042.六月八日 水曜日
戦略。
「孫子曰く――」という語りは説明するまでもなく有名なものだが、戦略について詳しい人は少ない。
そっちで有名なのは「敵を知り己を知れば百選危うからず」だろうか。背水の陣や、風林火山も一応戦略に含まれるだろうか。
僕は今、戦略というものを目の当たりにし、驚いていた。
朝、教室に入ると同時に、ワーストナインに囲まれた。相変わらず絶望的なメンツである。
僕は何がなんだかわからないうちに席に着かされ、挨拶も飛ばして話を聞かされた。
「……というのが、俺たちが考えた結論だ」
インドアゲーマー池田君と大沼君、そして自称情報通の渋川君で考えたというそれは、僕に戦略のなんたるかを教えてくれた。
――勝てる、のか? このワーストナインが、本当に勝てるのか?
彼らが話した計画は、異様な説得力をもって僕を悩ませていた。
そりゃ確かに、あくまでも机上の空論の域を出ない。実績どころか実力さえ足りない僕らだ。まともに機能すれば勝機は出ようとも、まともに機能することさえ怪しいのが僕らという存在だ。
だが、説得力はある。少なくとも僕はそう思った。
隣を見ると、柳君はまだ来ていない。ぜひ柳君の意見が聞きたかった。
「一之瀬から柳に話してくれないか?」
渋川君をはじめ、皆の期待が集まっている。
どうやら僕の役割は、実質リーダーである柳君とのパイプ役と定められたようだ。柳君に任されたまとめ役……かどうかはわからないが、まあ、そう遠くはないだろう。
「それは構わないけど、もう少し詳しく聞かせてくれる?」
「ああ。なんでも聞いてくれ」
うん……まず、だ。
「調査に寄ると、竹田君と同じように考えるクラスが多かった。つまり他所のクラスもワーストナインを選出して野球を捨てている」
「そうだ。もちろん捨ててないところもあるが、基本的に野球部員とワーストが組まされているという形が多いみたいだ。その辺の理屈は竹田の考えと同じだと思う」
バスケとサッカーは、個人に掛かる負担が大きい。突出したストライカーやエース、フォワード、とにかく点取り屋がいればチームバランスはそれなりでも勝機はある。が、その反面、誰か一人でもできない奴が入ったら、野球の比じゃないくらい不利になる。
対する野球は、一人がすごく上手いだけでは、決して勝てないのだ。
バッターに対しては敬遠という、勝負から逃げる方法がある。優れたピッチャーだっていずれは必ず疲れる。そもそも他校の野球部同士のガチンコではなく、クラス単位での勝負である。早々一クラスに一人優れたピッチャーがいるはずもない。
「むしろ恵まれているかもしれないね。うちは」
柳君は言うに及ばず、グルメボス松茂君の運動神経も充分戦力になる。大沼君も意外とできるみたいだし、僭越ながら普通にできる僕や、ぼっちの立石君も戦力に成りえるかもしれない。ワースト相手なら。
つまり、点を取るチャンスはあるということだ。バッターとしての火力は意外とあるということだ。
僕らのブレインは、そこに着目した。
「俺たちはバッティングを捨てる。代わりに確実に守備のレベルアップに努める」
そう――点を取る役割とそれ以外を、完全に切り分けるという練習プランの提案だ。そもそも点が取れそうな奴は守備もすでにそれなりにできるのだ。ならば、あとは穴だらけの守備陣をできるだけ埋めることに専念したい、と。
まだ対戦相手はわからない。
だがもし相手が我らワーストナインと同じくワーストナインを選出していた場合、むしろ勝てない理由がない。
だってこっちには柳君がいるんだから。
そして、やる気もあるんだから。
「一応、守備のことも考えてみたんだ。ファーストは身長が高い奴が有利なんだってさ。だから池田は今日からキャッチボールを徹底させる。城ヶ島は意外と反応速いみたいだからショートだ。柳はやっぱサードでいいと思う。サードからファーストって結構距離あるから、肩が強くないとな」
す、すげえ……マジで考えてきたのかよ。己のワーストっぷりを見詰めるだけでも絶望的なのに、彼らは更にその奥を覗いてきたというのか。
……そうか。
本気で勝ちたがっているのは柳君だけで、僕だけはそれに付き合うつもりだったが。
でも、気持ちは彼らも同じだった。
たぶんバカだからだろう。諦めた方が楽ってわからないんだ。きっと。
「どうやら僕も本気を出さなきゃいけないようだ」
僕も勝つために、やってやろうじゃないか。バカじゃないけどね。
登校してきた柳君を捕まえ、渋川君たちが用意してきたこれからの練習プランを話してみる。
「ああ、いいんじゃないか?」
「真面目に聞けよバカ野郎! もう遊びじゃねえんだよ!」
「……すまん。だがいつも通りなんだが……」
「柳君も勝ちたいんだろ!? 気合い入れろ!」
「それはすでに入っている。そうじゃなければとっくに放り出している」
「あぁ!? ……ああ、そりゃもっともだ」
一番負担が掛かっていたのは、このワーストナインを引っ張っている柳君だ。一番絶望を感じていたのも柳君だ。愚問だった。
「そうか、戦略プランか……本気なんだな」
柳君の鋭い目が、柳君を囲むワーストナインを捕らえる。
「圧倒的に時間が足りない。昼休みも使うぞ」
「「おう!!」」
必要なことは話した。気合い充分のB組ワーストナインが散っていく。
本当の意味で、ようやく動き出した。そんな気がした。
「一之瀬、勝つための布石を打つぞ」
「何するの? よそのクラスの弱味を握るの?」
「違う。野球部に手伝わせる」
「わかった。手伝わせるために弱味を握るんだね?」
「いや違う。普通に頼め。放課後はそれぞれ練習があるから、休み時間中に奴らの昼休みを確保するんだ。説得は任せる。俺は道具を借りてくる」
「わかった。ついでに弱味も握っておくよ。あいつらなら大丈夫」
「……ああ、まあ、できるものならやっておいてくれ」
野球部の長谷君と上野君に声を掛けてみた。
「え? 昼休み?」
「悪いな。俺ら食堂だからよ」
予想通り難色を示した。その顔はムカつく薄ら笑いである。「おまえらどうせやっても勝てねえんだから大人しくしとけよ」とでも言いたげな、容赦なくイカ墨ぶちまけてやりたくなる顔である。
「頼むよ。ちょっと見てくれるだけでいいから」
「諦めろよ、一之瀬」
「さすがにあのメンツじゃ無理だって」
「これだけ言ってもダメかな?」
「ダメだって」
「つーか無理だって」
「そうか……じゃあしょうがないね」
どうやら、まったく手伝う気はないらしい。
ふ……仕方ない。最初から素直に従っておけばよかったものを。
「長谷君」
「なんだよ」
「――涙目の妹は俺の●●●が●●」
「…っ!?」
長谷君は椅子を蹴って立ち上がった。その顔は驚愕にゆがみ、搾り出された口から声にならない「なぜ……!?」が漏れる。
友達の異様な反応に、怪訝な顔をする上野君。
安心していい。次は君だ。すぐにわかるよ。
「上野君」
「な、なんだ?」
「――ボクは●●●●娘なのに●ちゃん●●●」
「だっ……な、なっ……!?」
上野君も椅子を蹴って立ち上がり、戦慄に震え上がる。やはり口から漏れたのは声にならない「なぜ……!?」である。
「お二人とも、随分特殊な嗜好をお持ちのようで」
クックックッ、と笑う僕。心底愉快に笑う僕に対し、二人の顔はすでに青ざめている。
「な、なんで知ってるおまえ!?」
「た、た、頼む! それだけは! それだけは絶対に秘密にしてくれ! もしバレたら生きていけねえ! ていうかあの時はほんとたまたまそういうのを買っただけで……その、なあ!? わかるだろ!? 新境地開拓っつーかさぁ!」
「――昼休み時間ある? よかったら手伝って」
答えなんて、聞くまでもなかった。
なぜ僕が彼らの秘密を知っているか。
それは非常に単純な話で、彼らがそれを購入する現場を見ていたからに過ぎない。
僕もたまたまいたんだよ。
八十一町の片隅、僕ら高校生がソレを買えるという稀有にして貴重極まりない本屋に。
そして僕も君たちと同じく待っていたんだよ。
決してその現場を見られないよう、客が少なくなるまで、コミックと雑誌の間に獲物を挟んでね……!
別に普通のアレ本なのであれば、話したところでなんの効果もない。それくらいは高校一年生なら大体誰でも持っている。むしろ持っていない方が珍しい。せいぜい誰かに「昨日はお楽しみでしたね」などと言われるくらいだ。
だが、彼らは少々好みがエグすぎた。特に上野君はヤバイ。
「連れ立って買いに行くの、やめた方がいいよ。目立つから」
そんな助言を残し、僕のミッションは終了した。
あの場では、仲間意識が油断に繋がる。
仲間であるはずなのに、その仲間が強く注意を向ける対象になってしまう。ゆえに周囲への警戒が甘くなるのだ。
彼らが僕を発見できなかったのは、偏に、互いが互いにどれを選ぶのか、できれば相手にバレたくない、そんな羞恥心をお互いに向けてしまったからに他ならない。
まあ、仕方ないのかもしれない。
単身潜伏し、気配を絶ち、敵兵が去るのをただただじっと待つ――そんな孤独にして孤高な戦いを放棄しぬるま湯を選んだ彼らが、泥水の中に潜伏している僕を見つけられる道理があろうものか。
いつだって、男は男である時、一人なのである。
僕らの本性は、いつだって孤独なソルジャーなのである。
ちなみにその時僕が買ったのは「白衣の天使●●●●で●っちゃう」であることは、別に特筆するようなことではない。
が、これはいつか約束した、隣のクラスのアイドルに渡すための教材であることは、触れておくべきだろう。
……このご時世、自由に使えるネット環境がないって、大変だよね。
球技大会まで、残り二日。
僕らの絶望も、あと二日。
そして度を過ぎた妹好きの長谷君とヤバイ性癖を持つ上野君の絶望は、始まったばかりだ。