057.六月十七日 金曜日
運命のその日は、薄暗い空の下にあった。
「ここか」
見るからにきつそうな傾斜を見上げ、僕は確信した。
ここがしーちゃんの言っていた場所だろう。間違いない。
ジョギングがてら、僕は隣町の八十三町に来ていた。
三日前の火曜日、一緒に昼飯を食べにいったC組のアイドルしーちゃんに聞いたところ、「八十三町に坂道? あるよ」とのことで、この場所を紹介してもらった。
八十一町にはいい感じの坂道が見つからなかったのだ。唯一近場で見つけたところは、あまり負荷を感じないゆるい坂道だった。何度か走ったが、どうにも物足りなさが拭えず、しーちゃんから聞いた坂道を探しにここ八十三町まで来たのだ。
八十一大河をまたぐ八十一大橋を越え、まっすぐ行くことしばし。名店との噂のケーキ屋を右に折れ、道なりに行くと大きな住宅を縫うように走る道が徐々に狭くなり――その奥に、急勾配の坂が姿を現した。
距離にして三十メートルほどだが、実は鋭角に左に折れるL字型になっているそうで、下から見上げるだけでは見えないが、更に同じくらいの距離の坂が続いているらしい。
どうやら崖のようで、右手側をコンクリートで固め、左手側にガードレールがあり、町を眼下にすることができるようだ――が、これくらいでは見下ろすほどの高さはないだろう。だが遠くから見ると、結構上の方にも住宅地が続いているように見えた。恐らく断続的に坂道になっているのだと思う。
軽自動車でギリギリ、という幅の一般車両通行禁止のこの坂は、二上一番坂というらしい。一番坂か……二番三番と続いたりするのかな?
まあいい。
目当ての場所は見つかったので、僕は早速走ることにした。
僕の臨時コーチになっている沢渡夏波さん、通称カナさんは、「とにかく坂道を走れ」と僕に言った。短距離走のスピードを上げるには有効なトレーニングなのだそうだ。
そんなアドバイスを日曜日に貰ったはいいが、僕が住んでいる八十一町には、いい感じの坂道がなかった。あるいは結構遠い場所にあった。唯一見つけた坂道は、なんともゆるい傾斜で、走り始めの頃から「この程度じゃダメじゃないか?」とずっと疑っていた。まあ、やらないよりはずっとマシだったとは思うが。
そこで、フィールドを変えることを考えた。
こっちの八十三町は、僕はほとんど来たことがなかった。具体的に来た記憶と言えば、いつかの土曜日に九ヶ姫女学園を訪ねてきた時くらいだ。
大して期待もせず、軽い気持ちでしーちゃんに聞いてみたら、この坂のことを教えてくれた、というわけだ。
今までやっていたジョギングと比べれば、ここまでの道のりは段違いだった。だが本当に体力がついているらしく、ほとんど息切れなくここまで来ることができた。「継続は力なり」を妙に実感している。
「はあ、はあ、はあ」
三本も走ると、汗だくになった。息も切れ、顎が上がる。
やっぱりこの傾斜はキツイ。いつもより身体が重く感じるし、いつもよりバネを利かせないと前に進まない。
だからこそ、効いている気がする。
ちょいちょい休みを入れながらなら、十本くらいは走れそうだ。やりすぎると次の日に障りそうなので、無理せず、これから一日一本ずつ増やしていこうと思う。
そう目標を決め、振り返り、坂道を降り。
僕は俯いていたから、気付かなかった。
坂を下り終え、顔を上げると――ワァーオ!? 女子たちがいた!
この時の僕の衝撃たるや、僕を見ていた四名ほどの女子がビクッと怯えるほどの表情の変化だったらしい。……いや、彼女たちが怯えた原因の全てが、僕のせいってだけではないことだけは、触れておきたい。
純白に、赤い薔薇の花びらの一枚分だけを染料に使ったような、どこまでも上品な淡いピンクのウェア。見慣れないトレーニングウェアの上、胸元に、見覚えがあるようなないような校章の刺繍、その下には名前が……あ、あぁ……う、うそだろ……!?
心当たりに触れた瞬間、品のある校章のことも思い出した。
染井吉野を模した校章の下に、九ヶ姫の文字。
つまりこの女の子たちは、僕が夢にまで見た九ヶ姫女学園の女の子か……!?
予想外すぎる突然の出会いに、僕も、彼女たちも、かなり戸惑っていた。
片や女の子慣れしていないモテない男に、片やきっと男慣れしていないのだろう女子校の女子。まるで猫の睨み合いのように動けない。いったいどうしたらいいのかわからない――そんな互いの心境さえ手に取るようにわかる。わかるが、わかるからこそ、動けないのだ。
だが、このままってわけにもいかない。
僕は意を決して、喉を鳴らして、頬に伝う汗もそのままに、口を開いた。
「「あの、」」
No!! 同じように考えたらしき向こうの女子とかぶっちゃったYO!!
「「あ、先に、」」
二言目までかぶった。しかも異口同音。二人だけど。
「「どうぞ」」
三言目まで。……なんだこのシンクロ率。
と――向こうの女子たちが控えめに吹き出した。
ここでようやく、僕も気が抜けた。
「あの、すみません」
僕とシンクロした女子――茶色い長めのショートカットに跳ねたクセ毛がかわいい女の子……校章の下にある九ヶ姫の隣に「天塩川」と刺繍があった。天塩川さんと言うらしい。
風鈴のような澄んだ声に、内面を表すような曇りのない鳶色の瞳。全身からにじみ出るやわらかな雰囲気が、男子校に通う僕の荒んだ心に優しく触れる。白く輝く肌は汗に濡れ朝日を浴びて光っていた。僕より少し背は低く、そして全体的に細い。
「私たちは九ヶ姫女学園高等部の陸上部です。……たぶんそちらと同じ理由で来ました」
あ、陸上部か。
「坂道ですか?」
「はい。お邪魔してすみませんが」
「あ、いいですいいです。どうぞどうぞ。僕はもう行きますから」
「いえ、よろしければご一緒に。まだ途中でしょう?」
え……マジかよ!? 女子高生と、それも九ヶ姫の女の子と走れるの!?
「あと何本ですか?」
「え? あと七本ほどやろうかなと……」
「だったら走っておいた方がいいでしょう。切り上げるには多すぎます」
マジかよやったー! ……いや待て! 喜んでいいのか? 本当に喜んでいいのか!?
冷静になれ。
冷静に考えろよ、僕。
こんな千載一遇のチャンスだからこそ冷静に考えろ。
一、僕は陸上部じゃない。
つまり遅い。陸上専門の人と比べれば、女子だろうが遅いはずだ。夏波さんにも余裕で負けたし。
果たして彼女らと一緒に走って、あまりにも遅すぎて失望されたらどうなる?
二、とりあえずの坂道ダッシュを十本とした。
だが、あくまでもとりあえずの目標である。そもそもこんな傾斜の坂道ダッシュは初めてだ。
十本やる前にバテる可能性があり、彼女らより先にバテたら非常にかっこ悪いのではなかろうか?
三、地味にテンションが上がっている。
正直走るのとかどうでもいい。夢にまで見た九ヶ姫の女子が目の前にいるのだ。お近づきになりたいという下心が透けて見えやしないだろうか。
ぶっちゃけ柳君の妹の藍ちゃんみたいに、いきなり求婚しそうな自分が怖い。最近ね、女の子に飢えすぎてて、自分で自分がよくわからないんだよね。失言がポロリする危険があるのではなかろうか?
以上を考えると、このまま走ると危険なにおいが――
「さあ、ご一緒に」
「あ、はい」
……この僕が女の子に誘われて断れるものか! この僕が女の子の誘いを断れるほどの器量などあるものか!
「よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。もう僕の全てをよろしくお願いします」
「はい?」
「何でもないですよ?」
所々あやしい言動があったようななかったような気がしたが、僕は四人の女の子に囲まれて、至福の一時を駆け抜けた。ああ、僕の体力がもっとあったら、七本と言わず十本二十本と繰り返すのに。
「大丈夫ですか?」
がんばりすぎて息切れもすぎて両膝に手を付きヒーヒー言っている僕に、天塩川さんは優しく声を掛けてくれた。でも返事は待ってほしい。今苦しい。
はしゃぎすぎた僕は、目くるめく女の子とのダッシュをほとんど休憩も取らず楽しんでしまった。おかげですでに体力が限界だ。汗もびっちゃびちゃだ。
だが後悔はない。
夢にまで見た九ヶ姫女学園の女の子と、こんなにも濃密な時間が過ごせたのだ……もう、悔いはない……
心が満たされ半分口から魂が出かかっているような僕に、「どうぞ」とプラスチック製のボトルが差し出された。一切の下心から心の穢れさえ洗われてしまった僕は、何の意識もなくそれを受け取り、ストローを口にし――さわやかな水分の甘みを感じると同時に魂が戻ってきた。
僕は今何を飲んでいる?
この味は、水分補給に適しているスポーツドリンク。涼しげな青いボトルの中身は冷たさはなく少々ぬるめで、だからこそすぐに身体に馴染む。
それはいい。
それはいいのだ。
僕は今、誰からこれを貰った?
というより、これはまさか……間接的な……
脳が状況を分析し、結論を出す。
僕が横を見ると、天塩川さんが笑って見ていた。
時が止まる。
心臓が高鳴る――と同時に、カッと空が光った。誰かが「きゃっ」と悲鳴を上げた。
稲光である。
そしてその光が、僕にそのことを教えてくれた。
「あ、降りそうですね。私たちはもう引き上げます」
天塩川さんはそう言って、呆然と立ち尽くす僕を置いて、行ってしまった。
ポツリポツリと雨が降る。
未だ止まったままの僕は動けず立ち尽くす。
ボトルを握り締め、呟く。
「天塩川さん……ずるいよ」
これで落ちない非モテ野郎がいるなら連れてこいってんだ。
一之瀬友晴十五歳。夏だけど春が始まりました。