059.――The holiday of a cloudy sky. 六月十九日 日曜日
「あっちい」
今日は空が近い。切れ間なく続く厚みのある灰色は、今にも降り出しそうだ。
金曜日から天気は崩れていて、今日もむせ返るような湿度の高い一日になるのだろう。夏らしいといえば夏らしいし、六月らしいといえば六月らしい。もしかしたらそろそろ梅雨入りするのかもしれない。
入念にストレッチしていると、ハイペースなジョギングでこちらにやってくる黄色いジャージの女性が目に付いた。その人は見とれるくらい綺麗なフォームで、必要以上の力みもなく呼吸によどみもなく、まっすぐ僕の方へとやってきた。
「早いな、友晴」
「今日もお勤めご苦労様です」
「……私、その挨拶、極道映画で観たことあるんだけど」
「これは男の敬意です」
肩幅よりも足を開き、両膝に手を置き、腰を低くして頭を下げる――そう、これは敬意を表した挨拶である。ストリートファイトで常勝している武闘派ヤンキーに憧れている中坊の図、なんてものではない。ええ、決して。
某リー先生を髣髴とさせる黄色いジャージのその人――沢渡夏波さん、通称カナさんは、憧れの不良高校生を見る中坊並みに低姿勢な僕を、疑わしさを物語る半眼でじっと見詰めていた。
先週同様に八十一第二公園で待ち合わせした夏波さんは今、僕の走りのコーチである。
基本的に自主練のみで済むので、夏波さんが見てくれるのは日曜日の朝だけ、と決めていた。無駄に時間を取らせるのも悪いし。
夏波さんも毎朝走るのが日課で、日曜日だけジョギングコースをこっちに変更してくれているのだ。「距離的に問題ない」とは言っていたが、それでも僕に気を遣ってくれているのは確かである。ありがたい話だ。
「ちゃんとメニューやったか?」
「全力足踏みはやってましたけど、でも坂道ダッシュが……」
「ほう? サボッたの? いい度胸してるね?」
「待って待って待って! 話を聞いて!」
恐らく悪魔さえも地獄へ送るであろう必殺のアイアンクローの構えに入る夏波さんを、僕はもう、それはもう、超がつくほど必死でなだめた。
「許可する。言い訳をしてみろ」
「八十一町に坂がなくて――」
「言い訳すんな!」
どっちだよ許可しただろ言わせろよ!
「結局やらなかったんだろ!? 私のメニューが気に入らなかったってことだろ!? ならば間違いなく教育ものだ!」
教育――あの筋肉マン高井を軽々引きずり回す残虐な光景を思い出し身震いする。汗が出るほど蒸し暑いはずなのに今は寒気しかしない。
「走りました! ちゃんと走りました! 確実に走りました!」
「じゃあ問題ないじゃないか! 紛らわしい言い方すんな!」
「話を全部聞く前に攻撃態勢に入るのやめてくださいよ! そんな尋問しなくても話しますから!」
「それじゃ遅いだろ! 逃げられる!」
「僕はあなたより確実に遅いです! それに逃げたらあとが怖いから逃げられません!」
今逃げたところで、後日倍返しになってやってくるだろうことは想像に難くない。
とりあえず僕の言葉に夏波さんが反応に迷って隙ができたので、その隙間に僕は先週の有様を無理やり挟み込んだ。
「ふうん……この辺に坂道ないんだ」
「はい。それで金曜日からしか満足に走ってません」
「わかった。走ったのなら構わない」
ふう……どうやら荒ぶる女子大生の教育は免れたようだ。危なかった……
「じゃ早速見るから。雨降りそうだし早めに切り上げよう」
「お願いします」
フォームのズレもそんなになく、タイムもほんの少しだが一応縮まった。
先週と同じように、不安になるほど指導らしい指導はなかった。
「フォームは問題ない。となれば、あとは走るための身体を作るだけだ。オーバートレーニングに気をつけてとにかく走れ」
それが結論だった。
「なんだかあっさりしてますね」
先週は効果的なトレーニングも色々教えてくれたのに。
「そこがいいんだよ。誰かに左右されず自分のペースでやれるし。競う相手にも事欠かないしね」
「競う相手って……」
「自分自身だ。ベストタイムを出すってことは、過去の自分より進化してるってことだからな。わかりやすいだろ?」
おぉ……かっこいいな。誰がどう見てもアスリートである夏波さんが言うとかっこいい。……もやしっ子の僕が言ってもダメだろうな。失笑を買うか冗談にしか思われないだろう。
「それより友晴、そろそろやりあってもいいかもよ」
「え? やりあうって、赤ジャージと?」
「速さはほとんど同じくらいなんだろ? だったら今のおまえなら勝てると思うよ」
マジかよ! いやでも、確かに、タイムが縮まったのであればそういうことになるか!
「負けてもいい。でも結果はちゃんと教えろよ。それによっては食事の改善と、夕方のジョギングもノルマに入れるからな」
「わかりました」
夕方もジョギングするのはしんどくてイヤだから、必死こいてがんばろうっと!
会って三十分ほどであっさり指導も終わり、夏波さんは眉を寄せて空を見上げる。
「今日はこんなところかな。本当に雨降りそうだから解散するか」
「ありがとうございました」
「おう。しっかりやれよ」
走り去ろうとする夏波さんの背中を見て、僕はふと思った。
「夏波さん」
呼びかけると、夏波さんは「なんだ?」と肩越しに振り返った。
そして、僕は言った。
「夏波さんは恋をしてますか?」
「…………あ?」
「好きな人はいますか?」
「きゅ、急にどうした? その……悪いけど、恋愛関係は相談に乗れない。あんま経験ないし……それこそ洋子先輩に相談しろよ……」
何照れてやがるデスマシーンめ。……なんて言ったら殺されたことに気付かないくらい鮮やかな瞬殺を食らうだろうから言わない。僕には自殺願望はないし、ましてや鞭をご褒美とは感じられないし。
「夏波さん、ちょっと意見を聞きたいんですが」
「なんだよ。恋愛系は本当にダメだからな」
「いや。ちょっとした親切に対するお礼って、何がいいかなって。男から女へ、なんですが」
「……なんでもいいんじゃないの?」
相談を持ちかけた時点で期待できないことはわかっていたが、夏波さんは想像以上に期待できなかった。夏波さんの女性に一縷の望みを見ていたがやはりダメだった。なんでもよければ意見なんて求めません。
まあ人には得手不得手があるんだし仕方ないだろう。
「今日はどうもありがとうございましたさようなら」
「――待て」
僕はさっさと話を切り上げたのだが、夏波さんは僕のその態度が気に入らなかったらしい。
「友晴、おまえ私の女子力を舐めてるだろ」
え? ……ていうか、ごめん夏波さん……夏波さんが「女子力」なんて言葉を知っていたこと自体に驚いちゃいました……
「詳しい状況を話せ。私がベストアンサーを考えてやる」
「無理しなくていいですよ。それこそ夏波さんがさっき言ったように洋子さんに相談してみますから」
「あの人の好みを知ってて言ってるなら、おまえも先輩の同類だ」
……チッ。そうだったな。あの人の、遠野洋子さんの好みは常人には理解できない超ハイセンスだったな。
「いいから私に任せろって」
不安だ。不安しかない。
僕は相談する相手を激しく間違えたことを後悔しつつ、事情を説明した。
例の九ヶ姫女学園の天塩川さんのことだ。ドリンクを貰ったお礼がしたいのだ……そしてお近づきになりたいのだ。
まあ下心はともかく、ボトルは借りっぱなしだ。ボトルを返しがてら何かささやかなお礼を渡してもいいと思う。
昨日会えていれば悩むこともなかったのだが、昨日も金曜日と同じように二上一番坂に小雨の下向かったものの、会うことはできなかった。
だからこうして、お礼を考える余裕ができたのだ。
という感じのことを夏波さんに話した。
もちろん相手が九ヶ姫の生徒だとか、僕がその女の子を好きになったことは全て伏せた――話したところで余計面倒なことになるのは火を見るよりも明らかだからだ。
「スポーツドリンクだな」
夏波さんは自信満々に言い切った。
「陸上部で自作ドリンク持っててそれをくれたっつーなら、絶対に無駄にならない。粉のやつな」
……夏波さん……
「そんな普通な答え、僕だって考えましたよ。真っ先に考えましたよ」
「え?」
僕的には数千円出しても惜しくない親切だった。間接的なアレだったし。しかも九ヶ姫の現役女子高生でかなりかわいいと来た! 好きになっちゃうくらいにね!
でも相手……天塩川さんにとっては、きっとあんなもの些細な親切にすぎないんだと思う。さらりと自然にやってのけるくらいに。
だとしたら、高価なお返しなんて返って迷惑だ。でもスポーツドリンク貰ったお返しがスポーツドリンクだなんて芸がない。……僕としてはそれが最低ラインのお返しだと思う。
じゃあお菓子とかどうだろう? 女の子は甘いものが好きだから。
でも、相手がアスリートだってことを忘れちゃいけない。
もし天塩川さんが甘いものどころか食事も厳しく制限し、身体を絞り、昨日の自分と競い続けているのなら、お菓子なんて貰ったって嬉しくないだろう。むしろ「食べたいけど食べられないのに」なんて疎ましく思われるかもしれない。
つまり、低予算で食べ物以外のシャレたもの。そんなお返しが望ましいってことになる。
そんな説明をすると、夏波さんは「気ぃ遣いすぎじゃない?」と言ったが……そんな言葉が出ること自体に、この人がどれだけ異性を意識していないかが伺えた。友達が友達にあげるものじゃないんだよ。男が女にあげるものなんだよ。そう言ったのに。
「このジャージ貰ってお返しを考えた時も、こんな風に悩んだんですよ。最初は安直にお菓子にしようと思ったけど、減量中だったら悪いからってTシャツにしたのに。でも自分でどこででも買えるような無地Tあげても仕方ないし」
「でもあのTシャツはないだろ」
「今思えばそうですね。悩みすぎてよくわからなくなったんですよ」
――その時選んだTシャツは、胸に「裸男」と書かれた微妙なブツである。あの時の僕は、買い物に付き合ってくれた柳君と高井君を含めた僕らは、悩みすぎておかしくなっていた。
いつだって男を悩ませるのは女性なのである。……好みが特殊だったから洋子さんには気に入ってもらえたようだが、夏波さんは普通にパスしたしらしいし。
女心がわからない男が選ぶモノなど、所詮その程度だってことだ。
「男の僕じゃ思いつかないし、だから女性に相談したのに……」
なのに、まさか普通の答えをベストアンサーとして自信満々に言われるとは思わなかった。やはり相談する相手を間違えた。これなら冷笑を浮かべた妹に聞いた方がまだマシだった。
僕の冷ややかな視線に、夏波さんはだらだら汗を流し始めた。
……いえ、いいんですよ。あなたはあなたのままで。ストリートファイトが得意なあなたのままでいいんですよ。女子力なんて求めませんよ。いいじゃないですか。あなたの爪はきっと悪魔だって屠れるし、あなたの腹パンはミケラ●ジェロでも一撃必殺できるし、あなたの頭突きは時代が時代なら手頃な戦国武将だって楽勝ですよ。
それでいいんですよ。それで。それがあなたの魅力なんですよ。
……言ったら死んだことを自覚させないくらいテクニカルに瞬殺されそうなので、絶対言えないが。僕には自殺願望はないし、ましてや靴底をご褒美とは感じられないし。
失意のまま「それじゃ」と背を向ける僕に、夏波さんは叫んだ。
「待て! 聞いた以上、この話は私が預かる!」
「えっ!?」
夏波さんは燃えていた。しかしその目に灯る猛き闘争心は、間違いなく問題を取り違えているようにしか見えなかった。男女問題ですよ夏波さん! ケンカじゃないですよ!
「後輩の相談に答えられず何が先輩だ! 体育会系舐めるなよ! いいな!? この件は私が預かるからな!? 勝手なことして私に恥かかせたら許さねえからな!」
……oh……
反射的に「あなたの女子力ヤバイでしょ! 1ドットくらいしかないでしょ!」と言わなかった自分を褒めてあげたい。
相談したことを後悔するなんて、そんな生易しいものでは済まなかった。
僕はこの時、自分の恋が今この時、半分くらい終わったんじゃないかと覚悟した。
これ以上ないくらいの大きな不安を僕に与えたストリートファイター(力はあるけど女子の力はない)は、「絶対勝手なことすんなよ!?」と念を押して走り去った。
なんてことだ……!
体育会系の上下関係、体育会系の掟とは、かくも難儀なものなのか。
頼もしさの隣に、紙一重で絶望が存在することなんて、僕は今まで知らなかった。