで付けるでしょうし、それを見るたびに一之瀬くんを思い出すんじゃない?」
お、おお……すげえ! マコちゃんすげえ!
「それに、もし気に入らなくて捨てちゃいたい時は、手間も掛からずゴミ箱に突っ込めばいいだけだし」
「おい!」
捨てられることとか考えるのはやめてくれ! 悲しくなるだろ!
「邪魔にならない、って結構重要よ? 貰って困るものってあるじゃない」
そうかなぁ? ……そうかもなぁ。中学の時に貰った超ハードなSMものの本は、さすがの僕でも困ったもんなぁ。誕生日プレゼントじゃなければきっともう処理してるもんなぁ。
「五百円以内で買えるストラップなんてある?」
「あるある。八十一駅から少し行ったところに雑貨屋があるのよ。そこは安いわよ」
「へえー。……ちなみにマコちゃん、今日の放課後ヒマ?」
「デートのお誘い?」
「いや違う」
「じゃあヒマじゃないわね」
「……デートのお誘いだったら?」
「一之瀬くんなら考えてあげる」
マコちゃんめ、僕の人生初デートを所望するというのか。くっ、弱味に付け込んで……何が悲しくて男を初デートに誘わねばならんのだ。だが背に腹は変えられないか……?
……いや待てよ?
デートという括りじゃなければいいんじゃないか? デートじゃない形なら問題ないんじゃないか?
たとえば、そう、いてさえくれれば僕もマコちゃんも気兼ねなく、むしろ嬉しい気持ちで行動できる、そんな生贄を捧げれば……
「マコちゃん」
「なぁに? どうしても私とデートしたいの? もう、一之瀬くんったらしょうがないなぁ」
「――柳君を誘ってもいい?」
好みのタイプど真ん中である柳君の名前を出した時、マコちゃんのテンションは瞬時にマックスに到達した。わずかな優越感をかなぐり捨てて僕の腕にすがりついた。
「行こう! 行きましょう! 誘ってよ!? 絶対誘ってよ!?」
……すまん柳君。僕のために少しだけ犠牲になってくれ。
「それと、この際だから言っておきたいんだけど」
「うん?」
「僕のケツは他の人のモノになったから、あまり触らないでくれる?」
そう、僕のケツはもう天塩川さんのモノであるからして。これからは天塩川さん以外にはあまり触らせるわけにはいかないのだ。
「一之瀬くん」
マコちゃんは真顔になった。
「そういうのはモノにしてから言うものよ。モノにしてないなら誰のモノでもないわ」
え、そう?
…………いや僕のケツは僕のモノだろう! 誰のモノでもないってなんだよ! 僕のケツは早いもの勝ちで手に入れられる縄張りじゃないぞ! 僕のケツは自由じゃないぞ! 僕のケツは楽園じゃないぞ!
まさかそんな認識をされているとは思わなかった……マコちゃんも恐ろしい奴だぜ……!
そして柳君は尊い犠牲になった。