058.六月十八日 土曜日
「あ、一之瀬君」
放課後、いつかのように図書室に来てみると、やはり彼がいた。
C組のアイドルしーちゃんだ。
「ちょっと」
僕は言葉少なにしーちゃんを手招きし、本棚が立ち並ぶ図書室の奥へと連れ出す。
伊達にアイドルとは言われていない。最近は、図書室常連となっているしーちゃん目的で図書室の利用者が急造しているという噂は、本当のようだ。ほんの一瞬接触しただけなのに、突き刺すどころか殺意にも似た視線をいくつも感じた。……恐ろしいものである。
まあ校風からして本当に本が好きな者は少ないようで、静謐なる図書室の更に奥は、無人と沈黙が約束されていた。
本棚に隠れるようにして、僕としーちゃんは顔を付き合わせる。……むう、やや暗い場所で見るしーちゃんは、いつもの未熟な青き魅力を違う角度で見せている。かわいいじゃないか。すごくかわいいじゃないか。あとシチュエーション的に学校でひとけのない場所でこっそり会っている付き合いはじめのカップルみたいでグッと来るじゃないか。
危なかった……昨日までの僕なら、きっと「好きになっちゃうからやめろ!」と思ったに違いない。
「どうしたの?」
「いや……例の約束のブツを持ってきたから」
しーちゃんは「例のって……」と聞こうとして、心当たりを思い出して頬を染めた。うわ、かわいいな!
「約束のブツって、その……アレ?」
「うん。エロ本」
しーちゃんはうつむき沈黙した。照れてる。照れてる照れてる。かわいいなぁ……いややめろ! しーちゃんがノーマルでも相手がノーマルでもそういう反応はずるいぞ!
「特に好みはないって言ってたから、僕なりに選んできた。僕はしーちゃんは年上のお姉さまに優しくいじめられているのが似合うと思う」
「えぇ……?」
「もしくは生意気な年下の女の子に普段はぎゃーぎゃー言われてるけどアノ時だけはしーちゃんの方が強い……そんな感じも似合うと思うけど。どう思う?」
「どう、って言われても……」
「どっちにしろ、しーちゃんはいじられて輝くタイプだと思う」
「自分ではよくわからないよ」
いや、実際今君は僕にいじられていて、非常に魅力的な反応をしているよ。男の僕でも鼻の奥がツーンとなるくらい来るんだから、女の子だって放っておかないだろ。
僕は鞄から茶色い紙袋を出し、そっとしーちゃんに引き渡した。しーちゃんは両手でそれを胸に抱き締めた……「大切なもの」ではなく「人目を憚るもの」として。
僕レベルとなるとまず何をおいても中身を確かめてみるものだが、しーちゃんレベルでは人の前で隠し持つだけでもハードルが高いのだろう。……僕にもこんな頃があった気がする。
「……本当に持ってきたんだね」
「約束だったしね。それに」
これまで渡さなかったのは、何も忘れていたからじゃない。エロ初心者のピュアには公の場での引き渡しは気まずかろうと気を遣った結果だ。
土曜日の図書室がベストだと、僕なりに考えたのだ。ここなら奥に入れば人目も届かないし、無遠慮に絡んでくる輩も少ないはず。
「しーちゃん、一応言っておくけどね」
「う、うん」
「これは決してやましいモノじゃない。僕が、君が、思春期の少年が、大人になるために必要な参考書のようなものなんだ」
僕は篤と語った。
エロ本が存在する理由、
エロスに興味を持つ理由、
そして、それを手に入れるために振り絞る、少年から大人への一歩を踏み出す勇気――
僕らも、まあ、いずれ、そういう初体験を迎える時が来るだろう。これらはその時の参考書で、また教材なのだ。
ふしだらな気持ち?
あるよ。むしろそれ全開だよ。でもふしだらもまた学ぶべき道の一つだと僕は思う。
知らないってことは、免疫がないってことだ。
免疫がないってことは、成功率を下げるってことだ。
成功しなかった場合、果たして傷つくのは自分だけだろうか? 男だけだろうか? 相手の女性は傷つかないか? 傷つかないとなぜ言える?
成功も失敗も、よっぽどの理由がない限りは、片方だけのせいでは済まされない。そういうものだと僕は思う。
そして、どちらも初体験だった場合、やはりその時は男がリードするべきだと思う。そのためにも僕らは学ばねばならない。女性に恥をかかせるなど言語道断だ!
「しーちゃん。僕らはむしろ知らないといけないんだよ」
僕は、なんだか熱に浮かされているようなしーちゃんの両肩をガシッと掴んだ。彼にとっては刺激が強すぎる内容だったのかもしれないが、それじゃダメだ。
「しっかりしろ。立ち止まってる場合じゃないぞ。昔ならともかく、今はその時がいつ来るかなんてわからないんだから。突然来たりするんだから」
「う……うん」
どこまで伝わったかはわからない。
でもしーちゃんは頷いた。だからきっと伝わったんだと信じたい。
「……一之瀬くんは、そんなことばっかり考えてるの?」
「どうかな」
――そんなわけないだろ! しーちゃんがブツと知識を受け入れやすいようにひねり出しただけだ! 僕が考えるのは必要性と大義名分じゃない、女体とフェチとエロスのみよ!
だが、いいのだ。
真面目なしーちゃんが、少しでも罪悪感と羞恥心なく未知の(エロい)世界へのページを捲ることができるのであれば、僕の嘘も捨てたものじゃないと思う。
それと、違う意味での罪悪感は、確かにあった。
「しーちゃん……ごめん」
「え? 何が?」
「僕……好きな人ができた」
油断すると、すぐに、昨日出会った九ヶ姫女学園の天塩川さんのことを考えている。あの微妙に跳ねている癖毛と健康的な笑顔、僕みたいな下心満載な男にも向けてくれる優しい瞳が胸に突き刺さったままだ。
「そうなんだ。……え? なんで謝ったの?」
「ほんとごめん。君というものがありながら、ほとんど瞬殺されたよ」
だって……だってずるいよ。ずるいよ! 初対面なのに間接的なアレとか! 間接的なキスとか! 好きにならない方がおかしいよ! もし好きにならないって奴がいたら僕の前に連れてこいよ! たとえグレ●シー一族のような屈強な野郎でさえも正座させて説教くれてやる! そういうのやり慣れててその辺麻痺してるイケメンは酸素の無駄遣いを今すぐやめてさっさと滅びろ!
「う、うん……あの、一之瀬くんに好きな人ができたのはいいんだけど、なんで僕に謝るの?」
「浮気な僕を許してほしい」
「いや、だからね、なんで僕に謝るの? 浮気ってなに? 別に一之瀬くんが誰を好きになってもいいと思うんだけど」
「あ、でも」と、しーちゃんは笑った。
「だったらもう、僕にスカート履けとか言わないよね?」
ハッ。戯言を。本当にしーちゃんは戯言が好きだな。
「それとこれとは話が違うだろ」
「違っ……え!? 違うの!? その、でも、僕が履いても仕方ないじゃない! 一之瀬くんが好きな人に履いてもらえばいいじゃない!」
「それはそれ! これはこれ! ビーフはチキンにならないし、チキンもビーフにはならないの! しーちゃんには他の誰にも真似できないしーちゃんの良さがあるんだよ!」
「何それ!?」
「あと僕はスカートよりタイツにこだわってほしい! しーちゃんは黒タイツを履くべきだ!」
「い、一之瀬くんのヘンタイ!」
ううむ、なぜだろう。
他の奴に言われたところで鬱陶しいだけなのに、しーちゃんに「ヘンタイ」って言われると、なぜだか胸にほのかなときめきが……
だが、どうやら間に合ったようだ。
僕が本気でしーちゃんを好きになる前に、ちゃんと女性を好きになることができたのは、密かだが、しかし、かなり大きな意味があったように思う。
色々な意味で。
はぁ……天塩川さん……また会いたいな……