005.四月二十八日 木曜日
時々、冷静に自分の周囲を見てみる。
一口に「バカ」と言っても、いろんな奴がいることがわかる。
たとえば、C組のアイドル・島牧翔ことしーちゃんを愛でる四人グループ。
主にしーちゃんを追いかけ、デジカメでその未熟な青き美貌を永遠に閉じ込める尊い活動を展開している。隠し撮りなのか本人の許可を得ているのかはわからないが、僕らが頼めばしーちゃんの魅力的な写真をくれる、とか。もちろん相応の対価が必要らしいが。
あとしーちゃん以外にも、普通にテレビやグラビアのアイドルなんかも好きらしく、少年誌の巻頭グラビアで盛り上がったり盛り下がったりしている場面も。最近のお気に入りは「エビ」だ。
他には、高井君と同じくらいエネルギッシュでテンションが高い運動部部員たち。
まあとにかく体育会系の熱いノリが好きな連中で、汗臭いっつーか暑苦しいっつーかなんつーか。まあ、これぞ男子校の生徒ーって感じのガサツで力が有り余っている奴らだ。
授業中に早弁なんてして、「リアルでやる奴本当にいるんだ」なんて予想外の感動を僕らに与えてくれたりもする。あ、ちなみに高井君は帰宅部である。
それに、一応、いわゆる女遊びが好きなイケメングループなんかもいる。
柳君ほどのイケメンはいないが、パッと見て身なりやオシャレにガンガン気を遣っているのがよくわかる連中だ。髪を染めたりブリーチしたりメッシュ入れたりアシメってみたり制服を着崩したりクロムっぽいシルバーアクセをギラギラさせてみたりとハングリー精神旺盛な肉食系。
色々な意味であんなのメンズ雑誌か青春ドラマでしか見たことない。がんばりすぎだろ。ガイアが輝けとでも囁いているのかってくらいがんばっている連中だ。
更に、気になる奴らもいる。だいたいいつも一人で自分だけの世界に浸っている、ってタイプだ。あと近付きたくないヤンキーっぽいのもいる。
この一年B組だけ取ってみても本当に色々いるのだ。
僕や柳君なんかは、この八十一高校においては圧倒的少数派である「ごく普通の一生徒」である。柳君の見た目は除いて。
勘違いしないでほしいのは、あくまでも普通ってことだ。
別にクールぶってるわけではない、ちょっと落ち着いているだけだ。
僕はクラスメイトをバカだと思っているが、バカにしているつもりも見下しているつもりもない。ちょっとバカが移りそうだからあまりバカ丸出しで接触してほしくないな、と思っているだけだ。
決して嫌いなんかじゃない。本当に。
僕は僕なりに、この境遇を受け入れている……と思う。……だって受け入れる以外の選択肢ないし。
いろんな濃い連中がごちゃ混ぜになっているこのB組だが、少し前に柳君に言われて、以来ずっと気になっている奴がいた。
一番後ろの席、メガネの丸い体型の彼――名を松茂英人という。
松茂君はいつも一人で、静かに黙々と雑誌を読んでいる。だが別に周囲に無視されたり嫌われているわけでもなく、時折クラスメイトと話をしているのを見かけた。
そのクラスメイトというのが、松茂君とは見た感じでは真逆に近い性質を持つ彼ら……あのイケメングループなのである。オシャレに必死な彼らなのである。
言っちゃ悪いが、松茂君は身なりを気にしているようにも、モテたいという努力が見えるわけでもない。そういう方面には無頓着というか、興味がないんだと思う。なのにイケメングループとの付き合いがある。
だから余計に気になった。
何より、あのやりすぎてチャラいを通り過ぎて次の未知なるステージにまで到達してしまった感のあるあの連中相手に微塵も引かず、普通に接することのできる松茂君の勇気と度胸だ。僕はあの勇気と度胸に感服したのだ。
彼はいったい何者だ?
いつも何の雑誌を読んでいる?
イケメンたちとの関係は?
興味が枯葉のように降り積もり、そろそろ重くなってきた。いいかげん掃除してすっきりしたいところだ。
……そうだな。そろそろ行くか。
お世辞にも社交的とは言えない僕だが、怖そうじゃなければ普通にクラスメイトに声を掛けるくらいできる。引っ込み思案すぎるわけでもないから。普通だから。
「松茂君」
呼びかけると、彼はゆっくりと視線を上げる。
うお……近くで正面から見ると、結構目付き鋭いな。ちょっと怖いぞ。
「――待ってたぜ」
「あ?」
意味のわからない言葉に思わず低い声を漏らす僕など気にせず、松茂君は口の端を上げてニヒルに笑った。
「一之瀬が話しかけてくるのを待ってたぜ」
な、なんだこいつ。なんか……なんかかっこいいぞ! え、何このキャラ!? 予想外すぎるんだけど!
「最近よく見ていただろう? 気付いていたさ」
「そ、そう……ごめんね、なんか気になって……」
さりげなく見ていたつもりだったが、どうやらバレていたらしい。松茂君からしたら監視でもされているようで気分が悪かったかもしれない。悪いことをした。
「わかっている。色々気になっていたんだろ?」
フッ。松茂君は鼻で笑った。
「まず先に答えよう――さすがに俺のキログラム、三桁はないぜ?」
「それは気にしてない」
男の体重なんかどうでもいい。つか何がキログラムだよ。普通に体重って言えよ。
「それ、いつも何読んでるの?」
「これか? ただのロードマップだよ」
開いていたペラペラの雑誌を閉じ、表紙を見せてくれた。……あ、見覚えがあるな。コンビニや本屋なんかでよく見る、マガジンラックに立ててある無料配布のアレだ。
「俺はうまいものが好きなんだ。この八十一町近辺の全ての飲食店を食べ歩く。それが俺の趣味で、生きがいだ」
なるほど、そういうことらしい。あの無料配布の雑誌やチラシは、新しくできたり記者が取材した飲食店の紹介が多く掲載され、割引クーポンなんかも付いているから。
グルメか。そうか、そういう方面の奴だったのか。アニメやマンガやゲーム方面じゃなくて、その体型によく似合う趣味を持つ奴だったのか。柳君が「ある種のマニア」と言っていた理由もわかった。
「で? 一之瀬もデートに使える洒落た店を教えてほしい、と?」
ピンと来た。これがイケメンとの繋がりのようだ。
「あいにく相手がいないから、今はいいや。いつか教えて」
「憶えておこう。――ところで一之瀬、確かよその町から引っ越してきたんだよな?」
「そうだよ。つってもあんまり遠くじゃないけど」
「浜屋には行ったか?」
「はまや?」
「まだなのか。この辺の学生には有名なお好み焼き屋だ。安価でありながら具沢山で、やや酸味のある秘伝のソースと荒い鰹節の組み合わせが絶妙だ。この町の中高生なら一度は食しておくべきだな」
「は、はあ」
なんかいきなりお好み焼き屋のセールストークされてしまった。まあ嫌いじゃないし、お勧めなら行ってみたい気もするが。最近お好み焼き食ってないし。
「じゃあ柳君でも……いや、高井君でも誘って行ってみるかな」
柳君はお好み焼きとか食べなさそうだし。似合わないし。お上品にパスタでも食ってやがればいい。
「高井なら場所を知っていると思うが……おっと失礼」
松茂君はどっかのエリート会社の重役のような渋く重い貫禄をかもし出し、ズボンから震える携帯を取り出した。液晶を見るなり「フッ」と笑い、通話ボタンを押す。
そして、驚愕の一言が飛び出す。
「――やぁ、ハニー」
はにぃ!? 何言ってんだこいつ!?
「今日の予定? いつも通りさ。一緒に来るかい? ……ああ、じゃあ、いつもの時間にいつもの場所で」
ピッ。松茂君は昔の刑事ドラマのボスっぽい渋さと重みを見せ付けつつ、「やれやれあいつにも困ったもんだフフフ」とでも言いたげに肩を揺すり、ニヒルな笑みを浮かべたまま携帯をズボンに収めた。その重厚さ(脂肪的な意味ではなく)は、とてもじゃないが僕と同い年には見えない。二十代と言われても否定できない。
しかし今はそんなところにツッコミを入れている場合じゃないだろう。
「か、彼女から電話?」
「彼女? フッ。限りなくそれに近い存在から、とでも言っておこうか」
「そういうのいいからはっきり言えよ。ぼかすな」
「お互い相思相愛であることを知っている幼馴染同士。これが一番近い表現だろう」
そ、相思相愛の幼馴染か……羨ましい……
「可愛いの?」
「どうかな」
「だからそういうのいいんだよさっさと答えろもったいぶりやがってでも羨ましくなんかないからな」
松茂君は「落ち着け一之瀬。必死すぎる」と、いたって冷静な僕をたしなめた。ああそうだとも。僕は冷静だとも。冷静極まりないとも。ただちょっとモテたいだけだとも。
「可愛いか可愛くないか。悪いがそんな小さな理由であいつを好きになったわけじゃない。だから俺には判断できないんだ。俺にとってあいつはいつだって世界一可愛い女だ」
「う……」
か、かっこいい……無駄にかっこいいじゃないか! つかなんだこの十代にして三十代の貫禄は! もう右手にでかいワイングラス見えるわ! いっつもワイングラスでブランデーをストレートで飲んでるわこいつ! 十代にして生き様を背中で語ってるわ!
「一之瀬にもいつかわかる時が来るさ。――同じ男だからな」
バカだけじゃない。
この高校、あらゆる意味ですごい奴も少なくない。決して。
でも基本はバカでしかない。
昼休み、それぞれ昼食を取りつつ、グルメボスとでも呼んでやりたい松茂君から聞き出したお好み焼き屋のことを、柳君と高井君に話してみた。
「ああ、浜屋か。行ったことあるよ」
今日も昼時の購買部という地獄から生還を果たした高井君は、人気のあるコロッケパンとメロンパンという戦利品を得ていた――僕は後に知るのだが、この高井秋雨、新兵(新入生)のくせに生還し、なおかつ戦果まで上げる一年の凄腕ルーキーとして校内に知られる存在となりつつあった。今は全然関係ないけど。
とにかく高井君は、噂のお好み焼き屋に食べに行ったことがあるみたいだ。半露出狂のヘンタイだが人当たりと人付き合いはいいから、あまり意外な感じはしない。
「お好み焼きか」
柳君の反応は、いつも通りドライだった。でもこっちは行ったことなさそうだ。まあ柳君には似合わないしね。オシャレな店でピザでも食ってやがればいい。
「行くか? 場所ならわかるぞ」
「そりゃ心強い」
松茂君から一応場所も聞いているが、知っている奴がいるなら安心だ。
「いつ行く? 高井君の都合は?」
「俺はいつでも。今日明日でもいいし」
そういえば、明日から三連休である。明日は昭和の日で、土日と連なるのだ。
「土曜日曜の昼時でもいいとは思うが、休日は時間を選ばないと混むから注意な」
グルメボスから聞いた話では、ここらでは有名な店らしい。昼時はきっと満員になるのだろう。
「じゃあ今日の放課後は?」
休みの日を避けるとすれば、今日を除けば三日後の月曜日になってしまう。なんとなーく食べたくなってきた僕の提案に、高井君は「いいぜ」と頷く。
「どうせこれだけじゃ、俺は夕飯まで我慢できないからな」
これ、とは、購買で買ってきたパンである。高井君のガタイを見れば、パン二つじゃ足りないのは見た目通りだ。
簡単に放課後の予定が詰まったその時、
「…………」
妙な間が空いた。
チラッと柳君を見たら、僕をガン見していた。いつものクールな顔で。
「なんだよ柳」
高井君は不思議そうな顔をし、後に取っておいたメロンパンの袋をばりっと破いた。
「ちゃんと話入れよ。おまえどうなの? 来れねえの? 予定あんの?」
どうやら高井君は、自然と柳君を頭数に加えていたようだ。……うん、高井君は正しい。筋肉にこだわりすぎだが、彼は僕より性格は良いんだと思う。
そして僕は、そんな高井君を見て後悔し、己を恥じた。
ごめんよ柳君。僕は柳君に似合わないという理由で、自然と話を振ることを避けていたように思う。「この俺が? おまえらとお好み焼き? ハッ、おまえらと違ってお好み焼きなんて昭和臭いダセーもん食わねえよ」なんて言われたら殺意を抱きそうだから誘いたくなかったんだ。そんなことを言わないのなんてもう知っているのに。
意地悪なんてしないで普通に誘えばいいのだ。
オシャレな店で柳君にお似合いのパスタとかピザとかワッフルとかじゃなくて、僕たちと一緒に全然似合わない下町風の昭和テイスト漂う店でお好み焼きを食べやがればいい、と誘うべきだったのだ。浜屋が下町風の昭和テイスト漂う店かどうかは知らないけど。
似合う似合わないじゃない。柳君がどうしたいか、そして僕や高井君がどうしたいか、だ。無理に誘う気はないが、せっかくだから柳君も来ればいいとは思うのだから。
「俺はお好み焼きを食べたことがないが、それでもいいのか?」
なんと。
「え? 食ったことねえの?」
「ああ。だから作法がわからない。迷惑を掛けるかもしれないが」
似合わないとは思っていたが、まさか食べたことがないとか……外見だけじゃなくて中身までオシャレにできているらしい。
驚きとともに、少々呆れた。こいつはどこまでもイケメンか。高井君もそんな風に感じらしい。
「おまえ普段何食ってんの?」
いぶかしげな目に問われ、柳君はやはりいつもの冷たい口調で答えた。
「パスタとかが多い」
僕はもう自分を抑えられなかった。
「――一生オシャレにパエリヤでも食ってやがれ」
素直に、正直に、まるで木漏れ日から差し込む一筋の光のように美しく。気がつけば心の底から湧き出た言葉が僕の口からこぼれていた。
もしかしたら、これが僕の生涯最初の、自分を抑えられない魂からのツッコミだったのかもしれない。狙ったわけでも待ち構えていたわけでもなく、本当に自然に出たのだ。言った自分が驚くほど自然に。
――その後、特に何か問題が発生するでもなく、僕のツッコミはツッコミとして普通に処理され、結局三人で行くことに決まった。
午後の授業も終わり、ホームルームも無事終わり、それぞれ掃除のために区分場所に散る。
掃除が済み次第、僕らは教室で待ち合わせることになっていた。といっても僕のグループは教室が掃除場所だが。
男子校なので、掃除なんてかなりザツで適当である。
ささっとホウキを掛け、ささっとゴミ箱を焼却炉に持っていけば終了……つまり教室の掃除当番は実質二人だけでいいのだ。いや良くはないが、代々そういう手抜き作業でいいと決まっているそうなのだ。何とも八十一高校らしい伝統である。
いつもなら出席番号順で区切られたグループ五人でのジャンケンで二名が決まるが、今日の僕は残る予定があるので、ゴミ出しを買って出た。各教室に設置されている青い大きなポリバケツを抱え教室を出る。背中に「うおーマジかよー三連敗だよー」と、最近負け癖が付いているイケメングループの一人、日焼けした肌が黒光りする大喜多君が間延びしたチャラい口調で嘆いていた。
廊下掃除当番で、日々ガチンコ分を増していくホウキでチャンバラして遊ぶA組三人をかわし、先輩より先に部室に行こうとクラブに駆けていく数名に追い抜かれ、それぞれの目的へと向かう男どもを避けながら廊下を歩く。
中学以上の開放感がある放課後。
雑多で粗野で荒々しく、無駄に高濃度なエネルギーに満ちているのを身体に感じる。目に映るものも耳に届く音も肌に感じる雰囲気も、それら全てが見せてくれる臭いも、どれもが高校生の男子を表しているように思う。
そう思ったら、正直萎えた。
こんな見渡す限りの男の群れの中に、僕は今いるわけだ。考えれてみれば異常な環境なのではなかろうか。男子校なんて。こんな生活環境の中でこれから三年間を過ごすと思うと、ますます萎えた。
憂鬱になり溜息を吐きながら階段を下りる途中、ちょうど階段のど真ん中で、同じくゴミ出し当番になってしまったらしき生徒の背中が目に飛び込む。邪魔臭い。左右どっちかに寄ってくれないかと願うも――
「うわわっ」
僕と同じく、両手でポリバケツを抱えている。
それだけで多少動作が遮られはするが、前方の彼は荷物が重いのか単に非力なのか右にフラフラ左にフラフラ、時々前傾したり堪えようとして後ろに傾いだりと、ヤジロベーを思い出させるくらい危ないことになっている。段を踏み外して転げ落ちそうな心配をリアルにしてしまうくらいに。
彼は僕より背が低く、百六十センチ前後と小柄で、しかも僕より華奢に見える。たぶん同じ一年生だろうと当たりをつけ、僕は言った。
「危ないから一度置いて」
僕の声に反応し、前の彼はビクッと少しだけ肩を震わせると、落ち着いてポリバケツをすぐ横、段の上に端っこだけ乗せて固定した。両手は離せないが、片手は空く。
「ご、ごめん」
「邪魔だった?」と問いつつ、彼は僕を見上げた。
「少しだけ――ごめん嘘です邪魔じゃないです」
「…?」
「むしろ僕こそごめんなさい」
「え? なんで君が謝るの?」
危なかった。もう少しでマイナス印象を与えてしまうところだった。フフッ、我ながら素早い対応ができたな。
なんと。なんとなんと。
前方でフラフラしていた小柄な彼は、あのC組のアイドル・島牧翔ことしーちゃんだったのだ! あっぶね、もうちょっとで「少しだけ邪魔だった」なんて狭量な文句を言って嫌われるところだった! あっぶね! っぶね! ……本当は嫌われてもいいんだけどね。いくら可愛くてもしーちゃん男だし。でもまあ男女関係なく、わざわざ自分から誰かに嫌われに行く必要はないだろうってことで一つ納得しよう。うん。ほんとそれだけね。
それにしても本当に可愛いな……これ反則だろ……あ、ダメだ。近くで見てると好きになりそうだ。まつ毛長いとか考えたらダメだ。
僕は極力しーちゃんを視界に入れないようにして、しーちゃんが持っているバケツに目を向けた。
「それ、重いの?」
「うん……今日はちょっと重いかな」
蓋がしてあるのでバケツの中は見えないが、実際しーちゃんにとってはかなりの重労働らしく、彼の額には汗が浮かんでいた。今日は動く程度で汗が出るような陽気ではない。陽の下ならともかく、建物の中ならなおさらだ。
「僕のと交換しようか。こっち軽いから」
「え?」
僕は強引に、自分の持つバケツをしーちゃんに押し付け、しーちゃんが持っているC組のバケツを手に持った。
「悪いよ。そんな」
「いいから早く行こう――よおぉうっ!?」
最後の「よ」が、見事に裏返った。持ち上げようとしたのに持ち上がらないバケツ。ガクンと身体に掛かる想像を超えた重量に、本気で肩の間接が抜けるかと思った。
こりゃしーちゃんフラつくわ……何これ? 何が入ってるんだ? 鉄アレイ?
「だ、だいじょうぶ?」
「……平気」
我ながらあまり平気じゃない濁点ついてるような声が出てしまったが、見た目通りしーちゃんよりは僕の方が力はあるらしく、危なげなく階段を下りていくことはできた。ポリの取っ手が指にグイグイ食い込んで痛いけど。
後ろから付いてきていたしーちゃんが、一階に降りてから横に並ぶ。
「ごめん。助かったよ」
眉毛をハの字に下げ、申し訳なさそうに微笑むしーちゃん。やめろ! そんな顔されると好きになっちゃうだろうが!
僕は理性を働かせて、とにかく話を振ってみた。NG顔を変えさせるのだ。
「これ何入ってるの? 異常な重さだけど」
しーちゃんは言いづらそうに「えーっと」と言葉を選ぶ。
「……知らない方がいいと思うよ」
なんでも、C組ではここ一週間ほど教室掃除が実施されずゴミが溜まりに溜まり、さすがに我慢できなくなったしーちゃんがゴミ出しだけでも済ませようとしていたらしい。掃除区分が違うにも関わらず。なんて良い奴だろう。しーちゃんは中身も可愛いぞ。
つまり、これの中身は混沌か。
一週間分の男たちの生活の残滓が溢れんばかりにぎゅうぎゅうに詰められているわけだから。もう悪夢としか言いようがない。一日分でも結構イヤなのに、一週間も寝かせて熟成されているのだから。一週間物なのだから。見たらトラウマになりそうなのでしーちゃんの助言に従った方が無難だろう。怖いもの見たさ? これは怖すぎるからダメだよ。
「一週間分のゴミって、もしかして教室掃除班のサボり?」
「うん。なんていうか、男子校って感じだよね」
ほかを知らないのでなんとも言えないが、この八十一高校が特別って気がしないでもない。いくら男子校でも、さすがに一週間も掃除やゴミ出しをサボるものだろうか。こんなにルーズなのは八十一高校くらいじゃなかろうか。
「君は、B組の」
隣の教室なので、しーちゃんも僕の顔くらいは知っていたようだ。
「一之瀬。君はしーちゃんだろ」
「そうだよ」
まるっきり普通の言葉を交わしながら、僕らは焼却炉へ向かう。
話してみると、しーちゃんは普通だった。見た目も中身も雰囲気もどこか浮世離れしている柳君より、よっぽど僕に近く庶民的で接しやすい。あとやっぱり可愛い。反則だろ。
庶民派のアイドル……なんと罪深き存在だろうか。これで女の子だったら遠慮なく好きになれたのに。僕のように悔やんでいる男が、いったいこの高校にどれだけいるだろう? まあしーちゃんが女の子だったとすれば、逆にここにいるわけないんだけど。
仮にしーちゃんが同じクラスだったら、柳君の代わりに僕のオアシスになっていたのだろうか――と考えたところで、恐ろしい想像を振り払うように激しく首を振った。
もしそんなことになっていたら、僕はしーちゃんに間違いなく恋してる! 今でさえすでに心臓が痛いのに! 心が何かを訴えているのに! 毛穴が全開になりそうなのに!
教室が違うくらいでちょうどいいんだ。
たまたま困っていたから普通に助けただけであって、それ以上のことはない。出会ったばかりで友達でもないし、こんな些細な縁なんて、すぐ途切れることも考えられる。明日になればしーちゃんが僕の名前を忘れているってこともありえるわけで。何せ僕はまったく普通で、目立つ要素なんて全然ないんだし。
校庭の隅の方に設けられた焼却炉では、上下作業服の用務員のじいさんが、僕らが持ち寄ってくるバケツをよどみない速さで処理していた。並んでいる僕らからバケツを受け取り、十秒も掛けずに焼却炉に中身を放り込み、バケツを返す。何気ない動作でしかないが、もう何年もやっているのだろう無駄のないベテランの技だ。まさに焼却炉の魔法使いって感じだ。
並ぶほどの間もなく、すぐに順番が回ってきて、僕はバケツを差し出す。忙しいからか元々寡黙なのか、じいさんは何も言わずに黙々と作業を――
「おっぐっ」
混沌入りのバケツを受け取ったじいさんの腰が大きく曲がり小さく呻いたのは、じいさんの名誉のために、僕だけの秘密にしておこうと思う。確かにそれは重いから。
照れ隠しのように、超重量のそれを受け取るとすぐに焼却炉に身体を向けたじいさんは、
「あばぐっうっ。ぶはっ、ごほっ」
蓋を開け、一週間物の混沌を垣間見たようで、変な悲鳴を上げてむせていた。もちろん彼の名誉のために、僕は誰にも言わないと決めている。だから安心してほしい。
これまでの彼の仕事にここまでの難物があったかどうかはわからない。が、見上げるほどのプロ根性で仕事をこなしたじいさんは、空にしたバケツに蓋をしつつ僕によこした。……思いっきり僕を睨みながら。「おまえブン殴ってやろうか」ってくらいのことを語っている怖い顔をして。
僕は今後しばらくゴミ出しを遠慮しようと思う。できるだけ顔を見せず、彼の恨みが定着しないように。というか一週間物の悪意そのものを生み出したC組のツケがなぜ僕に回るのだろう。理不尽だ。
「ありがとう。重かったでしょ」
僕のあとに並んでいたしーちゃんがB組のバケツを空にし、その辺で待っていた僕に笑顔を見せた。可愛い。
「いえ全然。こちらこそありがとう」
「え? なんで一之瀬君がお礼を言うの?」
反射的に出てしまっただけではあるが、強いて言うなら、僕の中ではしーちゃんの笑顔は苦労に見合う充分な報酬になったからだ。反則だ。
バケツを交換して、並んで教室に戻った。
「おせーぞ」
教室の前には、すでに高井君と柳君が鞄を持って立っていた。
「高井君たちが早過ぎるんだよ」
僕が遅いんじゃなくて。多少しーちゃんと足を止めることはあったが、寄り道なんてしなかったんだから。
「お、しーちゃんだ」
「こんにちは、高井君。柳君」
え?
「知り合い?」
全然接点がなさそうな高井君に問うと、彼は普通に頷いた。
「昼休みに購買で世話することがあるんだ。時々だけどな」
高井君の説明は、簡素すぎだが理解はできた。
きっとしーちゃんはパンを買いに行き、かつての僕のようにあの戦場を見て困り果ててしまったのだろう。そこで高井君が手を貸した、と。高井君はヘンタイであることを除けば良い奴だからありそうな話だ。ヘンタイだけど。
「柳君も?」
「島牧とは同じ中学で、三年の時に同じクラスだった。あまり接点はなかったが」
あ、こっちは普通の理由だな。出身中学が一緒なのか。
「ちょうどいいや。しーちゃんも一緒に行かねえか?」
「ん? どこへ?」
「浜屋。お好み焼き食いに行くんだ」
「え、うそ。行く行く。……あ、いいかな?」
高井君の提案に瞳を輝かせて即答したしーちゃんは、我に返って僕と柳君を交互に見やり、許可を求めた。くそ、可愛いな。そんな可愛い挙動されたら断れないだろ。反則だ。まあ断る理由もないけど。
「僕はいいけど」
「俺も構わない」
「やった! 鞄取ってくるね!」
テンションの上がったしーちゃんは、いそいそとC組に走っていった。
「……わりい。つい誘っちまった」
高井君はらしくなく眉を下げて頭を掻く。僕と柳君の答えは揃って「別にいい」だった。
――後日知ることになるが、しーちゃんは教室での過剰なアイドル扱いで微妙に孤立してしまっているらしく、気軽に話せる相手がいなくて寂しい想いをしているそうだ。それを知っている高井君は、だから誘ったのだ。まったく。可愛過ぎるというのも考え物である。
「僕も鞄を取ってくるよ」
教室に入ると同時に、
「おっつおっつー」
一人、教室掃除を押し付けられていた大喜多君が、恐らく「お疲れさん」の意を示す言葉を発しつつ、めちゃくちゃチャラく僕に手を振りながら擦れ違い教室を出て行く。肌を黒光りさせて。
「お、おぉ……」
と、引き気味にかろうじて返事をした僕だが、うまく声が出なくてほとんど無視してしまったような状態になってしまった。悪いことをした。
だって大喜多君、手のひらばかりか指までヒラヒラしてたから。廊下から「じゃーなー高井ー、柳ー」「プロテイン飲めよー」などという成立してないやり取りが聞こえた。会話はもう諦めるとして、挨拶くらい成立させてほしい。挨拶を返せなかった僕が言えることでもないが。……なんか怖いんだよね。イケメングループ。必死すぎて。
鞄を回収した僕としーちゃんが合流し、お好み焼きを食らいにいざ浜屋へ!
店は、学校から歩いて十数分ほどの場所にあった。なんの変哲もない普通のお好み焼き屋だ。昭和テイストは……あるような、ないような。新しいと言うには歴史を感じるし、古いかと問われればそうでもないとしか応えられない、本当に普通の店だった。
同じ八十一高校の生徒が二グループほどいたが、まだ席に余裕があるので僕らも問題なく座れた。
テーブル一つを占領し落ち着く。
自分たちで焼いて食べるよくあるシステムで、中央には鉄板があった。黒光りするそれを見て、教室で別れた大喜多君を思い出した。
メニューを見たり、よそのテーブルから否応なく興味を引くソースの焦げる音に腹の虫を騒がせたり、「ビール飲みてぇー。超ビール飲みてぇー」という高井君のあからさまな不良アピールボケに「おまえはプロテインと水しか飲まないだろう」という柳君の的確すぎるツッコミに笑ったりして。
注文をして、店員のおばちゃんが火を入れて。鉄板から徐々に伝わる熱を感じながら、B組対C組のバカ行為対抗戦で無駄な勝敗を争い、しーちゃんが放った驚愕の一言「クラスメイトが学校に犬を連れてきた時は本当に驚いたよ。小型の座敷犬をバッグに入れて」という想像を超えるバカの存在に度胆を抜かされたり。
注文した物が届きそれぞれ焼き始め、空腹に耐えながら焼きあがるまでを心待ちにする。この空腹、そして腹を刺激する音と匂いこそ、やはりお好み焼きの醍醐味なのではないだろうか。ひっくり返してちょうどいい焼け目のついた裏面を見ていると、空腹は最高のスパイスという有名な言葉を実感する。あと少し、あと少し。
グルメボスから聞いた秘伝のソースを厚く伸ばし、荒く削った鰹節をたっぷり躍らせ、青のりを舞わせればようやく完成。熱い内にふーふーいいながら少しずつ食べ進めていく。言うまでもなくうまい。僕は細かい味比べができるほど舌は肥えていないが、この店のソースは濃厚でおいしいと思う。
お好み焼き初体験の柳君は、感想を聞くと「悪くない」と冷静に漏らした。口の回りに青のりをつけて。面白かったので誰も教えなかったが、習慣のようで食べ終わったらきっちり口元を拭いた。そつがない奴だ。
「猫舌だから」といちいち可愛いしーちゃんが食べ終わっても、僕らはだらだら居座り話していた。中学の時のこととか、個人的なこととか、趣味のこととか。どうでもいい話題が多かったが、話すことは尽きなかった。
客の出入りが慌しくなってきたので店を出た。
時計を見ればもう五時だった。
三人と別れて帰途につく最中、ふと思った。
中学の時にも、こんな風になんの実もない話で友達と笑いあったな、と。
どうやら僕は、あのバカだらけの八十一高校で、うまくやっていけそうだ。
そして愕然とした。
家に帰ってから僕の口の端に青のりが付いていたことが発覚したからだ。畜生め。誰か教えろよ。