003.四月二十二日 金曜日
その音は魔力を持っている。
その音が喜びと開放と絶望の時を告げる。
みんなが待ちに待ったその音が八十一高校に鳴り響く瞬間から、今日もこの学校が血なまぐさい戦場と化す。
まだ教師がいて、教科書を片手に、工夫と知恵と先達の教えを練り上げ考えに考えたプランに添って学びの話をしている最中であろうとも、僕らは止まらない。
日常にあり、毎日のように革命を告げる音――それは四時間目終了の鐘。
もはや鳴ろうか否かというタイミングで、クラスメイトたちが教室を飛び出す。いつ見ても見事としか言いようのないスタートダッシュ。……というか僕的にはちょっぴりフライングに思える者が数名いるが、まあ、ほんの一、二秒のことだし許容範囲だろう。
彼らは生きる糧を求めし駆ける獣である。
狼男は深遠の銀月を瞳に灯して獣と化すが、八十一高校では革命の鐘が彼らを野獣にする。この時ばかりはクラスメイトも敵同士で、誰もが何者にも容赦しない。
我らが担任の国語教師・三宅弥生たんはケダモノどもを止めようという気配もなく、「終わるか」とチョークを置き、半数ほどが席から消えた僕らに向き直る。たぶん毎年、そして今年も毎日繰り広げられる(授業的な意味の)フライングダッシュについて、もう関わる気がないんだと思う。ぶっちゃけ諦めているんだと思う。
というか、きっと止めても言うこと聞かないだろうね。誰も。僕でさえそれがわかる。
僕も一度だけ、あのダッシュに混じって食堂に行ったことがあるのだが、……まあ、購買周辺含めて地獄だった。
飢えたケダモノどもが力ずくでエサを争い、奪い合い、貪り食らう様は、僕に戦場という過酷にして残酷な現実があることを、理屈ではなく本能に教えてくれた。平成も二十年を回る日本において、まさかあんなにも野蛮で原始的な弱肉強食の世界があるだなんて想像もしていなかった。
……一ヶ月にも満たない高校生活の中、あえてカルチャーショックと呼びたい八十一高校の文化に幾度も触れ、戸惑い、慣れたつもりになっていたのだが……僕はまだまだ、このバカ溢るる学校を甘く見ているのかもしれない。
毎日のように繰り返される食堂戦争を目の当たりにしたその時、空腹を抱えていた僕は、今後必ず弁当を持ってくることを決意した。もしくは朝のうちにパンを買っておこう、と。貧弱な僕では弱肉強食の過酷極まりないあの世界で生きていくことはできそうにない。あれに関わると死ぬことをちゃんと教えてくれた、自分の生存本能に従おうと思う。
しかし、食堂や購買付近は戦場でも、そこ以外は比較的平和である。
むしろそこが戦場だからそこ以外が平和なのかもしれない。弁当もしくは食料という物資的余裕を持つ僕たちは、向こうと比べるなら天国に等しい、穏やかにして普通と呼べる昼食風景の一部になりえている。
「今日も妹の弁当か?」
隣の柳君が、僕が鞄から出した青い包みを見て問う。ちなみに柳君の昼食は、毎日コンビニで朝買ってくる二切れほどのサンドイッチと、小さなブラックの缶コーヒーのみである。いつも不思議に思うが、量的にあれで足りるというのが信じられない。
「いや、今日は母親の」
僕には妹がいて、自分の弁当を作るついでに、時々僕の分の弁当も作ってくれることがある。
妹の料理はお世辞にも上手とは言えないが、ついででも作ってくれる気持ちが嬉しい。ちょっとずつ腕が上がるのを確認できるのも密かな楽しみだ。
「一之瀬の妹は、中学生だったな?」
「中三。受験生だよ。……あ、そういえば柳君にも妹がいるんだっけ?」
「中二だ」
奇遇である。案外同じ中学校だったりして。でも学年が違うから同じでもあんまり関係ないかな。
「どんな子だ?」
なんだ。僕の妹に興味でもあるのか、と勘繰って柳君を見れば、柳君は全然興味なさそうに缶コーヒーのプルタブと悪戦苦闘していた。どうやら最近爪を切ったらしい。
「……どんなって言われてもなぁ」
一言で言えば、強烈、だ。
気が強くてプライドが高くて外面が良くて、学業は優秀で運動も得意で……何事も普通の僕より全てが二段階くらい上、と言えばわかりやすいかもしれない。
「僕さ、一週間遅れで高校来たでしょ」
「ああ」
「それ開けようか?」
「頼む」
カツッ、カツッ、とプルタブを引っ掻いていたのが気になったので、僕は渡された缶コーヒーを開けて柳君に返した。ちなみに豆知識だが、プルタブが開けづらい人は硬貨を使うと楽に開けられます。その内柳君にも教えておこう。
「引越し自体が結構急で、荷造りなんかがギリギリまで掛かっちゃってね。それでもなんとか終わらせたんだけど――」
その時まさかの、妹の怪我が発覚した。
「引越し準備が始まってすぐの頃に、妹が足を捻挫してたんだ。僕たち家族は全然気付かなくて、いざ業者が入るって時になってから妹の荷造りが全然終わってないことが発覚して」
「おまえが代わりにやった?」
「そういうこと」
思春期バリバリの中学三年生、いや、当時は一応二年生の女の子だ。
いくら父親や兄だとしても、異性に自分の物を見せたくない、触らせたくないという気持ちはわかるつもりだ。いや、むしろ身内だからこそ見せたくないという想いも強かったのかもしれない。僕だって母や妹には絶対に見せられない物や触らせたくない物がたくさんある。主にエロス方面で。
気が強くプライドが高い妹は、怪我を我慢してでも自分でやるつもりだった。が、足が痛くてどうにもならない。唯一相談できそうな母親も荷造りなどで忙しい。そんなこんなでテンパって、追い詰められて、余計言い出せなくなってしまった。
「放置してたせいで怪我もちょっとひどくなってたし、親父の仕事もあるし、母さんは母さんで引越し先の挨拶回りとか忙しそうで時間が捻出できそうにない。業者に頼めばすぐ終わったんだろうけど、妹が他人に荷物を見られるのはどうしても嫌だって言ってね」
そこで驚愕の一言が飛び出すのだ――「業者に頼むくらいなら兄にやらせる」と。それはもう妹は堂々言い放ったね。
ええ、妹監視&監督の下、僕は馬車馬のように働きましたよ。下僕と化して働きましたよ。妹の荷物をまとめて、しかも食事の調達やら買出しやら何から何まで一週間ほど付き人みたいなことをやりましたよ。
……色々握られてるんだよね。秘密とか。だからよっぽどのことがないと逆らえないんだよね。
これ以上妹の話をすると、奴に植え付けられたトラウマに触れそうだ。身体が恐怖で震え出す前に、この辺で話を変えた方が身のためだろう。
「柳君の妹は?」
「普通だ」
嘘だな、と僕は思った。
何せ兄貴がコレなのだ。超絶イケメンなのだ。妹も超絶美形の美少女である可能性は非常に高い。……まあ柳君が言ったのは外見ではなく、性格のことかもしれないが。
そんな取りとめのない話をしながら、僕は普通の内容物が詰まった普通の弁当を遅くもなく早くもない普通のペースで普通に取り、柳君は早々にサンドイッチを食べ終わって優雅にしか見えないコーヒーブレイクに入っていた。似合うなぁ、コーヒー片手が。
僕の昼休みはいつもこんな感じだった。
「――待たせたな一之瀬! 柳!」
そして、全然まったくさっぱりわずかにもかすかにも雀の涙ほどにも塵一つ分さえ待っていない裸自慢・高井君が、購買パンをゲットして戻ってくるのも、いつものことだ。
これもいつも思う。
一年生でありながら高井君はあの地獄へ行って戦果を上げて帰ってくる、かなりすごい奴だ、と。
あの筋肉は伊達じゃない、ってことだ。
もう見飽きたけど。