043.六月九日
ゴッ
骨が鳴った。強烈な衝撃が頭を駆け抜け、僕は倒れた。
「一之瀬!」
「大丈夫だ」と言う代わりに僕は手を上げ、すぐに立ち上がった。いてえ。でもそんなに痛くない。
それよりだ。
「柳君、さすがにもう無理だ。見えない」
時刻は七時を過ぎている。辺りはもう暗く、ひと気もない。
僕らB組ワーストナインだけが贅沢に校庭を使っているという様相だが、もう暗すぎて飛んでくるボールが見えなくなっていた。
時間が足りなかった。それがどうしても悔やまれた。
だが、泣いても笑っても、大会は明日だ。
そろそろ切り上げないと明日に障る。それに、僕のようにボールが直撃して怪我をする者も出るだろう。使用しているのは硬球ではなく軟球だが、痛いものは痛いし。……つか痛いなこれ! あ、すげえいてえ! どんどん痛くなってきた!
まあ、痛いはずである。まともに頬に直撃したから。
「よし、ここまでだ」
ノックしていた柳君は、最終日の練習終了を宣言した。
「うわー……腫れるかもね」
「え? そんなひどい?」
ちょっと腫れている気はするが、痛みはだいぶ引いている。
覚醒した乙女マコちゃんが、擦り剥けた頬の傷に絆創膏を張ってくれた。教室に着替えに戻った僕らワーストナインは、黒板に書いてあった「さっさと帰れ by三宅」の言葉に従い、さっさと学校を出た。
団体競技というものは、本当に心がまとまる。
数日前まではクラスメイトでもまともに話したことのなかった連中が、今では長い付き合いの友達のように横で笑っていたりする。なるほどクラブ経験のない僕は知らなかったが、チームメイトと分かち合うものがあるからこそ、つらい練習にも耐えられるのかもしれない。
八十一町商店街に差し掛かると、一人抜け、二人抜け、ワーストな奴らが減っていく。そんなこんなで八十一駅に着く頃には二人になっていた。
駅に向かう池田君と城ヶ島君を見送り、雑踏に飲まれて背中が見えなくなると、僕は柳君を見た。
「行こうか」
「ああ」
僕と柳君は、駅に背を向けた。
僕は昨日、本気を出そうと決めた。
そして柳君と一緒に絶望することも決めた。
だから勝つための努力をしている。昨日から。ガチで。
僕らが向かった先は、駅のすぐ近くにあるバッティングセンターである。
昨日と今日、柳君と一緒に来ている。実は柳君も僕も、あまり野球経験がなかったのだ。僕は小学生の頃に遊びでやったくらいだし、柳君も似たようなものらしい。
つまり、まともなバッティング経験がほとんどなかった。……まあそれでも柳君は、昨日一日でノックまでできるほど上達したわけだが。彼はイチ●ー張りの打ち分けもできるし、強打も狙える。やっぱりできる奴である。そして超イケメンだ。今度わりとマジで殴ってもいいか聞いてみようと思う。
どちらかと言うと、これが必要なのは僕だ。
守備ポジションが決まると同時に、打順も決められた。僕は一番で、とにかく塁に出ることが一番の仕事になっているらしい。僕が塁に出ないと始まらない、とまで言われた。情報通の渋川君に。
そもそも、バッティング練習まで手が回らなかった、というのがあったりする。
バットに期待されている連中は、素振りくらいしかできなかった。周りに人が多かったのでボールを打つことはできなかったのだ。ノックも人が減ってからやったくらいだし。
快音を響かせボールを打ち分けする柳君の隣で、僕もバットを振っていた。
野球部である、妹が好きすぎる長谷君と性癖がヤバイ上野君の教えを意識し、バットを短く持って身体の流れを意識して丁寧に振る。
僕の仕事はボールを遠くへ飛ばすことではなく、守備のいないところへ転がして内野安打を狙うこと。……と渋川君が言っていた。その辺を意識して、ボールを打つのではなく、バットに当てることを意識して転がす。
僕は普通にしかできないので、こんな付け焼刃がどれだけ役に立つかはわからない。まあでも、やらないよりはマシだろう。ようやく空振りはしなくなったから。
フォームを見ている柳君が言った。
「調子いいな」
「僕もほとんどゼロからだからね」
バッティングに関しては、そもそも上も下もないって初心者からスタートである。伸びるか現状維持以外ありえないだろう。
だが、柳君の言う通り、調子はいいのかもしれない。バットのダメなところに当たったら手がしびれるが、いいところで当たったら心地よく響くのだ。いいところに当たるのは希だが、ダメなところに当たるのはだいぶ少なくなったと思う。
スピードや変化球といったコースも少し打ち込み、三十分ほどして僕らはバッティングセンターを後にした。
もうすぐ八時だ。
「兄さん」
不意の声に、僕の脳が一瞬停止した。
そして一瞬の後、それが何を意味するのか察した。
「藍ちゃん!」
「あ、はい。おひさしぶりです一之瀬さん」
バッティングセンター入り口、自動販売機の光がまぶしいそこに立っていた美少女は、柳君の妹・柳藍ちゃんだった。邪魔な柳君をぶつかりつつ追い抜き、僕は藍ちゃんの前に立った。うおーすげー。この造形美の結晶としか言いようのない存在は、本当に人間か? そんな疑いを持ってしまうくらい美しい。
もうね、もうね、このまま直視し続けたら心臓が破裂するんじゃないかってくらい一気にテンション上がったわ! 疲れてたはずなのね!
「結婚してくれ! 元気だった!?」
「イヤです。元気ですよ」
「じゃあ一緒にお茶しよう! 何してるのこんなところで!?」
「二人きりはイヤですよ。兄を待っていました」
「彼氏と別れた悲しみを乗り越えるために僕と少し遊ぼうよ!」
「別れてません……って、今のさりげない誘導尋問ですか? 誘導尋問ですよね?」
チッ。別れてないのか。くそっ。フラれろよ彼氏っ。あと野良犬に噛まれろっ。
「あら。顔の怪我、どうしたんですか?」
「君のおにいさんにやられた。責任を取ってく――おぅっ」
柳君の蹴りが僕のケツを強襲した。
「うるさいし不愉快だ」
「なんだよ不愉快って。君の妹を必死こいて口説いてるだけじゃないか」
「それが不愉快だと言っている」
「そんなことばっか言ってると、将来おにいさまって呼んでやらないからな」
「むしろそれを望む」
柳君と言い合っている向こうで、藍ちゃんは思いっきり笑っていた。うん……柳君と一緒で冷たい印象が強いのに、笑うとやっぱりかわいいなぁ。……僕の妹もこんなんだったらなぁ……
「ところで、なんでこんなところで待ってたの? まさか僕に会うために」
「いえそれはないですけど」
「…………」
「今日は兄と外食する予定だったので、このバッティングセンターで待ち合わせしていたんです」
だそうだ。
「中まで来ればよかっただろう」
柳君が言うと、藍ちゃんは首を傾げた。
「兄さんと一之瀬さんの逢瀬の邪魔をするのも本意ではありませんから」
逢瀬……っておい。
「藍ちゃん、意外と面白いね」
「ありがとうございます。でも一之瀬さんには負けますよ」
「つまらんことを言ってないで、もう行くぞ。じゃあな一之瀬」
「うん。――明日、がんばろうね」
「ああ」
柳兄妹が去っていく。
「……さて」
僕は小さく息をつくと、再びバッティングセンターへ足を踏み込んだ。
藍ちゃんと会えたことで、かなりテンションが上がったのだ。もう少しがんばれそうだ。ていうか、もう少しだけがんばりたい。
そして、勝って藍ちゃんに自慢したい。
君の兄さんの隣にいるもやしっこは、意外とやる時はやるんだぞ、と言ってやりたい。言って好感度を上げて求婚したい。
そんな野心もあったりなかったりしつつ、僕はまたバットを振る。
明日まではがんばる。
そう決めているから。
球技大会は明日だ。
僕らの絶望も、明日までだ。
あと全然関係ないが、藍ちゃんの彼氏は無条件で絶望しろ。