053.――Happy holiday. 六月十二日 日曜日
僕の都合で頼み、また僕の都合で先延ばしにしていたことである。
いくらケツが痛かろうと、これ以上僕の都合に付き合わせるのは気が引けた。
というわけで、予定は楽しい楽しい休日にずれ込んだというわけだ。
日曜日と言えども、この時間の朝はあまり変わらない。
いつも見た顔、いつも擦れ違う人、いつも追い越す老夫婦、僕の心をときめかせる金髪美人のあの人の「hello」。
いつものように親の仇かってくらいの勢いで僕に向かって吠え立てる犬、いつものようにどこ見てんだかって感じで置物のようにベンチに座っているステテコ肌着で腹巻をしたじーさん。
違うものといえば、車の走る音の代わりに、スズメの囀りの方がよく聴こえることくらいだろうか。
だが、今日明確に違うことと言えば、ジョギングルートが異なることだ。
というより、目的地が異なる、と言った方が正確か。
八十一大橋に向かう前の道を脇にそれ、曲がりくねった細道を進んでいくと、歩道を渡った先に新緑が目に眩しい公園が広がる。
第二八十一公園である。
ひとけも車通りも少ない横断歩道を渡り、公園沿いに進み、自動車止めのある入り口から中に入った。
そう、今日の目的地は、ここだった。
公園に入った瞬間、遠目に見える某リー先生を思い出させる黄色いジャージと黒い短パンの、見るからに体育会系な女性が目に入り……僕は愕然とした。
そして、僕が相手に気付いたと同時に、相手も僕の存在に気付いていた。
「おせぇぞコラ! 走れ!」
うわ、もう来てる! うそだろ! 約束の時間より十五分は早いのに!
もう走ってるじゃーん、なんて詭弁を言う勇気は、僕にはない。僕はまだ死にたくないからだ。
一歩ごとに抗議の声を上げるケツを無視して、僕は全力疾走でその人の下へと走った。……ケツがいてえ。この前の球技大会でヤッちまったケツがいてえ。
「先輩ちーす。今日マジ早いんじゃネ?」
「そのチャラ男系のしゃべりをやめろ。ムカつく」
「すいません」
待たせたことによる怒りの緩和を狙った、黒光りする肌が眩しいクラスの大喜多君の真似をしてみるも、どうやら火に油を注いでしまっただけのようだ。
というか、そりゃそうだろう。大喜多君のしゃべりは時々すごくイラっとするから。
特に、この人――沢渡夏波さんは、嫌いそうだし。
「つか本当に夏波さん早いです。早すぎます」
携帯で時間を確認すると、計算通り、約束の時間の十五分は早かった。この人を待たせるくらいなら僕が待った方がマシだから、そう考えて約束の時間を調整したのに。
「私が早いんじゃない。おまえが遅いんだ」
うそだろ……十五分早いっつーの。
「三十分前行動くらい常識だろ」
そんな常識知りません。ってこの人更に十五分前に着いてたの!? 早すぎるだろ! なんだよ新手のイジメかよ!
どうにも承服しかねる僕の顔を見て、夏波さんはやれやれと首を横に振った。
「おまえは何もわかってない。先輩を待たせるのがどういうことなのか全然わかってない。私が待ち合わせに遅れた時、洋子先輩が私に何をしたと思う?」
「考えたくないです」
「そうだろう。私も思い出したくない。……それくらいの事が起こるんだよ。この世界は」
体育会系の世界って……体育会系の世界って……!
「あの人が愛用している、ハートのピンあるだろ」
ああ、あの髪留めか。
「あれは『いつでもおまえの心臓をぶち抜く』って相手への警告だ」
「う、うそでしょ!? あんなかわいいピンなのに!?」
「見た目に騙されるなよ。というか、あのピンは洋子先輩に似合ってない。その点から考えても相手への威嚇と判断した方がいい」
マジかよ……なんなんだよ体育会系の世界ってよ! まあ確かに170近い洋子さんにあのファンシーなピンは目立つけどさ! 正直ちょっと見た目ミスマッチだけどさ! でも意味を考えたらこれ以上似合う組み合わせはないじゃないか! 竹●力とグラサンってくらいベストマッチな組み合わせじゃないか!
「夏波さん、そんな世界もう足を洗おうよ。いつか必ず死んじゃうよ」
「一度入ったらやめられないんだ……そういう世界なんだよ」
「お願いだからもうやめてくれよ!」
「言うな。もう私は手遅れだ。染まりきってるんだよ」
なんて、なんて厳しく冷たい世界だろう。
よもや僕の日常のすぐ隣に、こんなにも危険極まりない世界があっただなんて知らなかった。友人を介して出会えるような人が、こんなにも過酷な世界で生きているだなんて想像もしていなかった。
…………さて。
「遊びはこれくらいにして、そろそろ始めましょうか」
「ああ、やろうか」
僕が成り行きで、遠野洋子さん経由でこの夏波さんに頼んだことは、短距離走のスピードアップである。
あの憎き赤ジャージに勝つために、特訓をするのだ!
「友晴。始める前に聞くけど、尻だいじょうぶ?」
「結構痛いっす」
「だろうね。あのスピードで当たったら相当痛いだろ」
「綺麗なアザになってますけど。見ます?」
「尻出したらそのジャージ剥ぎ取って帰るからな」
なんと。僕にここからシャツとパンツで帰れと言うのか。恐ろしい人だ。捕まっちゃうぞ。
「ウォーミングアップは済んでるな? じゃあ――」
夏波さんは、道なりに続く奥の右手側にあるベンチを指差した。幸い誰も使用していない。自転車が通りかかっているが……え!? あれ!? あれって二人乗り用の自転車じゃないか!? すげえ始めてみた! フレーム長え! そしてなぜだろう二人でこいでるのに逆に非効率的に見える!
「ここからあのベンチまでが、ちょうど百メートルくらい。今のおまえがどれくらい走れるか確かめるから、私と一緒にあそこまで全力だ」
「夏波さん」
「なんだ」
「あの自転車乗ったことあります?」
「……ねえよ。あれ恋人同士で乗るんじゃないの?」
「あ……す、すいません。僕……」
「友晴」
「はい」
「今すぐその『彼氏いなくて寂しい青春送ってること思い出させてすみません』みたいな済まなそうな顔をやめないと、瞬時に生まれたことを後悔するほどの苦痛をもって泣き顔に変えてやる」
「さあ早く始めましょう。早く。その手を引っ込めて」
夏波さんの突き刺すような視線を華麗に無視し、僕はぐっぐっと屈伸して膝とアキレス腱を柔らかくする。
夏波さんの突き刺すような視線を頭に感じていたが、なんとか乗り切った。
「じゃあ行くぞ。あの自転車の後輪があそこのベンチを超えたらスタートな。よーい――」
は、早い。すげえ早い。
これが本職の陸上選手か……って、夏波さんはプロ的なものではないのか。プロ的なものがあるのかどうかも知らないが。
結果は、夏波さんの圧勝。三秒くらい差があったかもしれない。
僕は完全に、夏波さんの背中しか見えなかった。
「うん。言うほど遅くないな」
息切れもせず、夏波さんは言う。身体も手足もこんなに細いのに、どこに体力と筋力を蓄えているんだろう。これも人体の不思議かもしれない。
「てっとり早くスピードアップするなら、筋肉を作って足の回転を上げること。そして走りこみだ。まあこれらは私がいなくてもできるから、まずはフォームの改善だな」
「フォーム……」
「それなりに速いから、そこまで悪くはないと思う。それに――」
夏波さんはずいっと僕に近寄ると、あろうことかケツをまさぐった。
「ひいっ!? ち、痴女――いててててて!」
僕の悲鳴は、夏波さんの右手に吸い込まれた。いつのまにか必殺のアイアンクローを食らっていたのである。つかいてえ! これいてえ! すげえいてえ! 割れる割れる! マジ割れるって!
「意外と真面目に走ってるな。口ではなんとでも言えるが、」
夏波さんは僕を解放し、健やかに笑った。
「走っている奴の尻は、筋肉の付き方が良いんだ。筋肉は嘘をつかないからな」
「え? 触ってわかるもんなんですか?」
「触り慣れていればね。すぐわかるよ。ああ、そういえば秋雨もおまえと似たような反応してたっけ」
秋雨とは、高井君のことである。……あ、そういえば。
「前に高井君にもケツ触られました」
ジャージが欲しい云々言っていた時に。男として男に対する貞操の危機には自然と敏感にならざるを得ないので、よく憶えている。……最近はマコちゃんが違う意味で触ってくるのが気になるが。
「そりゃ友晴がどれだけ走ってるか確認したんだろうな」
そうか……そういやいつだったか、洋子さんも「友晴はともかくアキは信じる」とか言ってたもんなぁ。「適当な奴を紹介するはずがない」とか言ってたっけ。
「じゃあフォーム見るから」
走っている時の体勢、腕の振り方、足の上げ方から出し方……突き詰められた無駄のない走り方を、夏波さんは意外なくらい丁寧に優しく教えてくれた。
本当に、この人は走ることが好きなんだろう。
そう思った。
なんだかんだで合流して一時間が経っていた。
それでも集中してやったせいか、極々短い指導に感じられた。本当にこの程度でいいのか、と逆に不安になるくらいに。
「やりすぎたら故障するから注意しろ。休憩もトレーニングの内だ」
それから身体を休めている間に、効果的な練習方法を教えてくれた。
坂道を走れ、と。
とにかく坂道を走れ、と。
……この辺に坂道なんてあったっけ?
「で、問題の赤ジャージには、三回負け越してるんだっけ?」
「そうですね。一勝三敗ですから、三回勝たないとリードになりません」
「じゃあ友晴が勝ち越すまでは付き合うからな。……というより勝ち越すまでやらせるからな」
……oh……夏波さんが燃えてる……
「そこまでやったら、そのジャージのことも諦められる。そのあとはもう捨てるなり誰かにやるなり好きにしろ」
「まだ納得できませんか?」
「おまえが陸上部……どころか、運動部だったら、それでも充分だったけどね。帰宅部だろ。それを欲しがってた後輩も他にいたし、なんでよりによって帰宅部の奴なんかに……それも使用済みにこだわるヘンタイにさ。女々しいのはわかってる。でもやっぱり納得いかない」
夏波さんは僕を攻めるでもなく、遠い目をして空を見上げていた。……このジャージを着て駆け抜けた、過ぎし青春の日々を思い出しているのかもしれない。
そんな夏波さんが、過去から戻ってきた。
「納得したい、とは思うようになったかな。半分もいらない、一割くらいでいいから私のために走ってよ」
「勝ったらキスしてくれる?」
「ああ、いいよ。思う存分、地面にキスさせてやろう」
……夏波さん、僕はドMじゃないんです。だからそれはご褒美じゃないんです。
改善されたフォームに慣れない。
だから、慣れる頃には再戦の準備が整ったものとして、再びあのジョギングコースに戻ろうと思う。
待ってろよ赤ジャージ! 絶対追い抜いてやる!